香港本屋めぐり 第20回

投稿者: | 2023年3月9日

瀞書窩(ゼンシューウォー)

 

▼ユニークな書店の運営

香港島のセントラルの埠頭から、香港島よりも広い香港最大の離島——ランタオ島の南東部にある梅窩(ムイウォー)行きのフェリーに乗る。普通船で約50分。快速船で30分ほど。ちょっとした船旅の気分が味わえる。梅窩の埠頭から歩くこと15〜20分ほど。海沿いから坂道に曲がる角で蔡刀(チョイ・ドウ)さんが待っていてくれた。今回訪ねた書店「瀞書窩」の店主である。
瀞書窩は一般的な書店とは趣がかなり異なる。まず住所が公開されていない。加えて開店は金曜と土曜のみ。訪問するにはEメールでの事前予約が必要で、予約に成功すると波止場から書店への道程が知らされる。今回もそれを頼りに波止場から歩いた。

留下書舎のある旺角西洋菜街南

梅窩の街並み

留下書舎のある旺角西洋菜街南

梅窩のビーチ

▼台湾での書店体験

蔡刀さんには著書がある。
『台灣民宿環島旅行』(副題:三天兩夜九故事(2泊3日 9つのストーリー))
「蔡刀」は、実は彼のペンネームだ。この本の出版は2013年。台湾各地の民宿を泊まり歩き、そこで触れた人情味や出来事を綴っている。翌年、2014年にはほぼ1年間をかけて台湾の独立書店33軒を訪問した。台湾には泊まれる書店もあり、7軒に宿泊している。中には宿泊設備はないが、店主が「どうせなら、今晩はここに泊まっていきなよ」と言ってくれたところもあった。

留下書舎のある旺角西洋菜街南

蔡刀さんの著書『台灣民宿環島旅行』

こうした旅の中で出会った書店。その店主が推薦してくれた本が蔡さんの人生の行き詰まりを打ち破ってくれたこともあった。行き詰まりといえば、香港社会は2019年に大規模な社会運動があり、2020年にはコロナ禍が始まった。その最中、2020年の初頭、蔡さんは自らをホテルに缶詰にし、向こう10年間の計画を練った。10年後の自らのあるべき姿——目標を考え、そのためには今何をすべきかを書き出していった。その中の一つが「書店を開く」だった。そしてその年の10月、瀞書窩をオープンした。

 

▼書店の中のいくつかの空間

通りまで出迎えてくれた蔡さんのあとについて瀞書窩に向かう。もとは民家だった建物は塀で覆われている。その門が開けられ、階段を降りていく。すると、壁のない開放式のスペースがある。ここでは靴を脱ぎサンダルに履き替える。車輪のついた書架がいくつか置かれている。車輪は閉店時に屋内へ移動するためだ。まずここの椅子に座ると、蔡さんは盃程度の大きさの茶碗がいくつも収まった木箱を運んできた。好きなものを選び、それでお茶をどうぞ、と。
その奥の部屋には喫茶店のようなカウンターがあり、壁にはやはり書架がある。この部屋は「慮堂」と名付けられている。

留下書舎のある旺角西洋菜街南

留下書舎のある旺角西洋菜街南

書架

その脇には奥の部屋へと続く廊下があり、そこにも書架が。また書道の道具も並んでいて、客が筆をとれるようになっている。この廊下は「定廊」という。

留下書舎のある旺角西洋菜街南

定廊

廊下を進むとトイレがある。かつて民家だったからだろう、かなり広い。バスタブもあるが今は使われていない。ここは「安堂」と名付けられている。
一番奥の部屋は「靜廳」。本を選び、読むためだけの空間だ。おしゃべりしてはならない。スマホは脇に置き、読むことに没頭せよ。ソファの他に畳のスペースもある。筆者がここに入室した時は、2人の来店者がまさに読書に没頭していた。自分の低く抑えた足音以外、何も聞こえない空間だった。

留下書舎のある旺角西洋菜街南

留下書舎のある旺角西洋菜街南 靜廳

最初に門から降りてきた階段は「知止梯」。「いつ歩みを止めるべきか。それを考え決める階段」という意味とのことだ。

留下書舎のある旺角西洋菜街南

知止梯

さて、その階段を降りて最初にお茶をいただいたオープンスペース。ここの名前は? 蔡さんの解説。
「まず『得』という1字を考えつき、2文字目は来店者に決めてもらおうと思っていました。そして出てきたのは、得亭、得角、得閣、得道。さらに得堡、得庭、得室、得失など、様々でした。それぞれ趣があり、なかなか決められない。そこで最終的に、2文字目は決めずに未完成感を残すことにしたのです」。
この「得〜」という空間の椅子に座り、お茶をいただき耳を澄ますと、聞こえてくるのは街中の書店とは全く別の音だ。ほど近い海から波の音が聞こえる。鳥たちの囀り。風が木の葉を揺らす音。店内に掛けられた風鈴。本を読むことに没頭できる環境と言えよう。瀞書窩という名前自体、「水辺の静けさの中で本を読む場所」という意味だ。

