『妻と娘の唐宋時代』まえがき

投稿者: | 2021年7月1日

『妻と娘の唐宋時代』(大澤正昭著、2021年7月中旬刊行予定)より、「まえがき」を先行公開いたします。

 

本書は中国の唐宋時代(七~一三世紀)を舞台に、妻と娘の歴史に焦点を当てた研究の紹介です。全体で七章からなっていますが、これはいわば七通の招待状でもあります。宛先は、中国史に興味のある方、そしてもう一歩踏み込んで中国史を勉強してみたい方です。具体的にいえば、大学史学科の新入生や受験生、あるいは心機一転、中国史を勉強してみたい社会人の方などでしょうか。やる気さえあればどなたでも歓迎いたします。本書では、中国史という分野の研究に足を踏み入れるきっかけを提供したいと思っています。そのためにここでは二点に焦点を絞りました。一つは唐宋時代の女性史、家族史、とくに妻と娘の生き方の問題で、もう一つは彼女らに関わる当時の史料の紹介です。このように焦点を絞ったきっかけから、以下、順に述べてみます。文体もちょっと論文調に変えることにします。

まず、妻と娘の問題、広い意味での女性史に焦点を絞った目的について。

だいぶ昔、二五年ほど前の話である。中国からの女子留学生Cさんと知り合いになった。いまほど留学生がおらず、中国の情報もまだ少なかった時代である。私は中国の現状について知りたいことがたくさんあったので、いろいろと教えてもらっていた。その正月、彼女は「皇居の一般参賀に行ってきました」という。天皇が国民に向かって新年のあいさつをする、例年の行事である。私はここでまず驚いた。あのころの中国ではまだ抗日教育が徹底していたから、日本の天皇は中国侵略の象徴だと教えられていたはずである。その新年祝賀の行事に中国人が出かけていくというのは、かなり違和感があった。しかし彼女は参賀に出かけ、面白かったという。これだけでも時代は変わったと思ったが、もう一つ彼女からの質問は興味深いものだった。「天皇さんがあいさつしたのに、皇后さんは何もいわなかった。どうしてでしょうか」と。なるほど中国人はそこを突いてくるのかと妙に感心した。男女平等の理念を打ち出している中国では、妻が一歩下がって夫についているだけという姿など想像できなかったのであろう。 Cさんは、天皇と同じように皇后も何かあいさつするはずだと期待していたに違いない。けれども期待はみごとに裏切られた。

この話には現在の日本と中国の女性が置かれている立場の違いがよく現れている。日本の夫婦関係では、たとえば夫を「主人」、妻を「家内」とよぶ、性別の立ち位置を表す呼称が使われている。しかし中国ではそのような呼称は一般的ではない。「妻」を日中辞典で引くと「家里的」とか「内人」という語も出てくるが、実際の会話ではほとんど耳にしたことがない。かつては「愛人」という言葉もあったが、いまは「妻子」が普通であろうか。夫は「丈夫」で、やや男性性を強調している気もするけれど、夫婦はほぼ対等な呼称となっている。ではこうした対等な関係はいつからのものであろうか。一九四九年に成立した中華人民共和国による改革の成果ではあろうが、単純にそれだけとは思えない。日本とは異なる夫婦の関係性があったのではないだろうか。これは私が中国の女性史・家族史を考えてみる、一つのきっかけとなった。

このきっかけをさらに後押ししてくれたのは、本書のコラムでも取り上げている、日本で上映された数々の中国映画である。ことに陳凱歌・張芸謀など、文化大革命以後にデビューした、いわゆる第五世代の監督たちの映画は強烈であった。『黄色い大地』『紅いコーリャン』『初恋の来た道』など、どの作品も色彩にあふれ、活気に満ちていた。そこで活躍する女優たちの輝きは、邦画ではすでに色あせてしまったものだなと感じ入った。なかでも印象的だったのは、劇中に描かれた中国女性の生き方である。コン・リー(鞏俐)などが演じる主人公は、救いのない貧困、親に売られた娘、政治に翻弄される人生など、抑圧され、悲惨な境遇に置かれた女性たちであった。そうした境遇にもかかわらず、彼女らは強くしたたかに生き抜いていた。こうした主人公はもちろん創作された人物像である。けれども、抑圧された主人公がたくましく生きているというストーリーは相応の現実を反映しているのであろう。中国の観客たちは自分の経験に重ねて、こうした主人公の生き方に拍手を送ったのだ。そこで考えてみると、これは現代のみの問題ではなく、まさに歴史の問題である。長い間、男性が主導権を握って政治や経済を動かしてきた一方、女性たちは表舞台から遠ざけられ、抑圧され続けてきた。けれども、彼女らは圧力に負けず、家族や社会を支え、動かしてきたのである。では、そうした女性たちは歴史の史料にどのように描かれてきたのか、研究してみたいと思うようになるのである。

ここで付け加えておけば、これは中国史だけの問題ではない。日本にも同じように抑圧されながら強く生きてきた女性はたくさんいる。しかし現代の彼女らの置かれた位置は中国と開きができている。それは世界のジェンダーギャップ調査などにも表れている。こうした現実の違いは是非とも考えてみたい問題である。その重要な視点を提供するのが、前近代の先進国、中国の女性史である。そこではいち早く女性を差別する思想が生まれ、政治や社会の仕組みが整えられ、そうして日本にも輸出された。とすれば中国の歴史を考えることは日本を考えることにも通じている。中国史を知ることは日本の歴史と現在を考えるヒントになるであろう。

