中国古版画散策 第八十四回

投稿者: | 2023年2月15日

麻姑のはなし(上)
――知られざる女仙

瀧本 弘之

 麻姑とは女の仙人の名前で、顔真卿の拓本『麻姑仙壇記』によって知られるものの、知名度は高くない。葛洪『神仙伝』などの古文献にも登場するが、最近、この知られざる麻姑の肖像が掲載されている明の版本を見つけたので、それを紹介したい。

 その前に顔真卿だ。顔真卿(709–785、図1)は唐の政治家だが、一般には書家としての声望のみがクローズアップされている。簡単に言うと、強直で正義派の人物であったとされ、その性格が書にも表れているということらしい。唐代中期の琅琊臨沂(山東省)の人。生まれは長安、字は清臣。北斉のがんすいの子孫で名家の出である。少壮より書をよくし、博学で文辞に巧みだった。刑部尚書、吏部尚書などを務め、安禄山の反乱時に玄宗のために尽くした。が剛直な性格のため、李希烈の謀反のとき説得に赴いたが、とらえられて殺された。柳公権と一緒にして書のお手本の書物が出されることが多い。知名度からすれば顔氏がずっと上だが、私は個人的には柳公権の書のほうが好きだ。

図1 顔真卿肖像 弘治本『歴代古人像賛』より(鄭振鐸編『中国古代版画叢刊』上海古籍出版 1988)

 この顔真卿の『麻姑仙壇記』(図2)は唐の大暦六年(771)に書かれている。実際の書は遺らず、いま拓本については、大字・中字・小字、しかもそれぞれに数種類があり、どれが善本か選択は難しいらしい。一般には大字本が通行していて、その他はほとんど影印を見かけない。それの東京国立博物館蔵の頭の部分を掲載してみたい。もちろん改行などは、原刻とは違って編集されているだろう。

図2 顔真卿『麻姑仙壇記』拓本 宋拓とされる。初めの部分。(東京国立博物館蔵)

 麻姑と顔真卿のつながりを言うと、麻姑山のことを述べなければならない。麻姑山のある地・江西撫州は、省都・南昌から南東に下ったところで、海岸線の福建・福州から西北に遡り約400キロの地。ネットを見るとこの地の山は武夷山系の余脈で麻姑山の主峰は1000メートルを超える。確かにここから西北一帯はグーグルアースで見ると山ばかりで、高さはそれほどないようだが奥深い。顔真卿はかつてこの地の長官だったことがあるのだが、それについては次回述べたい。
 顔真卿の『麻姑仙壇記』は、初めから葛洪『神仙伝』に依拠して麻姑について述べる。ただし『神仙伝』そのものがやや唐突に記述されているので、その行間を読み取りにくい。簡略化すると、登場するのは王遠(字は方平)、そして蔡経、それに麻姑であるが、みな仙人である。王遠が東の方の括蒼山に行こうとして、蔡経の家に寄る。そこで「尸解」を教えたとある。葛洪『抱朴子』では現世の肉体のまま虚空に昇るのを天仙、名山に遊ぶのを地仙、いったん死んだ後に蟬が殻から脱け出すようにして仙人になるのが尸解仙であるとし、尸解仙を下位に置く。王遠が蔡経に「尸解」の術を見せたのだろう。ちなみに括蒼山は、いま浙江省台州市にあり、観光地になっている。二人が尸解していなくなった数十年の後、蔡経が(戻って)家人に、七月七日に王氏が訪れると告げる。多分王氏と一緒に戻るのだろう。蔡経は王遠と一緒に仙人になって、どこかに行っていたらしい(括蒼山か)。王が帰ってくるときは、龍五匹の車に乗り威厳たっぷりのようす。このときにまた麻姑が天から降りてくるというので、一同準備をして待ち構える。

図3 「麻姑仙像」(『麻姑山丹霞洞天誌』[四巻、万暦41年(1613)刊本]掲載。脇に画家の名前が「壬子春日之吉馬徴薫沐寫」と記される。馬徴という画家が、薫沐[香を浴び、また沐浴すること]して描いたのだろう。内閣文庫蔵)

 だが、声はすれども姿は見えない。高貴な人物は、姿を隠すのだ。そして現れた姿は若い女性だった。版本の『麻姑山丹霞洞天誌』では、巻頭に麻姑の姿を置く(図3)。そのあとには、明代・麻姑山の洞天の様子が微細に描き出されている。山水画としても素晴らしい(次回に紹介したい)。版画の麻姑は半身像で、頭には髷を頂き、のこりの髪は腰に至り、体の周りには雲霧が立ち上っている。顔はふくよかで、若い女性であることは間違いない。腕を組んで袖の中に隠している肖像のため、手は見えない。描いた画工は、脇に「壬子春日之吉馬徴薫沐寫」とあり、馬徴という人物の万暦40年(1612)の筆になることがわかる。この馬氏は同じ版本の風景などにも名前を残している。また面白いことに、この版本の文字は優雅で流れるようだなと思っていたら、その左頁の版心下に筆工が自署を残している(図4)。それもすべてのページにだ。最初の第一葉には「鄭象極寫」とあり、そのほかには「象極寫」が多い。多く版本を見てきたが、このように文字の原稿を書く人物が名前を記すことはまれである。確かに達筆だ。

