──神への犠牲となる源泉を展望して
松宮 貴之
前稿では、殷周期の「工」を担う階層には、巫祝としての指導的なものと苦役に服する奴隷的なもののふたつがあったことを、青銅器の制作過程を中心に詳しく検討した。ここでは、その流れを汲む戦国期の工人集団と仮定した「墨家集団」について考察したい。彼らへの差別の刻印はいかに残り、その根源となる思想は何だったのだろうか。
■再び墨子と奴隷制の問題について
以下、銭穆論の分析から、墨子の「墨」が入れ墨、墨刑の意味であることや墨子と奴隷的な仕事の関係性について、まず一瞥しておきたい。
銭穆『墨子』(民国二十年、上海商務印書館)によれば、
「墨」は古代刑名の一つで、『白虎通』五刑に「墨とは、其の額を墨するなり。」とあり、『尚書』『周礼』『漢書』『孝経』の諸々の注疏も等しく、墨を「黥」刑としている。鄭玄注に「墨とは黥なり。まず其の面を刻し、墨を以て之を窒ぐ。」(周礼司刑注)とあり、墨罪は五刑中最も軽いもので、古人は軽罪を犯せば、往往にして罰せられ奴隸として働かされる。鄭衆が言うには、「今の奴婢なるは、古の罪人なり。」(周礼司農注)とあり、孫詒譲もまた「古人の凡そ軽罪俘虜も亦、罪隸、舂橐に入る」(周礼正義巻六九)と言う。よって、「墨」の意味は、刑徒であり、転じて奴役であることが知れる。彼らの生活は粗末で、その道自ら苦しみて極みとなすので、よって遂に「墨」(=墨家)と称せられた。これらは「墨」が奴役の象徴であった証拠である。
と言う。つまり、墨とは墨刑の意味であり、よって墨家集団を一種の奴隷集団と見做し、銭穆はその証拠として、以下の6点を挙げる。
(一)『墨子』貴義篇に「子墨子、南に楚に遊ぶ。楚王、穆賀をして子墨子に見えしむ。曰く『子の言は則ち誠に善なり。而れども君王は天下の大王なり。乃ち賤人の為すところと曰いて用いざるなからんか。』」とあり、穆賀は墨道を賤人の所為となし、続いて墨子も自らを農夫庖人に比している。これにより、「墨」字に労役の意味があったことがわかる。
(二)『呂氏春秋』高義篇に「墨子の弟子公尚、過ぎて越王の為に墨子を迎える。墨子曰く『若し越王吾言を聴き吾道を用いれば、翟、身渡り衣とし、腹量り食ふ。賓萌に比しても、未だ敢えて仕を求めず。」とあり、高誘注に「賓は客なり。萌は民なり。」とある。賓萌の意味は、現代の「客籍流氓」に喩えられる。許行は滕に至ってまた「願わくば一廛(住む土地・屋敷)を受けて氓(ぼう=移住民・他国から逃げ帰化した民)たらんと。」とあることから、墨に勤労刻苦の意味が含まれることを主張している。
(三)『墨子』備梯篇に「禽滑釐子、墨子に事えて三年。手足胼胝、面目黎黒。身を役して給使し、敢えて欲するものを問わず。」『淮南子』泰族訓に「墨子服役するもの百八十人。皆な火に赴き刃を蹈ましむべきにして、死踵を旋らず。」とあり、墨子の弟子が服役している様子を示す。
(四)『孟子』尽心上篇に「墨子兼愛し、頂を摩し、踵を放ち、天下に利して、これが為にす。」とあり、趙歧注に「頂を摩すとは、其の頂を摩突するなり。」とある。『荀子』非相篇に「孫叔敖は突禿なり。」とあり、楊倞注に「突とは短髪を謂い、人に凌突すべきものなり。」とある。『焦循孟子正義』に「突禿の声転じて、突即ち禿。趙氏は「突明摩」を以て、其の頂髪を摩迫し之が禿と為すを謂う。」とある。この摩頂とは今の禿頭を示す。古に髡罪という髪を切り服役する罰があった。墨子は苦役に当たり、摩頂截髪を惜しまなかったので、髡奴に似ており、冠髪の礼も講究しなかった。続く踵を放つとは、礼を失していることを指す。『荘子』上説に「墨子は跂蹻を以て服と為す。」(天下)とあり、『史記』孟嘗君伝に「馮煖、孟嘗君の好客、躡屩を聞きてこれに見う。」とある。蹻、屩は同字で、貴族、君子のはく厚底のくつに対し、一種の軽便で底のないくつのことである。また『史記』虞卿伝に「躡蹻担簦」とあり、虞卿は寒士で車に乗ることができず、徒歩が常であったので、軽便な底なしのくつをはいていた。墨家は当時の貴族階級の冠履制度下から逸脱し、「截髪突頂、穿鞋放脚」の語からわかるように、刑徒奴役と同様の格好をすることで頭からつま先まで礼に失していたため、孟子に批判されたのである。
