中国古版画散策 第一〇二回

投稿者: | 2026年2月16日

媽祖の周辺①
詳細な名所図会

瀧本 弘之

 国会図書館に「媽祖」についての歴史的書籍が収蔵されている。媽祖は中国浙江地方を中心とした地域の海神信仰の女神で、その信仰は東アジアに幅広くひろがっている。もちろん日本にも、長崎・横浜に「媽祖廟」があるのだが、新宿(新大久保)など意外なところに媽祖が祀られていたりしてびっくりする。より知名度がある関帝廟と劣らぬ広がりだ。
 その業績を記した清代の書籍『天后聖母聖蹟圖誌』(国会図書館蔵)を中心に、2回に分けてその周辺を探っていこう。

図1 天后聖母聖蹟圖誌の封面

 『天后聖母聖蹟圖誌』は4冊本で、封面(図1)には罫で3つに分けられ文字が記されている。最初には「道光十二年壬辰重鐫」その下に、蘇州の刻字店の名称がしるされ、真ん中の行は「天后聖母聖蹟圖誌全集」と二行に分かち書きされ(巻一の始まりには「天后聖母聖蹟圖誌」とだけある)、最後には「倘要刷印向問天后宮内道房寄印可也」の注意書きと「上洋壽恩堂藏板」の文字があり、版が上海の書肆の持ち物であることが記されている。この本は国会図書館に所蔵されているが、北京の国家図書館本はネットで公開され(ウォーターマーク入り)、ハーバードの図書館にも所蔵がある。相当広く流通していたのだろう。しかし、「重鐫」ということは原刻本があったことを示しているが、その存在は分からない。
 この本自体は結局蘇州閶門の刻字店三槐堂が彫り、上海の壽恩堂が版を所有して印刷発行していたようだ。道光12年は西暦で言うと1832年、和暦では天保3年となる。天保時代は日本では水野忠邦の「改革」で有名だが、この頃改革はまだ始まっていない。面白いのはこの年に、義賊などといわれた鼠小僧次郎吉が捕まって処刑されたということだ。幕末にはもうすこし時間があり、中国ではアヘン戦争まぢかという時代。ではもう少し詳しく見ていこう。

 媽祖は別名・天后などで呼ばれるが、これは歴代の朝廷が繰り返し彼女の功績を顕彰して位を授けていったことの表れで、天后はそのもっとも高い位だろう。ここに最高の敬意が含まれているわけだ。
 媽祖は元代甫田地域の林氏の息女で、生まれたときに泣かなかったため「黙」と名づけられたという。長じて聡明さをあらわし、後に父と兄が乗った舟を救うために霊験を示したなどとされる。最後は昇天して神となった。海の安全を守るとして信仰は船乗り・漁民などに広がり、明清から現代まで幅広く崇められている。
 この『天后聖母聖蹟圖誌』は4冊本で全二巻だ。第一巻は第1冊と第2冊。1冊目は文字と挿絵でいわゆる名所図の類。2冊目は文字がほとんどで1図だけ挿絵がある。
 3冊目と4冊目が第二巻となる。これらには媽祖の伝記が絵を伴った「連環画」で登場する。しかも50図に及ぶ詳細なもので、その生涯に顕した奇跡の数々が説かれている。最後には、媽祖のおみくじ100種類の解説がある。これはこの本が各地の媽祖廟などで販売されていたことを示しているのだろう。

図2 琉球に勅使として向う林鴻年

 挿絵だけについて見ると、一番初めに出てくる場面は、船に乗って琉球に向かう「林鴻年」の「肖像」だ(図2)。まだ媽祖は登場しない。林氏は当時の福建地域の著名人である。2冊目に「封琉球獲佑 欽差」と説明されている「林鴻年」その人で、彼は道光19年に琉球に勅封の欽差大臣・正使として出向いたという。「獲佑」は天佑を得たということだろう。天佑とは正に媽祖の助けだ。琉球に向かうさいに船が暴風雨に遭ったものの、媽祖の力で事なきを得たということを絵でしめしている。林鴻年は清朝・福建で初めて状元となった著名な人物だから、地元の英雄であった。こうしたことからこの挿話は媽祖の威光と林鴻年の権威を描き出す話柄になっている。但し、絵の中には媽祖が彼を暴風から助けた直接の描写はない。彼が船に乗り琉球に向かう図は一連の出来事の象徴として描かれているようだ。船が琉球に向かうと、先方がひれ伏して勅使を出迎えている図になっている。これが第2冊にある唯一の1図だ。次いで第3冊になり複数頁を活用した詳細な「賢良港図」「湄洲古蹟」の二図となる。いずれも横長のもので、頁をまたいで掲載されている。

図3 賢良港図。現在「賢良港」の地名は殆ど知られていない

 「賢良港図」と巻一の版心にある図は、3葉分を費やして横長に描かれる。繋いでみると、3分の2以上が波立つ海の描写で、手前に岩壁が少々、向こう側に岩山が連なり、左側に人家が数軒集落をつくっている。海の中には二隻の舟が白い帆を立てている。のどかな海浜の風景である。この3葉に続いて「湄洲古蹟」の図が登場する。横長で大きいので、2つに分けて掲載する。

図4 湄洲古蹟図 全体で7葉を繋いで一つの図としている

 上の図の左が下の図の右に続く。これは頁にすると7葉分で、湄洲古蹟の全体をカバーしている。最後の一葉の左下の部分に「賢良港」と小さく文字があるのが分かる。この部分と賢良港を繋げて考えよという指示なのだろう。7枚続きの「湄洲古蹟」初めの一葉には、天に突出した岩が見える。これには、「観音石」と書かれている。二枚目には、なだらかな山の中央に中山、その下に顕鏡寺とあり、ここが寺であることが分かる。その隣の一葉には、観音堂とある。そこにいたる道に、ひとり長い杖をついた人物が見える。この一人によって深山幽谷の雰囲気が漂う。この地域が仙界であることを暗示しているのだ。次の一葉にいたると、土地廟・中軍廟の文字がある。
 その先の岩山のてっぺんには、観瀾と書かれている。「瀾」は大波という意味だから、ここから海の波濤をはるかに眺める好適地とでも言うべき場所なのだろう。次の二葉はこの名所図のハイライトで、「昇天古蹟」「正殿」とある。ここが媽祖の昇天したその場所だというので、立派な殿宇が建立されているのだ。手前に仏堂や朝天閣、そして女神の媽祖のための梳粧楼などの文字が見える。
 横長に「湄洲古蹟」を延々と描写しているが、それはこの地が聖地であり、女神・媽祖が昇天した場所であるからだ。人物はたった一人点景に用いられているが、それも俗人ではないいわば古雅な人物で、これは聖地を強調するためだろう。

 次回は、後半の媽祖の生涯の「聖蹟図」について調べていく。

(たきもと・ひろゆき 著述家、中国版画研究家)

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