読解の流儀

投稿者: | 2024年1月15日

西澤 治彦

 

■読書と読解力

 読書を楽しむことと、文章を正確に読解していくのとは、同じ様な行為に見えて、別物だ。もちろん、量をこなすことで質も向上するという意味では、多読は読解力をつける上で必要条件ではあるが、必ずしも十分条件ではない。読書家がそのまま読解力に長けているとは限らない。
 同じことは研究者にも言える。資料や論文、本を読むのが文系の研究者の仕事であるので、研究者になろうとしている人、なっている人は、皆が同じレベルの読解力を身につけているものだとばかり思っていた。しかし、決してそうではないということに、ある段階で気がついた。それがはからずも露呈してしまうのが、研究者が手がけた翻訳や、専門書に対する書評を読んだりする時である。翻訳ものを読んでいて、日本語として分かりにくい個所に出会うと、原文に当たってみることがある。すると、明らかに誤読をしているということがよくある。いい翻訳には日本語の表現力も不可欠であるが、その前に必要なのが外国語の読解力である。原文の誤読は誤訳に直結する。誤訳があると、本全体も歪んだものとなり、それが増えるほど原著とはほど遠いものとなってしまう。
 書評も読解力が大いに関係してくる。自分の書いた本であればなおさら、人が書いた本であっても、自分も読んだ上で人の書評を読むと、なるほど、そういう読み方もあったのか、と感心することもあれば、明らかにポイントがずれた読み方をしているな、と思うこともある。ずれているだけならまだしも、その程度の読解力で批判まで展開されてしまうと、読む気も失せていく。学会誌の中には、批判的な書評をめぐって、著者と評者との間での「応酬」がなされることがたまにある。一見、有意義な議論に見えて、そのほとんどは相手の読解力に対する批判合戦だったりして、読者としては、それは二人だけでやってよ、と言いたくなることもしばしばだ。

■読解力の磨き方

 では、どうしたら読解力を磨くことができるのか。その力を格段に磨くことが出来るのが、さきに述べた翻訳と書評だ。翻訳は出版の当てがなくても、自分の勉強としてやるのであれば、いくらでもできる。人に見せれば、コメントももらえる。翻訳の過程でいちばん磨かれるのは、実は表現力ではなく、読解力だ。訳文がきれいな日本語にならない場合、往々にして意味を取り違えていることが多い。自分は読解力があると思っていても、外国語となると、そうはいかない。この過程で、外国語とはいえ自らの読解力のなさに気付かされるし、それが日本語の読解力に対する「自覚」に繫がる。この自覚こそが、日本語の読解力のさらなる向上を後押ししてくれる。
 書評は雑誌での掲載を前提として書けば、衆人の目に触れるので、手を抜くことが出来ない。ただ流し読むのとはまるで違う、この著作との真剣勝負が、読解力を磨いてくれるのだ。外国語の書籍を書評するとなればなおさら辞書を引き引き、精読しない訳にはいかなくなる。私自身、別段、読解力を磨こうと思って翻訳をしたり、書評を書いてきた訳ではないが、振り返ってみると、自分でも自覚できるほど、このおかげで読解力が身についたかな、と思う。
 特に書評の場合、著者がその本で一番、言いたかったことは何か、さらには著者自身も気がついていないその本の隠された可能性は何か、などを探りながら読んでいくので、単に正確に意味を理解するという以上に、深読みができるようになる。いわゆる、「行間を読む」というやつだ。微妙なニュアンスの違いとか、レトリックの裏に隠されている真意を読み取るというだけでなく、その本が持っている真価はどこにあるか、を見抜くことができるようになる。これは、さまざまな資料を読み込んでいく研究者にとって、最も基本的な素養であり、また身につけなければならない技であると思う。もっと言えば、いやしくも文章に関わる仕事をしている人間としては、この力が全てである。
 書評を書くことによって磨かれる副産物として、本の内容を要約する力が上がる。要約することは、副次的なものを取り除き、大事なものだけを選び取る作業である。この作業をすることにより、自分でも何が大事なものであるかを考えざるを得なくなる。頭の中に篩が出来上がるのだ。しかも、それにはいくつかの段階があり、選別する篩の目も変わってくる。30行で内容を要約するよりは、10行で要約する方が頭を使う。さらに1行で表わすとどうなるか、となってくる。著者が論文にタイトルをつけるのは、まさにその作業を行なっているとも言える。
 私は、勤務先の大学の演習で学生の読解力をつけさせるため、学期末のレポートは、授業で輪読した本の書評を書かせるようにしていた。また、卒論を控えた学生らの演習では、定期的に一本の論文を読ませ、要約してくるように指示した。それを皆に回覧し、互いに読み合って、批評し合うという授業を行なっていた。合評会形式にしたのは、人の要約の仕方も学べるし、公表されるので真剣味が出てくるからだ。その際、A4一枚に、内容を30行で要約するバージョンと、5行で要約するバージョンの二つを書かせた。その意図は、要約のレベルに段階を設け、字数に応じてより重要な点を選び出すことのできる、柔軟な選択眼を養うことにあった。この課題のもう一つの意図は、論文や本にはその著者が最も訴えたかった論点というものがあり、それを理解せずに一部分だけを引用するのが如何に的外れなことであるか、を教えることにあった。自分の論点にとって必要な個所を引用する際には、著者の全体の論点なり、引用個所の文脈を簡単に触れるように、と指導していた。この作業を怠ってしまうと、ポイントがずれてしまうだけでなく、歪曲して引用していると批判されてしまうことになる。引用の仕方一つをとっても、その人の読解力が出てしまうものだ。