(五)『荀子』礼論に「刑余の罪人の喪は、族党に合することを得ずして、独り妻子のみを属し、棺槨三寸、衣衾三領、棺を飾ることを得ず、昼行くことを得ず、婚殣を以て、凡縁にして往きて之を埋め、反って哭泣の節無く、衰麻の服無く、親疏月数の等なし。各のその平に反り、各の其の始に復り、已に葬埋すれば、喪無き者の若くにして止む。夫れ是れ至辱と謂う。」これは、墨家の薄葬の非礼を批判している。『左伝』に「若し其の罪有れば、絞縊して以て戮し、桐棺三寸、属辟を設けず。」(哀公二年趙簡子之誓)とあるが、墨子の主張する桐棺三寸の葬礼は、刑余罪人のものに等しく、故に、荀子は至辱と叱責する。これにより、墨家の「墨」字が黥墨罪人の意をもつことがわかる。
(六)『荀子』王霸篇に「是を以て天下を県じ、四海を一にするに、何が故に必ずしも自ら之を為さんや。自ら之を為すものは、役夫の道なりて、墨子の説なり。」これは明白に墨子の説が役夫の道であると批判しているので、「墨」字に罪人服役の意があることを示している。
■古代中国の奴隷制と労働――有奴派の立場から
ここで問題となるのは、奴隷の定義である。例えば『広辞苑』によれば、
人間としての権利・自由を認められず、他人の支配の下にさまざまな労務に服し、かつ売買・譲渡の対象とされる人。古代ではギリシア・ローマ、近代では南北アメリカの植民地に典型的に現れ、日本の古代の奴婢も大体これに当たる。
とある。更に郭沫若的にくだいて言うならば、支配、被支配の関係で人格が認められず(小人)、支配者(君子)の傘下で、無条件に命令され服従を強いられることを言うのであろう。
使役の対象であり、郭が奴隷と見做した甲骨文の「衆」字は、昨今、王族の配下を指すと定説化されつつある。そこには奴隷との「待遇」の違いはあるものの、古代中国に於ける強固な身分制によって、その垂直軸は暴力と利益(衣食住のレベル・生命権)という関係性で構成されていたと思われる。
奴隷を罰を受けたものだけと定義するならば、限定的に考えられようが、被使役者、被支配者、労役者という文脈で言えば、「衆」も奴隷ではないと峻別できはしないのではなかろうか。
郭は無論、ヨーロッパの奴隷制に啓発されたが、中国なりの奴隷制を想起しており、広辞苑の解説のような定義に縛られることの方が、主客が転倒しているように思われる。
■奴隷制の解放
周知のように郭沫若は、孔子(儒教)に奴隷制の解放を認めたが、私はむしろ以上の前提を踏まえた上で、墨子にそれを認めんとするものである。
例えば『墨子』尚賢上篇に
それで古代の聖王は統治を行うとき、多くの有徳の人を集め、そして賢者を優遇し、農民、職人や商人の身分の人であっても、有能であればこれを取り上げ、身分を高くして爵位を与え、重く俸禄を与え、任命は実績をもって行い、処罰のために法令を与えた。爵位が高くなければ民は官人を尊敬せず、俸禄・処遇が手厚くなければ民は官人を信用せず、政令により処罰をしなければ民は官人を畏れない。この三つのものを挙げて賢者に授けるのは、賢者の為に賜ったのではない、賢者の政治を行うことによる成功を願うからである。それでこの時代にあたって、有徳によって官僚の列に就け、官職によって職務に服させ、功労によって褒賞を定め、勲功の軽重を量って俸禄を分け与えた。このため官人には固定化された身分・階級は無く、おなじように民に固定化された賤民階級は無く、有能であれば職階に取り上げ、無能であれば下の職階に落とした。『公義を挙げて、私怨を退ける』と。この言葉は、このようなことを言うのだ。
