『時代の行動者たち 香港デモ2019』翻訳者の声

投稿者: | 2024年8月15日

大久保 健

 

 2019年に香港で起きた社会運動は、2014年の「雨傘運動」とは異なり、定着した名称がないようだ。中国語では、「反修例運動」(逃亡犯条例改定草案に反対する運動)、「反送中運動」(容疑者を中国大陸に送ることに反対する運動)、さらに「自由之夏」、「反権威運動」、「逆権運動」などとも呼ばれている。一方、政府側は「暴乱」、「黒暴」と言い、中国大陸では「カラー革命」とも呼ばれる。この運動の複雑さがうかがえる。
 あれから5年が経ち、ここであらためて運動が起こった発端を振り返ることは無意味ではないだろう。「反送中」「反修例」などと呼ばれたこの運動。「反送中」は犯罪容疑者の身柄を中国大陸に引き渡すことへの反対。「反修例」は引き渡しのために法令を改定することへの反対だ。
 香港人男性・陳同佳は「2018年、香港人ガールフレンドを台湾旅行中に殺害して遺体を郊外に埋め、1人で香港に戻る。その後彼女のクレジットカードを使った容疑で香港警察に逮捕され、殺害を供述。供述どおりに台湾警察が遺体を発見したため、陳を指名手配して犯罪発生地である台湾への身柄引き渡しが必要となった。しかし、当時の逃亡犯条例はイギリス植民地時代からの名残で適用対象には中国が含まれておらず、また一国二制度下の香港では台湾は『中国領土』と見なされるため、陳の台湾引き渡しの法的根拠がなかった。このため、林鄭月娥・行政長官が逃亡犯条例の改定を画策した」(本書382ページ)
 その改定はすなわち「中国大陸から要請があれば、香港にいる犯罪容疑者の身柄を引き渡す」ことを可能にするものであり、多くの香港市民が反発し、2019年の大規模社会運動へとつながった。

▼『時代の行動者たち 香港デモ2019』の原著

 『時代の行動者たち 香港デモ2019』の原著である『時代的行動者──反修例運動群像』(以下、『時代的行動者』)は、香港の牛津大學出版社から2021年7月に初版が発行された。香港の国家安全維持法が施行されてから、ほぼ1年後である。
 刊行後の数か月間、筆者が香港の独立書店(大手チェーン店ではなく、個人や数人の仲間で経営している小規模書店)を訪ね、店主や書店員に「今よく売れている本は?」と質問すると、この『時代的行動者』というタイトルが返ってくることが多かった。
 2020年初頭、香港でもコロナ禍が拡大し始め、デモ行進などの社会運動は実質的に実行不可能となった。そこから原著の刊行までのほぼ1年半は、「香港デモ2019」に様々な形で、それぞれの深度で参画した人々にとって、あの運動を振り返って自分なりの総括をするのに十分な時間だっただろうか。
 あまりにも多くのことが、香港の各地で(さほど広くはない香港とはいえ、1つの抗議活動から別の抗議活動が行われている地点まで移動しようとすれば、1〜2時間かかることもある)起きたため、ある時点・ある場所での抗議活動に関わっていた人が他の場所で起きたことを詳細に知ることは困難であったし、その報道も運動の全てを伝えることは当然できない。さらに、2019年の大規模運動は「指揮組織のない」(本書15ページ)ものであり、どこかに総合的な行動計画が示されているわけでもなく、この運動を機に新たに組織されたグループも含めた「流水型動員構造」(本書65ページ)であったのだから、今日どこで何があったのか、さらには、2019年にどれだけの出来事が起きたのかを全体的に把握することは不可能だったと言えるのかもしれない。
 そのようなタイミングに投じられた『時代的行動者』に関心が集まったのは自然の流れだった。しかし本書はあの運動を「全体的に、俯瞰的に」とらえたものではない。本書の編者の李立峯氏は「日本語版刊行に寄せて」に次のように綴っている。
 「(本書に収められている)インタビューを通じて、生身の運動参加者たちのさまざまな心理を知ることができるはずだ」(本書10ページ)
 あくまでも「生身の運動参加者」の声をジャーナリストが集め、それに学者が分析を加えたのが本書である。当時の運動参加者は本書を読み、他の参加者の行動や思い、行動の形を初めて把握したケースもあるかもしれない。そして、運動の中での自分の立ち位置を再確認したのではないだろうか。
 その「生身の運動参加者」を本書では8のカテゴリーに組み立てている。それは「社会運動組織」、「前線」、「コミュニティーネットワークと行動」(各地域のコミュニティーがどのようにこの運動の「戦場」になったのかを掘り起こす)、「専門資格者」、「守護者」(運動は若者が主体だったと認識されがちだが、高齢者の中にも若い活動家を後方で、また時には最前線に出て「守護」した人々がいた)、「中高生」、「国際戦線」(運動の活動家の中には、海外に向けて香港情勢を解説し、国際世論の支持を取り付け、外側から香港に影響を与えようとした人々がいた)、「ジャーナリスト」だ。

