推敲の流儀

投稿者: | 2023年10月13日

西澤 治彦

 

■作文と推敲

 どんなに文章が上手くて、書き慣れた人でも、いきなりいい文章が書けるわけではない。メモや日記など自分用に書く文章ならいいが、人に読んでもらう文章、あるいは活字にして公表するようなエッセーや論文の場合、そのまま世に出すわけにはいかない。長年、文章を書いてくると、生まれたばかりのものでも完成度は比較的高くなるが、それでも完璧なものではない。ましてや、新たなテーマに挑戦する場合など、完成度が低くなることは自分でも自覚できる。
 そこで、何度も推敲というのをする。文章を書くことを仕事としている人ほど、この推敲の大切さをよく知っているので、推敲に時間をかける。一度、活字にしてしまうと、もう直す事ができず、その文章は大げさに言うと、自分の死後であっても永遠に残ってしまうからだ。これはある意味、怖いことでもあり、文章の力を信じる人ほどへたな文章は残せなくなる。
 推敲は、単なる誤字脱字のチェックではない。「推敲」の熟語が生まれたのは、唐代の故事に基づく。科挙受験のために都に赴いた賈島が驢馬に乗って作詩している時に、「僧推月下門」の句を思いつくも、門をすか、門をたたくかで悩み、手でその動作をしていて、不覚にも道行く韓愈の列にあたってしまう。訳を話すと、韓愈が「敲の字がし」と答え、二人は馬を並べて詩を論じ合った、という。一字のことで没頭するほど推敲は奥が深い世界であり、文人ならその楽しさを分かち合えることを示す素敵な故事だ。因みに、英語では文章を推敲する際 brush up, polish, refine, reviseなどの動詞を使う。
 近年のワープロには、英語であれ日本語であれ、スペルチェックの機能がついている。これは推敲ではなく、あくまでスペルのチェックを代行してくれるプルーフ・リーディング(proofreading)に過ぎない。昔、アメリカに留学中、タイプしたターム・ペーパーをそのまま提出すると、よく先生からスペルの間違いを指摘され、プルーフ・リーディングをしてから出すようにと注意されたものだ。当時はワープロが普及する前で、手打ちのタイプライターだった。その時代を知る人間にとっては、ワープロのスペルチェックの機能はありがたい限りだが、推敲まではしてくれない。プルーフ・リーディングは他者でもできるが、推敲は文章を書いた本人がしなければならない。従って、ワープロで文章を書く時代であっても、推敲の大切さは変わらない。ここでは、私なりの推敲の流儀を考えてみたい。

■草稿から完成稿へ

 最初に生まれた文章に対する呼び名はいくつかある。構想やアイデアを書きとめた段階だと、素案、文案、草案などと呼ぶが、文章化されると、下書き、起稿、草稿などと呼ぶ。原稿の「原」も、公表する以前の「元となる」稿の意味だ。未公表に終われば「手稿」となる。この段階のものに、推敲を重ねていくのだ。
 文章を書くにはそれなりのエネルギーを要するので、書き終えて直ぐに推敲にとりかかることはできない。しばらく時間をおいて、脳の「執筆モード」を少し冷ました方がいい。その方が、自分の書いた文章に対して距離を置いて眺めることができるからだ。これを「寝かせる」という。「寝かせる」というと、まるで発酵食品みたいだが、いくら寝かせても草稿が勝手にいい文章に熟成していくわけではない。なので、あまり間を置きすぎて、「執筆モード」がゼロになってしまってもいけない。アイドリング状態を維持しているぐらいがいい。
 寝かせる時間は、文章の長さにもよるが、短いものなら数日でもかまわない。あるいは、次の日であってもよい。ワープロ上の文章をプリントアウトし、いつもの作業場とは違うところで読んでみると、仕切り直しとなり、直すべきところが見えてきたりする。時には、書いてから公表するまで数年間も眠った状態になっている原稿というのもある。こんな時はまるでタイムカプセルを開けるみたいで、「こんな文章を書いていたんだ」と人ごとのように思えることがある。この場合、執筆モードに戻るまでには時間がかかるが、一定の時を経て推敲をする、という点では変わりない。
 自分なりに何度も推敲を重ねた上で、学生なら先生に、研究者なら友人や研究仲間に原稿を読んでもらい、コメントをもらってさらに書き直す、というのも推敲のうちだ。
 幸い、ワープロの場合、書き直しが楽でいい。短いものなら草稿の上に上書き保存していってもいいが、やむなく字数を縮めなければならない長文の論文の場合、元の文章を保存しておきたくなる。削除した文章の復活採用があるかもしれないし、自分の推敲の過程を記録に残しておきたいからだ。ファイルの名称だが、私の場合、修正版、訂正版、最終版などをタイトルの前に入れていたが、これに再修正版なども加わると、どれがどれだか分からなくなるので、頭に★印を重ねていくようになった。これだとリストの中からどれが最終バージョンか、直ぐに分かる。但し、★印がいくつも並ぶとファイル名の後半が見えなくなってしまうという欠点がある。視覚情報よりも確実性をとるなら、ファイルの頭にv1とつけていくのがいいかも知れない。いずれにせよ、旧バージョンは「旧稿」というファイルを作って、そこに移動しておけば、混同を防げる。
 文章を印刷する場合、まだこれで終わりではない。ゲラに組んでもらった際に、最初の読者である編集者のコメントがついてくる。これを参考にしながら読み進めていくと、自分では気がつかなかった日本語としての表現のおかしな所に、気がつくものだ。これには、初校が出るまでに一定の時間を経ているので、自分の文章を客観視できるようになっていることも大きい。入稿時には「このまま印刷にまわしてもらってもかまわない」と思っていても、初校が出てみると、あれこれ手直しをしたくなるものだ。文章を公表する場合、校正の過程もさらなる推敲をしていく時間であり、またラストチャンスとなる。

