文章の流儀

投稿者: | 2023年12月15日

西澤 治彦

 

■文章の本質

 文章には、人に読んでもらう文章と、そうでない文章とがある。後者なら好きに書けばいいが、前者ならそれなりの工夫が必要だ。「言葉では言い表せない」という言い回しがあるように、言葉には自ずと限界がある。会話ならまだボディー・ランゲージを駆使できるが、文章となると書いたものが全てとなる。文字を手にして以来、人はこの永遠の追いかけっこをし続けてきたし、これからもすることであろう。
 文章は単なるコミュニケーションのツールではない。人間が書くものなので、文章にはその人の教養だけでなく、人柄までも出てしまう。人の心を鼓舞することもあれば、人を傷つけることもある。文書の持つ力を知るにつけ、簡単には書けなくなる。文人とは、そんな文章の世界に親しみ、自らも文章がもつ限界に挑戦している人ということもできよう。
 達意の文章とは、伝えるべきことが無駄なく明晰に述べられているものであるが、文章にはこれ以外にも、さまざまな個性がある。凛とした美しい文章、味わい深い文章、研ぎ澄まされた文章、情感溢れる文章、ドライブ感のある力強い文章などなど。それだけ、情況によって理想とされる文章には幅がある。こうした文章が書けるのは、日々の鍛錬の賜物でもあるが、それ以前に、書き残しておきたい、という止むに止まれぬ情念を内に秘めていなければ、人の心の機微に触れる文書は書けないし、書いている本人が面白がって書いていないと、読んでいて面白い文章にはならない。この奥深い文章の世界に足を踏み入れるからには、どうしたら自分が納得する文章が書けるようになるのか。まだその道半ばではあるが、私なりに試みてきたことをここで記してみたい。

■達意の文章への道のり

 生まれながらにしてすらすらといい文章を書ける人はいない。語彙や表現力というのは後天的に学んでいくものだ。もっと言えば、習字と同じで、最初は見本を真似ることから始まる。そのためには、見本となるいい文章を沢山、読むことだ。これはスポーツも含めて、全ての習い事に言えることであるが、一定の量をこなさないと質の向上は起こらない。ただし、闇雲に量をこなせばいいというわけでもなく、効果的なやり方というのがある。その人が触れた最高のものが、その人の基準値となる。文章の場合も同じで、いい文章に触れると、そうでない文章との違いが見えてくる。いい文章を書きたければ、自分がいいと思う文章を読み込んで、常に基準値を上げておくことだ。読書のいいところは、それを楽しみながらできることにある。要するに、ふだん読む文章の質と読書量が、その人の文章力に反映されるということだ。
 研究者が書く論文の場合、事実を的確に述べればいいと思われがちだ。論文の文章に美しさや切れ味、清廉さ、含蓄、力強さなどは求められないと。確かに理系の場合はそうかもしれない。だからこそ、母国語ではない英文でも論文を書きやすい。しかし、文系の場合は、学問の性質上、そうとも言い切れない。法律文やマニュアルは、誤解や曲解の余地がないように書かねばならぬので仕方ないとしても、文学や歴史を論じる文章が味気ないと、誰も読んではくれない。美学を論じる文章に美しさがなかったら、説得力があるだろうか。文字で表現する人文学というのは、文章そのものが持つ力が常に問われる学問なのである。
 さて、文章力を磨くには、いい見本を沢山読むほかに、もう一ついい方法がある。それは翻訳を経験してみることだ。この場合の翻訳とは、外国語から日本語への変換ばかりでなく、古文から現代日本語への変換も含まれる。自由に思うことを文章で表現するのと違い、翻訳の厳しいところは、元となる文章があるので、善し悪しが常に計られてしまうことにある。翻訳には、外国語に対する読解力は大前提だが、いい訳文にするには日本語力がものを言う。
 しかも、訳文の候補は自分の中ですら複数ある。この中から最適なものを選び出さなければならない。しかもその幅は、逐語訳から意訳まで広く、日本語としての分かりやすさを維持しながらも、どれだけ原文のリズムや緊張感を出せるかなど、悩みは多い。中には、翻訳不可能と思われることばすらある。一行訳すのに、何時間も格闘することもしばしばだ。
 この過程を経ることにより、日本語の表現力には無限の可能性があることを知る。文章力が磨かれると言うよりも、文章表現の幅を体感できることが大きい。限られた選択肢からではなく、数多くの中から一つだけ選ばれた表現には、背後に控える厚みが醸し出す練度があるのだ。
 同じ翻訳でも、原著の言語によって、できあがる日本語表現も微妙に変わってくる。私は英語と中国語からの翻訳しか経験がないが、英文を訳しながら、「欧文脈」がどんなものかを実感することができた。文字としての漢字は日本語にとっては、切っても切り離せない関係なので、古代漢語も含めて、中国語からの翻訳は、日本語の過去と未来を考える上で、学ぶことが多い。訓読っぽく訳してもいいが(漢文脈)、漢語が増えると、格調は高くなるが、難解になる。その対極にあるのが、やまとことばを多用した柔らかな日本語(和文脈)である。漢字を捨てることができない以上、これからも日本語における漢字の位置づけをめぐる議論は、ずっと続くことであろう。