 

▼本の分類と仕入れ

店内の本の分類もユニークだ。掲げられているプレートは、たとえば「Wabi sabi 侘寂」、「感恩咖啡」(感謝のコーヒー)、「一個人去旅行」(一人で旅行に行く)、「我是誰? 善待自己」(私は何者か? 自分を大切に)など。また著者別のプレートもある。「荘子」、「村上春樹と東野圭吾」、「モンテーニュ」など。

離島ということもあり、本の仕入れは蔡さんが出版社や他の書店を訪ね、自らスーツケースなどで運ぶことになる。そして今、店内の本はおよそ2300冊になった。本の種類には特別な傾向はないように見受けられたが、台湾の本が多いようだ。もちろん香港の中小出版社の本も多く揃っている。

 

▼店主と来店者の語らい

店内の各部屋を見学し終えると「慮堂」に来店者が揃った。この日、筆者を含め来店者は7人。リピーターも多く、中には今日が5回目という人も。「得~」でのお茶に続き、ここではコーヒーがふるまわれた。その中で、蔡さんが心に留めている文章を来店者皆で読み上げるという場面もあった。蔡さんはこの書店を開いた意義を語った。
「本が好きな人たちと共に過ごす時間、そして読書の喜びを共有し、互いに良書を勧めあうという時間を大切にしたいと思っています。コロナ禍という社会全体が苦境の時代になぜ本屋を開いたのか? それは本が私を救ってくれたことがあるからです。島の片隅に本がある。その中の一冊がまた誰かの救いになるかもしれない」。
この「慮堂」では、誰もが心置きなく話すことができる。蔡さんはそれに真摯に耳を傾け、求められればコメントする。こうした「空間」の提供も書店開設の意義なのではないかと感じた。

留下書舎のある旺角西洋菜街南

「慮堂」で来店者にコーヒーなどをふるまう蔡刀さん(右)

▼イベントについて

香港の他の書店のように、瀞書窩でもイベントを開催しているのだろうかと訊いてみた。
「厳密に言えばイベントというものは開催していません。この書店は静かに読書することに適していて、本が主役と言えましょう。ただ、去年のコロナ禍が最も深刻で法的な規制も厳しかった時期、5か月にわたってここを閉鎖せざるを得ませんでした。その時の心の傷を癒すため、Zoomによる読書会を開いたことはあります。
この3月『瀞心日』という試みを考えています。6時間、話はせずにひたすら本を読む。これはイベントとは言えないですね。普段と同じです。違うのは『話はしない』ということ」。

通りがかりに寄る本屋ではない。来店者は「船に乗り、瀞書窩に行って本を読むこと・買うこと」自体を目的としている。ここ梅窩の自然環境の中での語らいは現在の香港にとって一つの癒しであり、「得〜」のスペースで得られたことは、次の行動への原動力になりそうだ。

(取材日:2023年2月25日)

 

▼蔡刀さんのおすすめ

『卡片盒筆記』

出版社:遠流出版(台湾)
著者:Sonke Ahrens
中国語版翻訳者:呉琪仁
ISBN:9789573295082

 

 

 

 

英語のタイトルは『How to Take Smart Notes』。日本語版は出ていないようですが、「賢いノートの取り方」となるでしょうか。しかし実際に用いるのは「カード」とそれを収める「箱」で、それらを活用しいかに思考を深め、論文や著書の執筆に結びつけていくかを説明しています。
このシステムはドイツの社会学者Sonke Ahrens氏が提唱しているもので、それを同じくSonke Ahrens氏が学生・学者・作家に向けて解説した一書です。
実際に、瀞書窩には蔡刀さんが書き記しているカードが大量にあり、「向こう10年間の計画」を練る時にも大いに役立ったとのこと。来客者に一読を勧めていました。

 

▼書店情報

本文にも書いたように、住所は公開されていません。訪問を希望する場合は、書店のウェブ:

https://stillbooknest.com/

の「預約」から申し込みます。予約が成功すると、行き方などが示されたメールが送られてきます。

 

Google Map 香港本屋めぐりMAP

 

写真:大久保健

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大久保健(おおくぼ・たけし) 1959年北海道生まれ。香港中文大学日本学及び日本語教育学修士課程修了、学位取得。 深圳・香港での企業内翻訳業務を経て、フリーランスの翻訳者。 日本語読者に紹介するべき良書はないかと香港の地元書籍に目配。

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