載書論再考――入れ墨人と誓約の書を入れた箱の関係性

投稿者: | 2023年2月15日

松宮 貴之

■釋熯からのへの展開

 周知の通り白川静は、殷代の「口」字を載書(あるいはしゅくこくしゅくさつめいせいを収める器を示すものとしたが、昨今の出土資料研究では、それは竹笥と呼ばれる竹籠のようなもので、その中に簡牘の入ったものが発見されたことから、その説の信憑性を高めていることは以前、述べた。ここで再度確認すると、白川の「釋熯」には、別に次のようなことが書かれている。

思うには巫が交手して、すなわち両手を縛して、火上に焚殺されている形で、口は祝告を戴く意であろう。…また祝告を巫とともに焚いてこれを上聞せしめたのであった。

 つまり私説と勘案すれば雨乞いに際し、供犠として、入れ墨をした人と木簡(祈りの書)を同時に焚焼したことになるだろう。この木簡の入れられたについて、入れ墨人との接点を踏まえ、今回は新たな角度から考察してみたい。

■入れ墨と罪(辠)と誓い

 (サイ)と入れ墨の関係性に目を転じてみる。
 例えば、『周礼』司約に「若し訟有れば、則ちして蔵をひらき、其の信ならざる者は墨刑に服す。」とあるのは、開いた蔵(箱)の中になにがあったのかは、これでは決めかねるが、訴訟の言の誓約に違えば、墨刑にすることととれる。このような事例は、金文の「匜」銘文にも確認できる。日本語訳すると、以下の通りである。

三月、既死覇、甲申。王は邑の上宮にあって、伯揚父が弾劾文を下して言うには、牧牛よ。あなたは誣告によって厳しく非難された。あなたはあなたの師と訴訟を起こし、あなたは、先の誓いを違えた。あなたはすでに誓い、嗇までに会いに行き、この五人の奴隷をささげ、誓いの言葉を行い、あなたは訴訟の内容に従って、誓約に従った。最初の罰として、私はあなたに千の鞭打と、墨刑を施すべきところを、今 私はあなたを大赦して、五百の鞭打と、銅三百を罰とする。
伯揚父は、牧牛に誓いを立てさせて言う。今後、私は大小の事にわたってあなたをおさめる。あなたの師がまたあなたを訴えたときには、あなたに千の鞭打と墨刑を施す。牧牛は誓いを立て、吏と吏に会に参加させ、告した。牧牛の訴訟事件はすべて決まった。銅を罰した。(これをしるす)旅盉(酒器)を作った。

 つまり誓約に違うことは、罪であり、その代償として墨刑(罰)を施されたのである。そして、この金文は、その訴訟に於ける誓約違反を寛恕する落としどころの証拠として、鋳込まれたのだ。またこれらの入れ墨に纏わる誓約は、青銅器の担う「賞罰」の政治性と祭祀性の止揚の中で、儀式として行われていたことにも、配慮が必要だろう。
 甲骨文の供犠、金文、そして諸子百家の思想の基底にまで貫かれる脊柱には、「賞罰」という根源的でプリミティブな観念が、存していることも忘れてはなるまい。

■誓いの箱と金縢

 ところで、誓約に箱が付いていたとすれば、『尚書』の金縢篇説話が想起される。その説話の大要は、病に伏した武王のために、周公旦が自ら身代わりとなろうと先王に祈る。しかし幼い成王を助け、政治を行う周公旦は他の弟の流言のために不遇な境遇に陥る。成王は周公旦の武王に対する献身的な態度を知り、それ以前に作成された金の櫃(箱)に入れられた誓いの書を確認し、自らの周公旦への態度を改めたことにより、天災が止むという物語である。
 やはり、先王への祈りや誓いを記した書は、箱に入れられていたのであろうか。

説の真偽

 さて、(サイ)と入れ墨の関係と「熯」字・入れ墨及び箱の関係には、主従の関係性の逆転はあるが、「言」の字源についても白川説が蘇ってくる。
白川は、「言」について、

辛と口さいとに従う。辛は入墨に用いる針の形で、盟誓のときには自己詛盟を行ない、もし違約のときにはその罰を受けることを示す。口はその盟約の書を入れる器の形。その書を載書というので、をサイの音でよむ。言はその器の前に辛をおき、神に盟誓することばをいう。