▼2019年の出来事

 あの年、筆者自身は6月9日(主催者発表で100万人参加)と16日(同200万人)の、政府の許可を得たデモ行進では、ある時は観察者として、ある時は参加者としてその場にいた。その後は、外出時にフラッシュモブに出くわせば様子を眺めていたが、そこに催涙弾が降り注げば涙が流れ、呼吸が難しくなることもあった。すると近くにいた若者がマスクを手渡してくれたりした。
 香港でのこの時期のフラッシュモブは「開花」と言われた。これに参加していた若き友人にその目的をたずねたことがある。答えは「警察の力を分散させるため」。まさに本書の「開花」の訳注にあるように、「各地で散発的、同時にデモを展開すること」(本書386ページ)はその目的達成のための手段だった。
 もう一つたずねた。「運動はいつまで続けるのか?」と。答えは「勝つまで」。愚問だった。この「勝つ」とは何を意味するのか? 主には「五大要求」を政府に飲ませることだった。五大要求とは「反対運動が発展するうちに広まったスローガンで、逃亡犯条例改定案の撤回、抗議活動に対する暴乱定義の撤回、デモ関連拘束者に対する起訴撤回、一連の事態に対する独立調査委員会の設置、足枷のない普通選挙の実施」(本書385ページ)。この中で実現できたのは「逃亡犯条例改定案の撤回」のみだった(「のみだった」と記したが、今になってみれば、これは運動の「成果」だった)
 この運動が休止したあと、香港のネットには多くの「無力感」という3文字が現れた。日本語と同じ3文字だ。翻訳作業を進めるに際し、私も当然、あの時期を振り返ることになる。100万人、200万人が抗議の声をあげても「勝利」は得られなかった。逃亡犯条例改定案は撤回されたものの、その代償に思いを致すと、翻訳作業のタイピングが止まってしまった。私にも無力感が襲ってきたらしい。作業が滞り、日本語版刊行の発案者でありメインの翻訳者のふるまいよしこさんにはご迷惑をおかけしてしまった。

▼その後の香港

 あの社会運動から5年を経た今、その側面のいくつかを見てみよう。
 香港では新刊書が刊行されると、公立図書館に5冊提供することが義務付けられている(1)。『時代的行動者』も図書館に届けられているはずだが、借りることはできない。図書目録にその書名がないのだ。
 2020年の5月頃から、一部の書籍が図書館の書架から撤去され、目録から削除される事態となっている。たとえば「りんご日報(蘋果日報)」のジミー・ライ(黎智英)氏の著書は、政治とは無関係のグルメ本(『肥佬黎食遍天下』など)まで撤去されている。
 このような措置について、香港政府の李家超行政長官は「香港の言論の自由は『香港基本法』によって保障されている」としながらも、「公立図書館が所蔵し貸し出す書籍というのは、政府が市民に推薦する本ということであり、政府には『好ましくない意識で書かれた書籍』を推薦しないという責任がある」と述べた。一方で、「しかし市民は、他の方法――民間の書店で買うなどして『政府が推薦しない書籍』を読むことはできる」としている(2)。今も政府に5冊提供されている新刊書で、図書館目録に現れない本は、どこでどうしているのだろうか。
 一方、その「民間の書店」には、様々な政府機関が頻繁に訪れている。労働監督機関、税務署、消防署、企業と雇用者の退職積立金管轄機関、企業登記局、衛生局など。これら政府機関は主体的に訪れることもあれば、「市民からの苦情があった」として、やってくることもある。こうした事態が度重なり、廃業してしまった書店もある。市民はいつまで「政府が推薦しない書籍」を本屋で買うことができるだろうか。

