琵琶記の挿絵⑥
紆余曲折を経て夫の所にたどり着く五娘の苦闘
瀧本 弘之
長丁場もいよいよ後半に差し掛かってきた。
琵琶記の挿絵を辿っていくと、蔡邕と牛氏の二人が牛宰相の意向によって無理やり結婚させられた婚礼の場面「強就鸞鳳」が、いちばんの「クライマックス」だったように感じる(第九十五回)。出来栄えもよい。事実あの場面は他の版本の全く別の話に流用されている。婚姻の場面として絵になると考えられたのだろう。一例を挙げてみよう。下(図2)は元々の内閣文庫の「陳大来本」の『琵琶記』で、上(図1)はこれを参考につくられた四川刊本だが、そっくりそのままではなく、一部変更や省略がある。元の『琵琶記』は状況を忠実に反映して人物構成がなされているが、参考にしてできた方は宰相や楽団の人員など不要な人物を巧みに消してそれでいてほぼ破綻がない。
模倣してできた版本は『新刻全像⾳詮征播奏捷傳通俗演義』六巻、略称『征播奏捷傳』の「佳麗書林重刊本」である。「佳麗書林」は四川の書肆らしい。図の上には横長に、左右にも文字を付け加えて、この場面の説明としている。この左右と上の文字入り形式は、もともと金陵や建陽で発達したもので、文字の助けを借りて理解を深めさせる「親切な」手間のかかった本だ。こうした文字入りの金陵刊本では、『三国志通俗演義』などが最も代表的なものとして知られている。


さて『琵琶記』四十二幕(齣)のうち、最初は「副末登場」なのでここに挿絵はない。我が国の文楽で初めに登場する黒装束の人物の口上のようなもので「次の幕では何々が演じられます。とざい、東西~」といって引き下がるのに近いから、特に絵にはしない。
内閣文庫の『重校琵琶記』の目次で全幕を一応おさらいすると、次のようになる。

前回は、「三十三幕(齣) 聴⼥迎親」の場面まで進んだ。これは牛丞相が娘の牛氏の諫言を聞き入れて(三十一「幾言諫父」)、蔡邕と夫人の牛氏が陳留に里帰りして蔡邕の両親を都に連れてくるのを許すということになり、まず李旺というものが先に使者として陳留に出発する運びとなったところだ。
■洛陽の弥陀寺で施餓鬼が行われる
今回は「三十四幕 寺中遺像」から始めよう。これは夫・蔡邕の父母が亡くなり、趙五娘が故郷・陳留から都・洛陽に夫を尋ねていく委細を描く。彼女は義理の父母の肖像を描いて巻物に仕立て「道姑」(女の道士。白い装束で乞食をする)となり、それを背負って出かけていく。都に着くとちょうど大きな寺・弥陀寺で行事(施餓鬼=盂蘭盆に寺などで餓鬼道に落ちて飢餓に苦しむ無縁仏らのため読経・供養などを行う)があるというので、それを目当てに物乞いしながら行く。施餓鬼は人出があるので、尋ね人には絶好の機会だ……。と思って寺の門前に着くと、ここで二人のごろつきに出会う。このごろつきの登場は一種の「ファルス」(道化芝居)になっていて、緊張が続く観客に少しばかりのリラックスを与えようという工夫なのだろう。

大施餓鬼の行事に現れた道化二人。彼ら二人が趙五娘の風体を見て、この物乞いの道姑に、いろいろちょっかいを出す。琵琶を弾かせ、歌を唄わせ、その謝礼に自らの衣服を与えて裸になり、そうしながらも寒いからと着物を取り返し……。そのうちに人払いの声が聞こえてくる。「高貴な人が来るから、者ども場所を空けよ」。やがて姿を現したのが立派な籠に乗った蔡邕その人で、この混乱のなか、趙五娘は父母の肖像画を門前に忘れてきてしまう。これを蔡邕が拾い、肖像画は屋敷に持ち帰られることとなった。図4では蔡邕は馬に乗っているが、実際の記述では籠(駕籠・輿)に乗っているはずだ。テキストには「高車」と記されている。貴顕の乗る大きな車らしい。寺の門の前には、肖像画の巻いたものが落ちている。趙五娘が忘れていったのだ。

次は、「両賢相遘」、蔡邕の二人の妻が対面する場面だ。「両賢」は蔡邕の新旧二人の妻を指す。「遘」は「めぐりあう」の意。
まず趙五娘が、弥陀寺で見かけた夫を屋敷に訪ねる、といってもいきなりはできない話。今のやつれた乞食同然の姿では、相手にされず門前払いされてしまう。そこでともかく屋敷に職を求める口実で出かけていこう……と考えた趙五娘は蔡邕と妻の牛氏が住む屋敷を訪ねる。うまい具合に、宰相の娘・牛氏は丁度そのころ陳留から蔡邕の父母がやってくる(すでに迎えのものとして李旺が出かけて行った)から人手も必要だし、屋敷に気の利いた人材が欲しいと考えていたところだ。ピッタリの人材がやってきた。図5は執事が招き入れた趙五娘と屋敷の中の様子を分かりやすく描いている。
いろいろ聞いてみると、この屋敷の下屋(召使の住まい)に自分の夫がいるという話。それは誰かと聞いたが、趙五娘はわざと「祭白楷」という別人の名まえを言う。しかし下屋のほうに聞いてみてもその名の人物はいない、死んだのだろうということ。とりあえずここに住めばよいが、白装束の道姑姿では相応しくない、衣装を替えて化粧せよと勧められる。趙五娘は久し振りに鏡を見て、ここで初めて自らのやつれぶりに驚嘆、落胆する。図5は、その衣装替えの光景を描くもので、京都大学文学部に収蔵される『袁了凡琵琶記』のものだ。左右に広く画面を取って鳥瞰する近代的な画面だが、べつの版本ではどのように描かれるだろうか。