■制限の中の自由

 文章力を磨く上で、翻訳よりも手軽な方法は、コラムとはいかないまでも、短いエッセーを書くことだ。原稿枚数に制限があるというのがポイントだ。
 何事にも「限り」なり、「枠」がある。人生も、限りがあるから生が充実する。日本の文化や日本語という「枠」から出ることはできても、また別な「枠」に入らなければ、人間は生きてはいけない。ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』の中で述べている如く、広義の「遊び」もまた、限定された場所と時間の中だけに成立する。これは制約とも言えるが、それがないと「遊び」は成立せず、文化もまた維持できない。これを「制限の中の自由」と表現する人もいる。
 限られた枚数の中で、分かりやすさを保ちながら、どれだけ内容を濃くできるか。饒舌でも、言葉足らずでもいけない。重複を避け、簡潔にしながらも、「読ませる」文章にしなければならない。その一方で、短い文章であればあるほど、細部にも注意を払う必要がある。細部と全体とが引っ張り合うことによって、バランスのとれた、緊張感のある文章になる。レトリックを磨くには、限られた枚数で書くのを繰り返すといい。字数制限をさらに突き詰めていくと、俳句や短歌となる。これと長文との中間に位置するのがコラムなり短いエッセーだ。
 論文ばかり書いている研究者も、実はこういう文章を書いている。一つが書評だ。書評を書くことの難しさには、この枚数の少なさも関係していよう。もう一つが、本などの「あとがき」(跋文)だ。緻密な議論を重ねた研究書でも、「あとがき」だけは、一仕事終えた感慨に浸りながら、脱力しながら書く。自著を客体化しながら俯瞰する過程で、著者の人となりが滲み出る。本文は精読しなくても、「まえがき」と「あとがき」はしっかりと読むという人は多い。宮崎市定が全集刊行後に『自抜集』を出したのは、そうした需要があるからだ。
 エッセーの場合、短いだけに、出だしと終わり方が大切だ。最初の数行がつまらなければ、読み進めてもらえない。短い文章ほど、一気呵成に書きあげるものだが、頭の中を整理していき、うまく「執筆モード」にもっていけると、書き出しもスムーズになる。自分のテンションを上げていくには、友人との議論でもいいし、過去に自分が書いた文章を読み返すのもいい。終わり方も大事だ。落語の「落ち」と同じで、これで全ての印象が変わってしまう。とはいえ、落語と違って文章は瞬時に消えていく話芸ではない。文章を修正する時間は十分にあるし、しばらく「寝かせる」ことによって、自分の文章を客観視することもできる。文章に推敲は不可欠だが、短い文章ほどその大切さを学ぶことができる。

■デジタル化と日本語のゆくえ

 日本語による文章を語る上で、1990年前後に始まったワープロの普及について触れないわけにはいかない。手書きの時代には、専用の原稿用紙を作ったり、疲れないペンを求めたり、インクに拘ったりと、それなりの楽しさがあったものだ。しかし、こうした消えゆく物へのノスタルジーは、毛筆からペンに変わった際にも起こったことである。ワープロに慣れると、もう手書きの時代に戻りたいとは思わない。清書の必要がなくすぐに印刷できるとか、添付ファイルで送ることができるなどのメリットがあるが、私が思うワープロの最大の利点は、文章の前後を自在に組み替えることができる点にある。
 しかし、便利さの裏には何らかの落とし穴があるものだ。清書は文章を推敲する最後の機会であったが、これがなくなった。さらに、書く人の筆跡も消えた。執筆段階での横書きの普及も、ワープロがもたらした変化の一つで、横書きだと、カタカナによる外来語が気にならないどころか、英文を挿入しても違和感がなくなる。しかし、やはり日本語は縦書きで発展してきた文字だ。不思議なもので、縦書きで印刷された文章の方が、校正の際に、カタカナの多用をはじめ、同じ語句の繰り返しとか、係り結びのズレなど、いろいろと気がつくことが多い。横書きと縦書きとでは何かが違うのだ。
 漢字も、その字義を深く理解して使い分けを吟味する訳でもなく、今はワープロが勝手に変換していく候補から選ぶだけとなった。もはや表現に無限の可能性はないし、それを追求しようとも思わなくなっている。文章のチェック機能も、英単語のスペルチェックはいいとして、文章表現まで直されると、個性が無理やりに押し曲げられるようでいい気はしない。文章には、単なるメッセージの伝達だけではない、何ものかが付加されていることが忘れられようとしている。
 キーボードからタブレットへの転換により、今後はAIによる予測変換がさらに進み、文章の定型化はさらに進むであろう。便利な反面、自動翻訳機の日本語のように、平板な日本語だらけになっていくような気がする。生成系AIの書いた文章はその最たるものだ。ネット上では、無個性で無難な文章が日々、大量にアップされてはサーバーの底に沈んでいく。
 思うに、日本人の日本語力が落ちたとすれば、それはワープロの普及やデジタル化のせいだけではなかろう。漢文教育の縮小により訓読の習慣も消えつつある。グローバリゼーションとかで、英語による教育も増えつつあるが、正確な日本語に訳すわけでもないので、欧文脈を学ぶことにもならない。やまとことばと漢文訓読、それに明治以降は欧文という三要素の緊張関係の中で、日本語は磨かれてきたと思うが、その土台があやしくなりつつある。
 もちろん、ことばや文体は時代と共に変化していくものではある。だが語彙や表現力の縮小が、知性の縮小を意味しているとしたら、文章を書くことを生業としている人間の果たすべき役割は、決して小さくはない。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

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