秋風五陵原
松原 直輝
2019年の11月某日早朝、私は円窓から秦嶺山脈を見下ろしつつ、人の悪口をひとしきり言い終えたあと、なんとかして眠りにつこうとしていた。前日大学での講義を終えた足で空港に着き、待合所で夜を過ごしたものの、ほとんど眠ることができなかったためである。だが着陸を目前に機内の雰囲気はヒートアップしていて、春秋航空定番のCAによる実演販売が行われるありさまであった。そのうち、機体は高度を下げ、地上に漂う朝もやのような空気帯に突入していく。衝撃ののち、旅客機は慣性を手懐けようと西安咸陽国際空港の滑走路を彷徨っていた。スピーカーからは到着を知らせるメロディが流れている。同じ大学に通う同行者に「これ、日曜の朝にNHKでやってる自然番組のテーマ曲ぽいよね」と声をかける。先ほどまで眠そうにしていた彼も到着の高揚感を抑えられない様子。「そんなに言うほど『さわやか自然百景』っぽいかな?」その日の西安の朝はどうにも視界が悪かった。
西安といえば、漢隋唐といった王朝が都した場所として名高い。が、降り立った西安咸陽国際空港は郊外に位置する。旧都・長安城跡のある市内から渭河を渡った北郊であって、世界帝国首都の喧騒を看取することはできない。では、当時この地域には何もなかったのだろうか。ちょうどテーベからナイル川を挟んで王家の谷があるように、このエリアは漢から唐に至る皇帝の陵墓がある地域なのである。私は唐の陵墓、同行者は漢の陵墓を見に行くというのが、各々の目標であった。
だが、空港で食事をしているうち、ちょっとしたアクシデントが起こった。持参したカメラの電源がどうしても入らない。スマホで撮影すればよい話だが、モバイルバッテリーも忘れてきてしまい、無闇にカメラを起動するのは避けたいところである。週末の二泊三日の弾丸旅行となると、こういった形で杜撰さが現れてくる。だが、同行者はあまり意に介していない様子であった。最後に残ったナゲット1ピースに執着せず、「中國哲學書電子化計劃」をスクロールしながら、嬉しそうに漢代の陵墓について語っていた。
空港から城際線に乗り、秦宮という駅で降りる。下車する人は少なく、駅はがらんどうのようであった。数か月前に開業したといえど、周辺のニュータウン開発はまだ途上で、道路を進んでいるうちに舗装も尽きてしまった。駅前から見えたマンション群はまだ工事中の模様である。向かい側からやってくる地元民らしき人をかわしつつ路地を抜けると、そこには貨物線の線路があった。baidu mapの方向指示は線路の盛土に穿たれたトンネルに向けられている。
先の地元民もここを通ってきたのだろう。トンネルを潜り抜けると、秋を過ぎた畑の傍らに、収穫されたトウモロコシが積み上げられているといった状景が飛び込んできた。トンネルによってというべきか貨物線によってというべきか、新街区と農村はこうして区切られていたのである。歩みを進めるうち、「三义村」「后排村」といった村々の看板が目に入ってくる。
ふと遠方を望むと、村の家々の背後に断崖絶壁が迫っているのに気が付いた。地理学的にいえば渭河流域の河岸段丘に過ぎない。しかしこの丘こそが、前漢の高祖劉邦と恵帝、景帝~昭帝の五帝の陵墓があることで名高い「五陵原」であった。
后排村の案内版を読むと、当然ながら劉邦様の陵墓があることが触れられている。だがもう一人、とある人物の陵墓があることにも言及されていた。唐の高祖の父李昞の墓、陵墓の名を興寧陵。そしてこれこそが私個人のひそかな目的地であった。

高祖李淵、といえば唐帝国の初代皇帝である。が、王朝の建国物語において、存在感があるのはむしろ子の李世民だという人がほとんどであろう。そんな影の薄いパパのそれまた親父の李昞となると、素人目にどういう人物だったか見当もつかない。
そんな人物の陵墓をなぜ目的地に選んだのかといえば、特段の理由はない。漢の皇帝の陵墓が集中するエリアに唐代のものが孤立している不思議さ、肩書はあるがよくわからない人物である不思議さ……ぐらいである。とはいえ、同行者の漢代陵墓巡りコースの途上にあるのだから、行かない理由はない。
河岸段丘を登るために掘削された急坂を登り、段丘の断面に建てられているヤオトン(窰洞)や養蜂箱、墓地などを眺めながら進む。またしばらく進み、ふと道端を見やると、花崗岩でできた人工物らしきものが横たえられているのに気が付いた。畑の上にあるにしては不釣り合いなそれは、よく見ると生き物の形をしていた。一段下の畑から私を見上げてくるそのロバとも馬ともとれないその生き物には見覚えがあった。かつて南京で訪れた、明代の陵墓の神道に並べられていた石刻……。