 コロナ禍とその後の国家安全維持法によって、運動は完全に終息したかのように見えるかもしれない。しかし一部の参加者にとってはその後も長い「戦い」が続いていた。
 第2章「前線」の「アーチェリー」氏へのインタビューに次のようにある。
 「7月1日、彼は昼過ぎに立法会ビルへと向かった。『攻略ツール』として鉄パイプなどの工具を持っていった。夜になり、多くのデモ参加者とともに立法会ビル内に突入したが、ビル内を見ているうちに人手は充分だと感じ、あらためて付近のロンウォーロードに出てバリケード作りを始めた」(本書78ページ)
 この「立法会ビル突入」に参加した人々の中には、その後逮捕され、暴動罪で起訴ののち、長期の裁判を経て懲役刑となった人も少なくない。たとえば俳優の王宗堯氏はビル内にいたのは数分間で、起訴事実を否認したが「王の出現によって他の参加者を鼓舞することになった」等として6年2か月の懲役刑となった(3)
 第4章「専門資格者」に登場したソーシャルワーカーの陳虹秀氏(本書170ページ)。彼女についての結びに次のようにある。「本稿の脱稿時の2021年5月時点で、懲役最高10年の暴動罪に直面したままである」(本書178ページ)
 抗議活動の最前線で彼女は何をしていたのかというと、デモ隊と警察の間に立って「警察の警戒線ぎりぎりまで前進し、『冷静に』と警察に呼びかけて、市民を後退させてその場を離れさせた」(本書170ページ)。このような行動が暴動罪にあたるとされ、起訴された。
 陳氏は今後の審理でも起訴事実は否認する予定だとしている。このように、2019年の活動の一部は今も法廷闘争として続いている。

▼結びに

 2020年の国家安全維持法に続き、今年──2024年には国家安全条例が施行された。2019年の運動について語ること、語り合うことすら憚られる空気が醸成されているように感じられる。権威の側からの運動の定義──「暴乱」や「黒暴」──は、市民の記憶を歪めはしないだろうか。そこで重要になるのは記録だ。本書に登場する人々の多くの言葉は、運動から間もない時点での事実を伝えており、余熱もある。運動を盛んに伝えたメディアのいくつかが閉鎖を余儀なくされ、ネット上の記事も消滅した香港だからこそ、本書は将来にわたって記憶と記録を維持する貴重な一書となろう。

【注】

(1)https://www.hkpl.gov.hk/tc/about-us/services/book-registration/register.html(香港公共圖書館サイト)

(2)https://news.mingpao.com/ins/%e6%b8%af%e8%81%9e/article/20230518/s00001/1684380509417(香港紙「明報」2023年5月18日)

(3)https://thecollectivehk.com/71%E7%AB%8B%E6%B3%95%E6%9C%83%E6%A1%88%E7%8E%8B%E5%AE%97%E5%A0%AF%E5%88%A4%E5%9B%9A%E5%85%AD%E5%B9%B4%E5%85%A9%E5%80%8B%E6%9C%88%E5%8A%89%E9%A0%B4%E5%8C%A1%E5%AD%AB%E6%9B%89%E5%B5%90%E9%84%92%E5%AE%B6/(香港ネットメディア「集誌社」2024年3月16日)

 

 

『時代の行動者たち』

時代の行動者たち
香港デモ2019


李立峯 編
ふるまいよしこ、大久保健 訳
出版社:白水社
出版年:2023年12月
価格 6,380円

(おおくぼ・たけし 翻訳者)

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