中国蔵書家のはなし 第Ⅱ部第3回

投稿者: | 2022年1月17日

蔵書家と蔵書の源流 ─山東省─(3)

髙橋 智

 次に李文藻と同年の周永年について述べてみよう。
 周永年(1730~1791)は、(1)に述べたように、水西書屋という蔵書室を持っていた。蓄積5万巻とも10万巻ともいうが、早く散じ、民国時代、先述した山東の文献学家王献唐がその遺書を博捜したが、得られるものは数少なかった。周氏は衣食を節して購書に努めたと伝えられ、蔵書の富は李文藻と双璧をなしていた。自編の『水西書屋蔵書目録』があったが、それも亡んでしまったので、蔵書の旧貌を尋ねることがかなわない。乾隆44年(1779)に貴州の官についたが、同56年には病を以て帰郷、ほどなく世を去った。遺書は多く四川の李調元(1735~1802 乾隆28年進士第二甲十一名 叢書『函海』の出版で著名)に帰したというが、その蔵書楼である万巻楼も白蓮教徒の乱で難に遭った。
 周永年は、今は済南市になっている歴城という地に居を構えていた。山中の林汲泉というところに山房を結んで林汲山人とも称していたという。乾隆36年(1771)の進士で、第二甲三十一名、同じ山東の出身では、孔継涵(1739~1783)、また文字学で有名な邵晋涵(1743~1796)が同年の進士であった。まさに時が適っていたというべきであろう。及第してほどなく、乾隆38年に乾隆帝の御意により四庫館が開設され、清朝一代の大事業『四庫全書』の編纂が始まったのである。当時、大学士であった同郷の劉統勲(雍正2年=1724 第二甲十七名進士)の推薦により、翰林院に出仕、編修となり『四庫全書』の編纂に大きく携わることとなったのである。
 ところで、周永年は、勿論、蔵書・学識を以て時に顕れた人ではあるが、文献の世界では、「儒蔵説」を唱道したことでよく知られる。漢代以来、官私の蔵書は極めて多いが、やがて散じてしまうのが常である。時を択ばず、地を択ばず、後世に伝えていくには、やはり、仏教書や道教書のように、全書、即ち欠けることのないテキストを結集し、副本を備える営為が必要であると主張したのである。『大蔵経』『道蔵』これ然り、これに倣って『儒蔵』というものもあるべきであると。この説は、既に明代末期の曹学佺(1574~1646 万暦23年=1595 第二甲五十名進士)が唱えていたもので、周永年は大いにこの志を継いで説をなしたのである。

 周永年はその室名を「籍書園」とも名付けている。実際、『籍書園蔵書目録』の抄本が中国国家図書館に現蔵している。「籍書園」の意味を、友人の『文史通義』等で有名な文献学者章学誠(1738~1801 乾隆43年=1778 第二甲五十一名進士)は、書を借り(籍は借りるの意)て読書、抄写ができる、それが時代を越えて行われていく、即ち、広い意味での開かれた蔵書室と位置付けている。
 乾隆時代といえば、宮室を始め、民間でも宋・元・明の古刊古鈔善本蒐集の風潮が全盛の時代であった。ややもすれば秘蔵に傾く向きも少なくはなかったであろうが、周氏のような公共性を主張する蔵書家は、当時としては特筆に値する人であろう。
 『四庫全書』の編纂に当たって、周永年の志は様々に反映されているといわれている。『四庫全書』3万6千余冊は全て手書きの写本に仕立てられる。鈔写するだけでも大変な作業であるが、何せ5千点を越える膨大な種類の典籍を校訂編纂するわけであるから、そこには驚くべき労力が必要とされる。そして、それぞれの典籍について善本を探し他本との校訂比較を正確に行って定本とする。しかし、ここに一つ大きな難点があった。それは、亡んでしまった書物を再現することである。かつて明代の永楽時代(1403~1424)に編纂された『永楽大典』には亡んだ書物の痕跡が多数遺されていた。1万冊に及ぶ大百科全書は、乾隆時代には相当量を減じていたとされるが、それでも数千冊の百科事典のなかから、すでに完全なものとして存在しない書物を引用している箇所を丁寧に拾い上げる作業をすれば、この難点は大きく好転する。気が遠くなるようである。『四庫全書』の目録に「永楽大典本」と記されるものがそれである(拙著『書誌学のすすめ』「書物の生涯」146頁を参照)。編集の学者には、こうした煩雑な作業を嫌う人もいる中で、周氏はその必要性を説き、中心となって引き受けたのである。無論、編集作業に必要な自らの蔵書も多数四庫全書館に提供している。

 また、目録解題(『四庫全書総目』)は、著名な紀昀(1724~1805 乾隆19年=1754 第二甲四名進士)が総纂官であったが、子部(思想・兵家・農家その他)の解題は周氏の手になるといわれている。
 『四庫全書』は、結局7セット作製され、北方と南方にそれぞれ4部、3部と分蔵された。周氏の、副本を作り、天下に遍く、後世に永く、の志が反映されたものかも知れない。
 更に言えば、この儒蔵説が現在の中国で再び注目され、国家プロジェクトとして、「儒蔵」の編纂が行われ、北京大学に編集所を置いて様々な学術論説、それには日本人の著作も含めて影印翻刻事業が続けられている。

『四庫全書』の纂修官名簿の部分、『欽定四庫全書総目』(中華書局 1997)による。
戴震(1723~1777)や邵晋涵(1743~1796)とともに周永年の名が見える。

(たかはし・さとし 慶應義塾大学)

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