かくて、古代の堯王は舜を服沢の陽の地域から引き上げて政治を委任し、天下は平穏であった。禹王は益を陰方の内の地域から引き上げて政治を委任し、九つの州を統合した。湯王は伊尹を厨房で働く者の中から引き上げて政治を委任し、その政治目的は成った。文王は閎夭と泰顛を漁場で働く者の中から引き上げて政治を委任し、西の国々を征服した。このように君王が政治を行う時には、厚禄や尊位にある臣下であっても、君王の施政を敬い懼れて職務を行わない者は無く、農民、職人や商人の職にある人であっても、競い励んで官途に就くことへの願いを誉めないものはいない。それで志を持つ者は君王の補佐や官吏となってしかるべきものなのだ。だから、志を持つ者を得れば政治を行うに困らず、君王の体は苦労せず、名声は立ち功名は成るのである。善行は世に知られ悪行は生まれない、これは志を持つ者を得たことによる。
これにより、墨子の奴隷制解放の思想が認められる。すなわち東洋に於けるリベラルアーツであったことが、確信できるのである。
■誓と青銅器と墨子
墨子の中では先王の言説として、『尚書』を引用する傾向が強い。その中でも、多いのが「誓」に関係するものと言えるだろう。
「誓」とは、『礼記』曲礼に、「約信を誓という」とあるが、一般的に、王侯がその要求を明らかにし、その要求にしたがうもの、背くものにそれぞれ応じた賞罰を授けることである。
例えば、以前みた(拙論「載書論再考」)金文の「匜」銘文にも「誓」は確認できる。
三月、既死覇、甲申。王は邑の上宮にあって、伯揚父が弾劾文を下して言うには、牧牛よ。あなたは誣告によって厳しく非難された。あなたはあなたの師と訴訟を起こし、あなたは、先の誓いを違えた。あなたはすでに誓い、嗇まで
に会いに行き、この五人の奴隷をささげ、誓いの言葉を行い、あなたは訴訟の内容に従って、誓約に従った。最初の罰として、私はあなたに千の鞭打と、墨刑を施すべきところを、今 私はあなたを大赦して、五百の鞭打と、銅三百を罰とする。
伯揚父は、牧牛に誓いを立てさせて言う。今後、私は大小の事にわたってあなたをおさめる。あなたの師がまたあなたを訴えたときには、あなたに千の鞭打と墨刑を施す。牧牛は誓いを立て、と吏曶に会に参加させ、告した。牧牛の訴訟事件はすべて決まった。銅を罰した。
は(これをしるす)旅盉(酒器)を作った。
彼らの自由という主体性の獲得を神に求める宗教、所謂「聖隷」思想が墨子による創作であり、その発想の淵源は、やはり甲骨文にある黒を部首とする文字(黒と

■罪人の沈黙芸術と書
工人の書とは、神の罪人としての罰の労役でもあり、そこに聖俗、崇拝(信仰)と罰、栄誉と罪の二重性が隠されている。元来『墨子』明鬼篇にあるように、罪を犯せば神のバチを受けると考える信仰があったのだろう。ここで、さらに大胆に仮説を提起するならば、そのバチを償うために、死しての殉葬があり、刑に服する労働(奴隷)があったものと考えられる。その労働とは、現実的には死(死刑)から免れるためのものであり、そういう緊張感が工人には常に付き纏ったと推察できる。それが、墨子が、荘子に於いてあまりにも厳しすぎると言われた、現代なら過労を奉ずるような「勤労刻苦」の理念の源泉だったのではなかろうか。
ところで、話が書論にとぶが、あの隷書を発案した秦の程邈は、始皇帝のとき罪を犯して雲陽の獄舎につながれ、獄中で十年間工夫を凝らし、大篆や小篆の方円を増減して、隷書を作って奏上したところ始皇帝は程邈の罪を許して御史(記録)の官に任じて、この書体を書記役の徒隷に使用させたという。徒隷の使う書体なので隷書と呼ばれたとするこの伝説が、この歴史的寓意を象徴的に物語っている。
すなわち奴隷制は、絶対的な権力である神、先王、帝王への辠、罪の償いとしてあったのであり、世で主体性を失った被処刑者(政治的罪人)は、いつの時代も物を残し(工)、歴史に真実を問いかけるしか、なかったのだ。
つまり中国文化の一大潮流をなしていた工の精神の低層には、主体性を放棄し奴隷となる、「償い」の精神があったと考えられるのである。そして、その工と償いの思想は、中国政治史に於ける垂直に貫く支柱として、弱者のために見返りを求めず命がけで尽くすという苛烈な優しさの精神となり、烈士たちによって存続することになる。
(まつみや・たかゆき 大阪大学非常勤講師)
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