図4 『麻姑山丹霞洞天誌』巻頭。左頁の版心下に筆写した人物の署名がある。

 この本は万暦刊本で、内閣文庫に収蔵されている。先年、北京の北京匡時オークションに同じものが出て、その画像の一部がネット公開されていた。それを調べるうちに日本にも版本があることが判明した。同じもののようだが、これとは別に康煕刊本も知られているようだ。
 私はかつて『中国神話・伝説人物図典』(遊子館、2010年)を編集したとき、麻姑・王遠・蔡経の像を扱ったことがある。この三人の肖像を掲載した明清の版本を比べてみると興味深い。手前味噌になるが拙著で見ると、選んだ版本類は『新鐫仙媛紀事』『列仙酒牌』『有象列仙全伝』『列僊図賛』などで、見開きページに6図を取り上げた。そのうち最も分かりやすいのが『新鐫仙媛紀事』と『有象列仙全伝』のものだ。何故かというとどちらも一枚の絵に同時に三人の登場人物を描き、しかもこれが伝説のハイライト部分だからである。『列僊図賛』(月僊画)も似てはいるが、これは日本製でしかも俗悪な感じがする一種のパクリであるし、幕末に近いから紹介は割愛したい(版本は比較的ポピュラーでよく見られる)
 『新鐫仙媛紀事』(九巻、楊爾曽編、万暦30年[1602]、杭州刊本か)は、女仙の伝記を集めたもので、多数の優れた図版を伴っている。万暦時代の杭州の出版家、楊爾曽の手になるもので、彼は『新鐫海内奇観』(万暦37年序刊[1609] 夷白堂)などの著者でもある。『新鐫仙媛紀事』の挿絵は、徽派刻工の一人黄玉林のサインが入っている。流れるような繊細な線は、徽派の絶頂期のしるしで、こうした作品から鈴木春信などが影響された可能性もある。

図5 『新鐫仙媛紀事』(楊爾曽編 万暦30年[1602]杭州刊本 内閣文庫蔵)

 図5は麻姑、王遠、蔡経の三人が登場する場面で、下に散らばっている米粒のようなものは、麻姑の神通力で米粒を真珠(丹沙などとも)に変えたものらしい。一番手前は蔡経で真中が王遠だ。麻姑は結跏趺坐し、表情は厳しくその左手の爪は長い。明のテキストでは麻姑の兄とされている王遠は、腰かけてくつろいでいる。蔡経は何か叱られて困惑しているようだ。これは彼が麻姑の手を見て、背中を掻いたら気持ちよかろうと考えた卑しい心の内を見透かされて、王から貴人に対して失礼だと叱られているのだろう。

図6 『有象列仙全伝』(慶安三年[1650] 京都・藤田庄右衞門翻刻本、国会図書館蔵)

 次いでお目にかけるのが、最もポピュラーな『有象列仙全伝』である。鄭振鐸『中国古代版画叢刊』に原刊本が収録されているが、ここでは国会図書館に収蔵される日本翻刻本『有象列仙全伝』の第三巻から挿絵・テキストを掲載する(図6)
 王遠、蔡経、麻姑の三人が歓談するさまが描かれている。どれがどの人物かがわかるようにテキストが添えられている。そして面白いのは、蔡経が振り返って、麻姑のほうを見ているところ、まさに王遠が鞭を振り上げているさまを描いたところだ。これはすでに述べたが、麻姑の長い爪を見た蔡経が「あのような爪でかゆい背中を掻いたらさぞ気持ちよかろう」と考えたところ、その心の中を王遠(もちろん麻姑もだが)に読み取られて、はるかに上の身分の高貴な女仙に対して失礼千万、と王遠から鞭を振るわれるところなのだ。江戸翻刻本のテキストは、つぎのようになっている。「麻姑手似鳥爪、蔡経私念背痒時、得此爪掻之佳、方平即知、乃鞭経背、曰麻姑神人也」。
 『有象列仙全伝』では、『列仙伝』よりも詳細なテキストが出ている。麻姑はなぜか王遠の妹とされている。時代が近くなるにつれて、テキストが長くなり、描写が具体的になるというのは、理解できることだ。『有象列仙全伝』は明のもので、高級文化人の王世禎の手が入っているから、話のつじつまが合うように脚色されたのだろうか。安徽省の墨の産地・徽州(新安)で刊行された本で、刻工は徽派の黄一木と名前が残っている。『有象列仙全伝』は日本で何回も翻刻された。絵本としての需要があり、大量に出回ってベストセラーになったらしい。明治にも翻刻があるらしい。多くの画家が、ここに出る人物・仙人を手本にして、様々な人物画や浮世絵の作品を生み出したのだ。
 私はこの版本(江戸刊本)をだいぶ前に入手したが、それには100図を超えるすべての挿絵に「塗り絵」が施してあった。多分、大名家などが専門画家を煩わせて、手の込んだ細工をしたのだろう。子弟や女性らの慰みに、読めない人でも挿絵を眺めて楽しめる工夫なのだ。
 テキストでいえば『新鐫仙媛紀事』が一番長い。そして主人公・麻姑の手を見るとどちらも爪が大変長く描写されている。本当かどうかは知らないが、背中を掻くための「孫の手」はこの「麻姑の手」がなまったものだと書かれている文献が多い。

(たきもと・ひろゆき 著述家、中国版画研究家)

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