■読解力と表現力

 翻訳や書評の他に読解力をつける方法が、文章を書くことだ。実際に、論文なり本を書いてみると、自分で自分の表現力の限界を感じるものだ。あれこれ工夫しながら、文章を練っていくと、自分が言いたかったことに近づいていく感覚がある。さらには人のコメントも取り入れながら、推敲を繰り返していくと、自分でも満足のいく達意の文章に仕上がっていく。この過程を何度も経験するうちに、人が書いた文章を読んでいても、まだまだ推敲の余地があるな、と不備なところに目が行くようになる。
 思うに、経験から言って、その人の表現力はその人の読解力に比例する。表現力のある人は読解力もあり、読解力のない人は表現力も弱い。ではどちらが先かというと、これは読解力が先で、表現力は後から付いてくるものだ。文章を書くという行為は、意識的にせよ無意識にせよ、当初は自分がいいなと思う文章をなぞることから始まる。これを繰り返していくうちに、文章表現の幅も広がっていき、やがて自分自身の文体というものが形作られていく。従って、どのような文章をどれだけ読んできたかで、その人の文体が決まっていくと言ってもいいぐらいだ。文書の上手い人は、それだけ多くのいい文章を読んでいる。うまい表現方法を学ぼうとして読む訳だから、読解力も知らず知らずのうちについてくるという訳だ。
 近代の学校教育制度が整備されていく中、幕末から明治にかけて、「読み書き算盤」という言い方がなされた。これは初等教育で教えるべき基礎的な能力を指す言葉だが、文章の本質を見事に捉えている。しかも、書くことよりも読むことを先においているのも的確だ。ちなみに、英語でもこれに相当する表現として、3R’s、即ち Reading, Writing, Arithmeticというのがあり、このことは世界共通のようだ。あるいは、こちらが原文なのかも知れない。だとすると、「読み書き算盤」とは名訳だ。
 読むことと書くことという二つの力は、表裏一体となっているだけでなく、互いに相乗効果を生み出す関係にある。読解力が増すほど、いい文章が書け、いい文章を書くほど、読解力も増す。こうなると、人が書いた文章にもそれだけ厳しくなってしまうが、読解力をつける目的はそこではなく、厳しい視線は自分の書いたものに向ければいい。書きあげた文章を読み返していくと、一読者として自分の文章を「読解」している、という不思議な感覚になる。まさに書き手としての自分と読み手としての自分が一体化する瞬間である。そして、この文章はもうこれ以上のものにはできない、と感じた時が脱稿の瞬間であるが、この判断を下すのは、この両者が一体化した自分なのである。

■読解力の応用

 さて、最後に、研究者としての現実的な問題について触れておきたい。昔、誰かが「本は表題から奥付まで読むべし」と言っていたのを思い出す。逆に言うと、このように読まない人が多いということであろう。店頭で本を選ぶ際に、目次のほか、「まえがき」に目を通す人は多い。これでだいたいの内容と文章力が分かるからだ。「まえがき」がつまらないと、買うどころか、途中で本を閉じてしまう。私も、献本されたら、その日のうちに、「まえがき」と「あとがき」だけは読むことにしている。全文に目を通さなくても、おおよそのことは分かるからだ。そうしておくと、後日、本人と本のことが話題になっても、話についていける。
 研究を仕事とすると、読まなければならない論文や本は山ほどある。研究テーマが広がるごとに、その範囲も拡大していく。もちろん、自分の研究と直結するものは精読するが、全ての論文や本を精読する時間はとてもない。それもあってか、最近の論文には、投稿規定で、文頭にアブストラクト(要旨)を載せるようになっているものが多い。中には、それも読むのが面倒な人向けなのか、キーワードまであげているのもある。論文を精読しようと思っている人には要旨など要らないし、はなから読む気のない人は要旨すら読まない。昔の論文は、タイトルを別とすれば、如何に読者を引きつけるか、書き出しが勝負であった。これを考えると、今の論文はずいぶんとサービス過剰だ。そうしないと読んでもらえないからだろうが、却って逆効果のような気もする。過去の名論文といわれるものには、要旨などついていない。
 膨大な論文や本を読まねばならなくなると、斜め読みや拾い読みもやむを得ないときがある。それどころか、短い論文だと、節立てや文末の注、もしくは参考文献を見ただけで、その概要や重要度の見当がつくというものだ。これは極端な例であるが、読解力がついてくると、こうした読み方でもそれなりに中身を把握できるようになってくる。その上で、自分の研究や論文執筆にとって必要な部分、使える部分を、素早く見つけ出す力もつくようになる。但し、読解力をつけた上での「斜め読み」が単なる「拾い読み」と違うのは、論点を正確に把握した上で、引用個所の文脈もしっかりと理解している点である。全文を読んでも文脈を取り違える人がいるぐらいだから、これさえ押さえておけば、それほど非難されることではない。とはいえ、引用に際しての本人の「後ろめたさ」はどうしても残ってしまう。なので、自分の研究の核心に関わるものであれば、やはり関連する文献は全文を精読する必要がある。それを経た上で引用すると、その背後に見え隠れする「自信」が、読者にも伝わるものだ。
 研究というのは独り善がりでするものではない。とりわけ、文献をベースとする文系の研究というのは、昔も今も、先人の研究を土台にして、さらに新たなものを付け加える、という営為なので、まずは先行研究をしっかりと読んでいく力が求められる。そうして初めて、先行研究の評価と位置づけも的を射たものとなるし、引用してもすんなりと収まる。反対に、文脈からはずれた引用をしたり、甚だしきは論旨の誤読をしてしまっては、せっかくの研究が土台から崩れてしまう。表現力の前に、読解力を磨く必要があるのはこのためである。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

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