同行者に呼びかけ、石像の並ぶ奥に向かうと、そこには重点文物保護単位の碑があった。確かにここが興寧陵らしい。墳墓本体はどこなのかよくわからなかった。とはいえ目が向くのは陵墓の神道である。生き物を象った石刻が二列に、それぞれ六つほど並べられているその景観は、確かに神道ここにありというのを示したものであった。だが、一帯は既に農地として開発されており、石刻のうちいくつかは土に埋まっていた。ある者はバランスを崩して柔らかい土に足をすくわれた形になっていたりさえする。こういう景観をうたった室生犀星の詩を当時の私は想起していたはずなのだが、どういった詩だったのか、今では思い出せない。
見れば、「神道」の中では農夫が畑仕事をしており、放水作業でバランスを崩すまいと、石刻に背をもたれていた。とはいえ、スマホの電池は少ない。私は重点文物保護単位の碑の上に置かれたブーツを写真に収め、その場を後にした。
劉邦や呂后、劉如意の陵墓を回ったあと、我々は最後に漢の恵帝陵に至っていた。「生前の恵帝のことを思うと、呂后の墓から遠くてよかったねえ」という話をしていたところで、動かないはずのカメラの電源が入るようになった。であれば、先ほどの興寧陵をちゃんと写真に収めたい。同行者と交渉するも、スマホの電池残量、移動距離などから、このままバスに乗り西安市内まで移動しようということになった。それでも私は、翌朝なんとか早起きをし、一人で興寧陵に向かうことを試みようとした。が、目が覚めた頃には昼であった。「君に早起きは無理だよ」というのは同行者の言である。
最終日。我々は西安西郊、五陵原の西の端にある漢景帝陵を訪れていた。陵墓まるごとが漢景帝陽陵博物館として整備されており、発掘坑を観覧できる地下博物館(2006年開業)が見ものである。
四時間ほど滞在したが人はまばらであった。同エリアの兵馬俑坑があまりにも有名であるせいもあるだろうが、やはり交通アクセスに問題があった。西安市内からは高速道路が必要な距離(この博物館自体、高速道路の開発に伴って整備されたものらしい)、路線バスも西安市内中心から「遊4路」があるのみで、しかも高頻度運転とはいえない。
秋風五陵原。もはや冬も始まりかけの気候である。バス停のベンチで待機するのは肌寒い。そうした我々を見てか、話しかけてきたのは私設タクシーの運ちゃんであった。「俺の車は速いよ」などとのたまう。しかし提示された金額は30元。バスが4元ほどであるので、あまり乗れるものではない。寒いうえ、いつまでも運ちゃんが絡んできて鬱陶しいので、まず来たバスに乗って帰ろうということになった。ここで急遽視界に入ってきたのは、西安市内に戻る「遊4路」とは逆方向、咸陽市内に向かう「5路汉阳陵线」である。そのルートでは后排村を経由する。あの唐高祖の父李昞の墓、興寧陵のある地である。
「もし『5路汉阳陵线』が先に来たら、それに乗ってもう一度興寧陵を見に行こう。そしてちゃんと写真を撮ろう」。この提案に同行者も乗ってくれた。とはいえ、運ちゃんもしつこい。楽しげに、寒さも忘れて話に熱中しているそぶりを見せなくてはならない。我々は彼を撒くため、とりとめもない話を続けることにした。横綱隆の里が親方時代に弟子を西安に連れていったことがあること、中曽根康弘は辛抱強さをアピールするために「おしん」と隆の里に自らをなぞらえたこと、など。
そうしているうちにバスが来た。が、それは興寧陵に向かう「5路汉阳陵线」ではなかった。同行者はやっと一息つけるといった調子で、西安市内ゆきの「遊4路」に乗ろうとする。私は最後に、博物館とタクシーの運ちゃんが同時に写るようカメラのシャッターを切った。
そういったわけで、手元にはこれといった興寧陵の写真が残されていない。これがこの地に眠る李昞だとか漢の景帝だとかの亡霊のなせるわざだとしたら面白いが、ともかく旅行記を書き残しておくことこそが、旅を忘れないための第一の予防策なのである。
※興寧陵を含む西安北郊の唐代陵墓については、塩沢裕仁「隋唐皇帝陵遺址の現状と課題」(『唐代史研究』25、2022年)に詳しい。
(まつばら・なおき 東方書店関西支社)
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