情報の流儀

投稿者: | 2024年2月15日

西澤 治彦

 

■情報の移り変わり

 自分にとって役に立つ「情報」をどうやって集めるかは、人間にとって生きていく上で大切な技術である。ましてや研究者の場合、これは研究の質とも関わってくる。というのも、研究というのは先人の研究を受け継いでいくものなので、関連する先行研究を可能な限り押さえておく必要があるからだ。「知らなかった」という言い訳をしたところで、単なる「勉強不足」と言われても仕方がない世界なのだ。
 こうした基本的な技術にもかかわらず、情報(研究の場合は文献)の集め方というのは、学生の時を振り返ってみても、あまり教えられた記憶がない。意識的にいろいろな文献を集めはじめたのは、卒論を書いたときだと思うが、図書館で蔵書カードをめくったり、本屋や古本屋を渡り歩いたりして、自分の「足で集めた」ものだ。それから半世紀近く経ち、情報の集め方も大きく様変わりしてきたし、情報そのものの意味も変わりつつある。その変化の過程を書き記しておくのもなにがしかの意味があろう。

■アナログ時代の情報

 今から振り返ると、私が研究者を志した時代というのは、情報もアナログ時代であった。つまり、デジタル化された情報ではなく、「現物」を探し求める時代であった。ネット検索に慣れた若い世代からみたら、ずいぶんと非効率で、時間の無駄遣いをしていたものだ、と思われるだろうが、決してそんなふうに感じたことはなかった。図書館の書架を棚ごとに見て歩いたり、偶然に立ち寄った古本屋で、知らなかった本、欲しかった本を見つけたときの胸のときめきが、それまでの苦労を吹き飛ばしてくれたからだ。
 図書館のレファレンスには、ずらりと各種の文献目録が並び、物知りの司書の人が、「そのテーマなら、これを当たってみなさい」と、あれこれアドバイスをしてくれたものだし、古本屋の店主も、図書館司書に劣らず、扱っている専門の本に関しては詳しかった。
 もう一つの文献の集め方は、本なり論文の参考文献リストから、参考になりそうな文献に一つ一つ当たっていくことだった。いわば、芋づる式に、関連する文献がどんどんと増えていく。こうして苦労して集めた文献は、自分にとってのかけがえのない情報のストックであり、使い終わったからといって、消去されるようなものではなかった。
 もちろん、文献を集め出したらきりが無いので、時間の制約を受ける。それもあって、将来、研究したいと考えているテーマについても、同時進行で集めていく。テーマによっては外国語の文献の方が多いこともある。複数の外国語が読めるほど、情報源も広がっていくので、自分が扱えない外国語文献を読める人を羨ましく思ったものだ。
 文献はできる限り網羅的に集める。その上で、必要なものを取捨選択していくことになる。こうした作業を繰り返していると、文献の集め方のコツも分かってくる。そして、不思議と集めるべき文献がいつの間にか集まっていくようになる。いわば、アンテナを張った状態になっているので、必要なものが自然と自分に引き寄せられてくる感覚だ。
 これは骨董の蒐集家がよく体験する、骨董の方から「自分を見つけ出して欲しい」というオーラを出しているのに似ている。結局、骨董は所有されるべき人に所有される運命にあるのだ。そう、この運命的な出会いというのが本や文献にもある。まるで見えない糸で結ばれていたかのような感覚だ。
 考えてみると、このアンテナの電源は、学生時代にオンにして以来、一度もオフになっていない。一時的に大きなエネルギーを使うこともあるが、普段、流れているのは微量の電流だし、それほど負担ではない。この電力を発電しているのは、未知なるものへの好奇心そのものだ。論文を書かなくなったり、本を読むのを止めたりすると、きっとこの電流も先細りしていき、最後は消えていくのだと思う。