と解している。因みに高島敏夫氏は、言語学の文脈から、は「祭祀言語(雅言)を記した冊書を入れた器」とし、その雅言は、口頭で朗誦されたと考えられている。では、なぜサイが必要だったのか。私は、口頭では消えるが故に、誓約の(もの)として必要ではなかったのかと考えている。
 ところで、この字については、刑罰のようなネガティブな文脈だと、誓約を違えば罰を受けるという意味である。一方「章」は、入れ墨の器で、辛の針の部分に墨だまりのある形の象形字で、このような入れ墨の美ともいえる字源をもつポジティブな文脈だと、他界のパスポートのように入れ墨は解せられるだろう。ともあれ白川説は、『周礼』や金文の用例からの類推だろうと思う。
 また誓いを違えたら入れ墨をするということは、墨刑の原義からして、罰として入れ墨人となり供犠されることをも覚悟するという意味にも通じる。供犠なので、つまるところ原初的な意味に立ち返れば、嘘を吐けば、食べられてしまう、ということになる。
 この説を深読みすると、カニバリズムにも通じる生々しい世界と「言(ことば)」は、通底していたとする原風景、怪奇な想像に駆り立てられる。見せしめの文化は、中国の伝統であり、そういう強い規制がないと、元来、秩序が保てない民族事情なのかもしれない。

青銅器に鋳込まれた入れ墨人

 ところで、「辛」字を「黥刑の道具」とする説を最初に提唱したのは郭沫若であるが、落合淳思氏は、辛は、針状の刃物の象形とされつつも、甲骨文の用例では、専ら十干の用例しかないためか、それ以上の言及はされていない。籾山明氏も同様である。また落合氏は、「言」については、くちと辛(音)の形声字とされている。
 白川静は、もともと『詩経』解読を目的として始めた文字学のために、民俗学や文化人類学を多用するものの、主に金文や文献の文脈を用い、複合的な解釈をする傾向がある。対して落合氏は、出土文物を中心に考古学的資料に基づき、唯物論的に平易に解釈する傾向があり、白川説を非科学的とされる。換言すれば、後世からの眼と、より古い時代からの眼という視角の相違が根底にあるのであろう。例えば、辛字のような甲骨文だけでは字義が分からない場合は、派生した金文(辠・辜・童・妾・僕等)や文献の用例から類推するのが、白川の定法であろうが、いたずらに単語家族化するのではなく、個別事象的に窮理する方が、客観性は高まるのかもしれない。
 ただし、古代人に想念を派生させるきっかけ、根拠のある蓋然性までは、否定はできないのではなかろうか。甲骨文で、言字は、「する」義なので、白川と落合氏の解釈は、ともに現在の時点で、排除できないのである。

■載書論

 白川のサイの発想の根拠は、『春秋左氏伝』の載書に求められる。この文献には載書という語が十回出るが、例えば、次のようなものがある。

襄九年 十一月己亥(晋・鄭)同じく戲(地名)に盟う。鄭服すればなり。将に盟はんとす。鄭の六卿…及び其の大夫門子、皆鄭伯に従う。晋の子荘子、載書を為る。曰く、「今日既に盟うよりの後、鄭国にして、唯だ晋の命を是れ聴かずして、或いは異志有る者は、此の盟の如くなる有らん」と。

すなわちこの誓いの内容を違うと天罰が降る、と述べているのである。まさに祈りの内容であり、誓いの内容に虚偽のないことをすることに通じるのである。
 また襄十年では、載書に入れた法律の威厳のために、刑罰を強行しようとしたが、それを止め、逆に載書を焼き捨てている。神に誓ったものは、簡単に廃せられないので、おそらく焼いて神に何かする儀礼があったのではないか、というのが白川説である。ともあれ『左伝』の載書については、稿を改めて詳論したい。