図6は万暦の金陵刊本で最も古いものに属する。片ページで「五娘至府」と場面説明が上にあり、その左右に飾りの雲形が配されている。これは書肆のトレードマーク。人物造形も古拙だ。図7は屋敷の中で衣装を替えさせているところで、趙五娘は鏡を手に持っている。この版本は、最も後期のもので二色刷りになっている。

図7『朱訂琵琶記』では登場するのは三人。鏡を手にしているのが趙五娘、傍に立つのは召使の惜春、もう一人が牛氏、つまり蔡邕の新しい妻で牛宰相の娘だ。また図8の『南琵琶記』では、横長の画面の右側に人物を集めて、奥行きを出している。真ん中に座る牛氏の娘が手にしているのが鏡らしい。丁度身の上話を聞いているところだろう。まだ着替えも用意されていない。初めに提示した図5『袁了凡琵琶記』がいちばん巧みに構成されていると考えられるが、それぞれ好みは違うだろう。『袁了凡琵琶記』は、塩商として巨富を得た汪廷訥という人物の手になるものだが、彼は安徽の出身で長く金陵に寄宿していたようだ。故郷の休寧に「環翠堂」などを築いてここに隠棲し、悠々自適に過ごしたという。戯曲などの著作があるが自身は科挙に合格できなかった。しかし巨万の富を背景に董其昌・王世貞らの高級文人らと親しく往来したという。版画史上では大変有名な人物だ。いくつかの戯曲本や『坐隠図』『人鏡陽秋』など版画方面での著作は多く、いずれも徽派の刻工らが手がけた繊細な挿絵は、日本にも渡来して鈴木春信の錦絵に影響を与えたと考えられている。

■千里の長途を超えた五娘と蔡邕がようやく果たす対面

次の場面は、妻と夫が対面を果たすところに移る。新旧二人の妻が会話を交わす中で、牛氏は趙五娘が蔡邕の元々の妻だったということを知る。その直前の場面が、図9「孝婦題真」だ。ここで、趙五娘は自らの描いた義理の父母の肖像画が、室内に掲げられているのを手に取って、その裏に自分の思いを詩で書きつける。
「この絵の後ろへ詩を書いたらばよかろう。あゝ思ひ出しても苦しかつたのは、あの飢饉で御両親のおなくなりなすつた事だ。今詩を書ひて薄情な男に面当てをしてやりませう」(笹川臨風『琵琶記物語』博多成象堂、1939年より。ちなみに「博多成象堂」とあるが東京の書肆である)。趙五娘が書き付けた詩の一節を引用すると、
「崑山に良璧あり。鬱鬱たり璠璵の姿。嗟す彼の一点の瑕、此の連城の瑜を掩ふとは。人生孔顔に非ず。名節虧けざるもの鮮し。拙なる哉西河の守、何ぞ皐魚に如かざる」(読み下し、塩谷温『国訳漢文大成 西廂記・琵琶記』国民文庫刊行会、1923年)。
「璠璵」は、戦国時代・魯に産した宝玉。また「連城の瑜」とあるがこれはいわゆる和氏の璧で、秦の昭王が十五の城と交換しようと申し入れた趙・恵文王秘蔵の宝玉。これを秦から無傷でとりもどしたのが藺相如という宰相(「完璧」の語源)、話は『史記』「藺相如伝」に。「孔顔」は孔子とその弟子顔回のこと。西河の守は戦国時代の武将・呉起のこと。母の葬儀に帰らなかったため不孝として曾参に破門された。皐魚は春秋時代の賢者。親をおろそかにした過ちを嘆き死んだ。以下省略するが、名宝・名将などを列挙してそこに「傷」「不孝」がある……と書き連ねてある。
これを読んだ夫・蔡邕は、「こりゃけしからん。どうも一から十まで俺のことを云つているやうだ。その書斎の中には誰も入って来るものはない筈だが、(…中略…)夫人(牛氏)に聞いたらわかろう。夫人はどこにゐやるぞ」(前出に同じ)。
そこで牛氏と趙五娘が出てきて対面となるが、初めは本人となかなか分からない。
図10は壁に掛けてある両親の肖像を見る蔡邕。この少し後に趙五娘の書いた詩を見るというところ。

こうしたやり取りの中で三者が対面するのが、図11になる。一面に彫りこまれた室内の床の模様や衝立の青海波模様の緻密さは、徽派版画の特色をよく出している。右の書斎には、棚に積まれた多くの書籍、そして机の上には広げられた本が置かれている。文人の生活空間が巧みに描き込まれている。

その隣の部屋では、もう一つの山場を迎えるドラマの登場人物がそれぞれのポーズで並び立っている。趙五娘の描いた両親の肖像が堂々と掛けられ、その前に三人が揃う。中央は蔡邕。右側が趙五娘、左が牛氏で、「二人妻」と夫が揃ったわけだ。
このあと、話は大団円に向かって急展開する。
(たきもと・ひろゆき 著述家、中国版画研究家)
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