■検索の落とし穴

 ところが、インターネットの時代が到来し、情報の集め方は一変した。とりわけ、各種の検索エンジンが世に出てからは、情報収集はまずネット上で「検索」することから始まるようになった。もちろん、これはアナログ時代から比べたら、革命的な進歩で、便利なツールであることは間違いなく、その恩恵を自分も受けている。
 しかし、「検索」することしか知らない世代を見ていると、便利さと引き替えに、何か大事なものが抜け落ちているな、と思うことがしばしばある。アナログ時代を知っている世代は、両者の違いも体験的に分かっているし、使い分けが出来る。
 何が違うのか。それは、アナログの場合、脳が常にアンテナを張っている状態であるのに対し、デジタルの検索は、必要な時にだけ電源がオンになるということだ。この違いは大きい。まず、アナログの場合、情報の厚みが違う。というか、情報の質が違う。つまり、情報が一つの体系をなす塊の状態で集まってくる。こうした情報は複合的であり、360度の視界をもっているので、発展的なのだ。芋づる式にどんどん広がっていく。そして、そうした情報との出会いは、偶然が支配する。これが面白いのだ。脳のシナプスが敏感に反応する。
 対して、ネット上での検索というのは、検索語を入れることによってしか作動しない。雑誌の論文にしても、お目当ての論文だけが雑誌から切り取られ、PDF化されて提供される。雑誌に掲載された他の論文や、雑誌そのものから受けるインスピレーションもない。相手は底の見えないブラック・ボックスのようなもので、引き出した情報は、検索語の反響、しかも断片化された情報でしかない。検索を繰り返しても、どんどんと減衰していくだけで、それが体系化された知の塊となることはない。情報との出会いも、必然が支配する。意外性がないので、必要な情報を得ても、脳が感動することもない。喩えて言えば、巨大な漆黒の池に、釣り糸をたらしては、断片化された情報を一つ一つ、釣り上げているようなものだ。アナログの場合、書店の店内や図書館の書庫を見渡すことにより、その総量を目視することができる。しかしネットとなると、その得体の知れない池は日々、増殖し、どのぐらいの大きさなのか、一体、何が入っているのかを誰も知ることはできない。
 こうして、釣り上げた情報の断片は、その場で消費されるだけで、たいした価値もない。しかもそれは無料で手に入れた情報であるから、なおさら人に高値で売れるものでもない。インターネットの普及は大きな恩恵をもたらすと同時に、情報の検索に関しては、体系的な知を断片に解体してしまう結果となってしまった。おまけに、ネット上の情報は、新しさが命となっていて、古いものの価値はどんどんと低下していく。
 お金を出して本を買い、それを読む人は、単なる情報の断片ではなく、その著者の知の体系ができあがっていくプロセスを追体験しているのだ。一人の人間が一生の間に書ける本には限りがある。一冊の本には、その人の人生をかけた研究や体験が凝縮されている。それをわずか数千円で追体験できるなんて、安いものだ。
 しかし、今はそうした本が売れない時代になってしまった。だが、「ただほど高いものはない」という諺を忘れてはいけない。ネット漬けの現代人は、情報の収集家から、知らず知らずのうちに、情報の消費者になってしまってはいないだろうか。しかも、それは無料であるがゆえに、情報が本来もっていた価値も限りなく安価なものにしていってしまう。このベクトルの行き着く先は、情報の無力化であるように思えてならない。いつでも検索できるなら、何も今やらなくてもいい。価値がなくなれば、人々はやがて情報すら、求めようとはしなくなるかも知れない。

■情報源としての人間

 アナログの時代、いろいろな情報を足で集めていたころに、ふとその限界を感じた時があった。その当時、情報科学なるものがもてはやされ、情報とは何なのか、ということを思い巡らすようにもなっていた。そして私なりに辿り着いた結論は、一番、情報をもっているのは、実は生身の人間である、ということだった。
 喩えて言うなら、建築関係の専門書をいくら読んでも、素人がいい家を建てることはできない。しかし、大工の棟梁が一人いれば、立派な家が建つ。そしてこれはあらゆる分野に言えることだ。何も特別な専門知識をもっていなくても、一人のネイティブ・スピーカーがいれば、その言語のあらゆる情報を体得しているものだ。
 人間のもっている情報の凄いところは、経験に裏打ちされた、即座に使える知識であるということだ。しかも、その情報の伝え方も、相手をみて、その量と伝え方の調整もできる。こんな芸当は、ネットにはできない。誰が検索しようが、提供される情報は一律だ。つまり、その分野の専門書を100冊読むよりも、その分野の専門家一人に教えを請うた方が、はるかに役に立つ情報を得られるということだ。そうなると、いろいろな経験を積んだ年配者ほど、多くの情報をもっていることになる。若い人には斬新な発想があるが、年配者の経験も捨てたものではないのだ。
 こう考えると、むやみに情報を集めまわるよりは、さまざまな分野の専門家と知り合いになる方が、得られる情報の質と量は格段に上がる。昔からいう「耳学問」も、ばかに出来ないのだ。研究者の世界で言うと、大家から「薫陶を受ける」というのがある。直接、何かを習うということはなくとも、側にいて一緒の空気を吸っているだけで、その人からいろいろなものを学ぶことができる。
 情報は、知っている人から知らない人へと流れる。教育の現場がそうだ。しかし、同世代の人間との付き合いとなると、情報は相互に流れる。これが情報交換だ。互いにもっている情報を無償で交換しあう。時には食事を共にしながら、何気ない会話のなかで貴重な情報が行き来する。これが会話の楽しさであり、会食の喜びである。

■ネット時代の情報

 時代の流れについていき、新しいデバイスを活用して得られたものも、一つの情報だ。インターネットの出現により、アナログ時代にはとうてい出来なかったことが、いとも簡単にできるようになった。時間を逆行してこの恩恵を捨てる意味はない。今の世でアナログ的に生きよ、というのも時代錯誤だ。要は、人と情報との出会いの仕方は、検索だけではない、ということだ。時には、偶然が入り込むアナログ的な方法も、意外性があって楽しいものだ。そして、肝に銘じておくべきは、最大の情報源である、一人一人の人間との出会いを大切にする、ということだ。
 人との出会い方は、人生のステージによっても違ってくる。若い時は情報を受けとる側にいるが、やがて対等の関係となる。そして最後は情報を伝え残す側にまわる。いずれの場合も、検索して出会う、というようなものではない。出会いというのは、後から振り返ると必然性があるものだが、出会う瞬間というのは、偶然が左右するものだ。これがまた出会いの不思議さであり、人生の妙味といえよう。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

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