■推敲の意義

 「推敲を重ねる」という言い方があるように、推敲は一度で済むものではなく、何度も何度もするものだ。一個所を直すと、連動して他も直したくなる。文章の濃度を統一したくなるし、流れを整えたくもなる。書き始めを変えると、結び方も変えたくなる。これを繰り返していくうちに、文章のデコボコも消え、全体の表面が整地されていく。
 原稿に字数制限があると、草稿が字数をオーバーしている場合、否応なしに推敲を迫られる。この過程で、余計なものがそぎ落とされ、本当に必要な文章だけが残っていく。かといって、落としすぎてもいけない。化粧に喩えるなら、厚化粧も見苦しいが、すっぴんも味気ない。薄化粧がちょうどいいのだ。短い文章で多くのことを言おうとすると、レトリックも磨かれる。せっかく書いた文章を削るのは惜しいものだが、結果的にこの方が研ぎ澄まされた、引き締まった文章になることが多い。何事にも「限り」は必要だが、文章の場合、特にそれが言える。今はメールの普及により、昔ほど直筆で書かなくなってきたが、手紙よりも葉書の方が文章に味があったのも、書ける量に制限があったからだ。
 本来、人に見せる文章を書くという行為には、推敲が含まれているものであるが、原稿を書いては推敲を重ねる、という作業を繰り返しているうちに、推敲の方が楽しくなってくることがある。こうなると、草稿よりも推敲の方に多くの時間を使うことすらあり、かける時間も逆転する。これを繰り返していくうちに、草稿を書く行為と推敲という行為は、全くの別物であると思うようになった。喩えて言うなら、草稿は鍛冶師が鍛錬して刀身を形成する段階だ。この段階ではまだ売り物にはならない。研ぎ師がそれを丹念に研いでいって、切れ味のいい見た目にも美しい刃物となる。文章の場合、他人が添削や校正をすれば多少の分業にはなるが、基本的には一人でこの両方の作業をするものだ。鍛冶師の作ったものがよくないと、いくらいい研ぎ師でも最高のものにはならない。反対に、鍛冶師が最高のものを作っても、研ぎ師がいい仕事をしないと、いい刃物にはならない。こう考えれば、推敲が如何に大事かというのが理解できよう。
 人が書いた文章を読んでいると、推敲を重ねた文章か、書きなぐった文章かは直ぐに分かる。刃物の刃先を見ただけで、切れ味が分かるのと同じだ。推敲は、基本的には細部を詰めていく行為であり、その結果、読む方も読んでいて引っかかるところがなく、スムーズに読める。英語でも推敲をpolishと表現するのは興味深い。
 よく研がれた刃物は切れ味が増すだけでなく、見た目にも美しくなる。文章の推敲もこれに近いが、感覚としては、不純物が除去され、一字一句が互いに隙間なく引っ張り合い、美しく凝縮していくような感じだ。そして最後の仕上げとなると、まるで玉の表面を磨いているかのような気分になる。文章の美しさは推敲なしには出せないものだ。即興で作ったかのようにみえる詩歌であってもだ。むしろ、少ない字句だけに推敲の果たす役割が増大する。
 推敲のもうひとつのメリットは、表面を磨くことにより、全体像がより鮮やかに浮かび上がることにある。全体は細部から成り立っている。芸術の世界で言われているBeauty is in the details.(美は細部に宿る)ではないが、細部まで手を抜かないからこそ、全体が美しく映えるのだ。この領域まで達すると、美術品と同じで、終わりというのが見えてこない。推敲に時間がかかる訳だ。そしてもうこれ以上直すところはない、これ以上の文章は書けない、というところで世に出す。

■ネット時代の文章

 インターネットの普及は、多くの人が自分の文章を公開できるようになった、という意味で、画期的な出来事ではある。しかし、目新しいものしか読んでもらえないため、スピードが命となる。何日も、何ヶ月も、時には何年もの時間をかけ、推敲を繰り返した文章が載ることはあまりない。誤字というか、誤変換がそのまま載ることも多い。それもそのはず、十分な推敲がされていないだけでなく、編集者もいないから、チェックする人もいない。これまでの出版プロセスで言えば、これは手稿がそのまま公表されてしまうようなものだ。コミュニケーションのツールとしての文章であれば、それでもいいと思う。何らかの情報を発信したり、意見を述べるのに、なにも達意の名文である必要はない。しかし、こうした時代の流れによって、日本語の文章そのものが味気なく、薄っぺらいものになっていってしまうのは悲しい。先の刀の喩えで言うなら、量販店で売られている使い捨ての包丁のようなものだ。その時は何とか切れるけど、すぐに切れ味が落ち、やがて捨てられてしまう。
 よく練られた文章には、単なるコミュニケーションのツールとしてだけでなく、何らかの力があるものだ。大げさに言えば、魂に響く力がある。読者数は少なくなっていこうが、こういう文章も書き続けられるべきであるし、読み継がれていくべきであると思う。かけた時間は正直で、丁寧に書かれた文章はそれだけ長く生きる。文章の力を信じている者としては、そんな未来の読者に向かって、じっくりと推敲を重ねた文章を残していきたいものだ。消耗品としての文章と、美術品としての文章。その境を分けているのが、時間をかけた推敲ということになる。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

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