以上が本書の一つめの焦点である。ただし私は中国女性史全体を論じるだけの能力を持ち合わせていないので、とりあえず唐宋時代に問題を絞らせていただいた。

次に、もう一つの焦点、史料の問題がある。これも私の経験から始めたい。

私が長年奉職していた大学の入学試験では、かつて二次試験がおこなわれていた。内容は筆記試験と面接。このうちの面接は教員にとってある意味で貴重な経験の機会であった。緊張している受験生と一問一答形式の対話をしていると、そのときどきの受験生たちの考えていることがよくわかった。教員側からの質問は多岐にわたるが、定番の質問に「歴史小説と歴史学の違いをどう考えますか」というものがあった。史学科を目指すからにはそのくらいの知識、常識はあるだろうと教員は思っているから、いわばサービス的な質問である。けれども、これが案外答えられなかった。返答に窮して黙りこんでしまう受験生もおり、これをやさしくフォローするのも面接担当者の役割ではあったが。ともあれ小説と歴史学の区別がつかないということは、つまり、その受験生は史学科に入れば歴史小説が書けるようになるとでも思っているらしい。そうでないとしても小説を読むように面白い講義が待っていると、漠然とであろうが予想しているように思えてくる。こうなると説教好きな教員の出番である。あれこれと解説ならぬ説教をはじめ、そうこうしているうちに面接の持ち時間はたちまち過ぎ去ってしまうのだった。この場面で教員が期待した模範解答は、たとえば次のようなものである。小説は作家が想像の翼を精一杯はばたかせて書き上げるものだが、歴史学は基本的に想像の世界を排除する。歴史学はあくまでも史料に基づいて、ある意味では禁欲的に歴史像を追究する学問である、と。

こう書くと歴史学なんて堅いばかりで面白くないのでは、と思われるかもしれない。大急ぎで付け加えれば、歴史学には歴史学なりの面白さが山ほどあふれている。それは何だろうか。端的にいうと、史料を読み解く、いわば謎解きのような楽しさであり、そうしてそこから歴史像を組み立てる面白さである。史料は人の手になるものだから、当然人間味にあふれている。法令集や制度の解説書のような本では無味乾燥な文章ももちろんある。それらにはそれなりの面白さがあり、読み方次第であるけれど、そこはしばらくおく。一般に個々人の文章には著者独特のクセがあるし、著者の価値観や願望、それに思い込みも入っていたりする。そうした史料を一語一語解読してゆくのである。時空と言語の壁を乗り越え、文意を理解するにはそれなりの苦労があるが、それは仕方がない。苦労がなければ楽しみも少ないのだから。そうして、はるかな時間と空間を飛び越えて、私たちは史料を残した人々と思いを共にすることができる。人間、考えることは同じだなと思うこともあるし、こういう考え方もあったのかと腑に落ちることもある。どんなテーマであれ共感が得られた(と思った)ときは、この上なくうれしいものだ。

ちなみに私の経験をあげれば、半世紀ほど前、切羽詰まって卒業論文らしきものを書いていた。そのとき読んでいた史料(北宋の司馬光『資治通鑑』)で「多少ノ勝敗ハ兵家ノ常ナリ」という、きわめてありふれた、そして単純な一文に出会った。目の前の卒論だけでなく、将来に不安を抱えていた私は、この言葉にただただ共感してしまった。私は「兵家」ではないけれどもそこを別の言葉に置き換えればよいのだ。「受験生」でも「学生」でもよい。あるいは「教員」でも「会社員」でも同じである。そうだ、生きていれば失敗も成功もあるよな、と妙に納得し、思わず肩の力が抜けたことだった。

こんなささやかな経験が私の出発点であった。それ以来、漢文史料と格闘し続けて現在に至っている。この過程で多くの興味深い史料に出会い、そのたびに自分の世界が広がってきた。本書ではそうした史料の一端を紹介したい。というよりも史料自身に語ってもらおうと思う。テーマはもちろん前述の女性にかかわる問題である。もとより史料のほとんどは男性が書き、それゆえ男性中心の記述が主だが、実は女性の姿が垣間見える文章も多い。「歴史の裏に女あり」ではないけれど、行間に女性がいるのではないか、「彼」の行動を操っている「彼女」の影がみえるのではないか、などと視線を研ぎ澄ますのである。

またその際、史料の選択も重要である。本書でしばしば使っている、判決文集、家訓、「小説」史料などは比較的女性が多く登場する史料である。そのうえで記事の片隅にまで目を配り、女性に関する話題はもちろん、彼女らが生きていた痕跡や舞台を何とか探し出そうと試みるのである。すると必ず何か気がつくことがある。これらを糸口に、歴史上の女性のあり方を考え、当時の社会を考えてゆく。

ただし本書に取り上げた史料は、概説書などではほとんど触れられることがないものである。その理由はいくつかあろうが、分野が特殊だったり、歴史事実の究明にはふさわしくない史料だとみなされたりするからである。また学界でも読み方が一致していない難解な文章が含まれていることも大きな理由になる。本書では、こうした史料も〈独断と偏見〉であえて取り上げている。私の解釈が誤っている可能性もあるが、その判断は読者にゆだねるしかない。私にとっては冒険であるけれど、緊張感がなければ著者としての面白さがないのも事実である。

 

本書は各章ごとに独立し、妻と娘に関わる史料を取り上げている。それぞれに一応の結論は出しているが、まだまだわからないことだらけである。それを研究し、新しい歴史像を作るのは、これから研究を始める人々である。とくに若い人たちの斬新な視点と熱意に、大いに期待している。もし本書がそのきっかけを提供できたならば、中国史研究者としてこのうえない喜びである。

(大澤正昭『妻と娘の唐宋時代』まえがき より)

 

『妻と娘の唐宋時代 史料に語らせよう』〔東方選書 55〕
大澤正昭著
四六判296頁
定価2420円
2021年7月中旬刊行予定

 

 

 

 

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