■白川系統文字の再検証

 冒頭の「釋熯」から推すと、口と黒が同時に焚焼前回のコラムを参照されたい)されたとすると、やはり口字の示すところは、木簡の入れられた(サイ)であるはずである。ただ形だけで焚焼の義を示す略体もあることから、サイ、つまり祈りの書は、当初から継続的に用いられていたのであろう。
 ここでは口の字源について、白川説を基軸に少しく検証してみたい。例えば、口を含む漢字の古・可・史・召・右・各・吉・向・名・君・吾・告・呈・舎・命・和・害・啓・問・善などは、その口を口(くち)と解釈したのでは字の成り立ちや意味を解くことが難しいものが多い。をサイ(祝詞を入れる器の形)と解釈することによってはじめてそれぞれの文字の成り立ちと意味を、体系立てられると白川は考えた。
 これら形をサイとする部分では、落合氏も白川説の影響を受けている点は、特記すべきであろう。先に見た高島敏夫氏も、言語学の文脈から、口は「祭祀言語(雅言)を記した冊書を入れた器」と修正的継承をされていたのも、特筆に値する。因みに私は、先王に誓ったり、問うようなメッセージを記した冊書だと考えている。先にも触れたが、口頭のことばだけだと消えてしまうので、文字とはその証拠として担保されたなのであろう。もともと文字(しるし)とことば(音声)は別物であり、言葉に文字が内在するという立場からみると、アナクロニズムに陥る可能性がある。当時は違う部族、違う言葉の者たちが、文字で約束していたのであろう。雅言とは、恐らく有力部族の言葉だったと考えられる。この多重言語の表象としての性格が、証拠、つまり文字の解釈、中国の「訓詁学」の源泉となる。
 さて、字形論に戻るが、落合氏は、「サイ」についての白川説は、妥当な部分と不足する部分があると、時に批判的継承をされている。妥当な部分としては、は「祭器の表示」という点である。ただ、の形だけでは、中に簡牘が入っていたとは断定できず、「冊+」や「史」では簡牘が入れられたと考えられ、「魯(魚+」では魚が、「戈+」であれば戈が入れられたとする。不足する部分としては、「祭祀に関係する意符(喪など)」や「抽象的な物体(去など)」の用法に関する考察である。
 また、白川静は当初(1970年ごろ)は「」に「くち」の役割を認めていなかったが、『字統』(1984年初版)では認めている点にも注意されたい。

■入れ墨人と神への報告の宗教学

 入れ墨も木簡も古代、もとは神(祖先神)への祈りの表象であり、神への誓約として供犠(罰)に用いられた可能性もある。の書(王の言葉・先王へのメッセージに関する報告)を入れた器、さらに時にそれは焚焼せられたのなら、やはり箱のような容器だったのだろうが、その着想から、新たなイメージも提起できたと思う。ただ、なぜ焚焼されたのか。証拠を燃やすという行為が、果たしてどういう意味をもっていたのか。言動を果たしたのちの解放なのか、証拠を神の世界に捧げる、報告の意味なのか。はたまた不都合が生じ、燃やして消去破棄したのか。つまるところ、焼くということは、現世では必要なくなったということだろう。その焚焼という行為は、他界に通行する手段であり、供養だったのかもしれない。なぜなら古代に於いて、火とは神聖なものだったのだったからだ。
 さて、入れ墨から文字へと書写体が推移する中で、時代を支配する発想は、大きなうねりを見せる。もともと入れ墨も文字も小さな造形物であって、約束のである。被写物が身体から木簡へ、そして内容が、象徴記号から言語へと、使用時期が重複しながらも段々と変化していった長い歴史過程の中で、双方ともに約束のしるし、現世と神の世界(他界)とを繋ぐ表象であるという文脈で系譜化でき、時にはともに捧げものであったのであろう。その連続性を担保したのが、墨という不可思議な染料であり、さらに筆のDNAには、現在でも毛筆や鑿、そして入れ墨用の針が組み込まれていると言える。
 またそもそも、約束を守る、破るから、賞罰が生じてくるのであり、さらにその約束の証人として、第三人称、神や先王などの宗教が希求されるという構造なのではなかろうか。
 今回は、その中でも供犠としての、入れ墨人と祈りの書の入った箱を繋ぐ焚焼などについて述べてきた。供犠(賞罰)、神(先王)を担保とした誓約、その証拠(もの・しるし)、そしてと焚焼という観点から、書の淵源について、少しは、光は当てられたであろうか。

※文中の「」字については、立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所が公開する白川フォントを使用した。

(まつみや・たかゆき 国際日本文化研究センター共同研究員)

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