中国古版画散策 第七十五回

投稿者: | 2021年8月16日

石燕、馬琴、北斎……「水滸画」の発展
―日本に水滸伝の新しい挿絵が生まれるまで―

瀧本 弘之

 デジタル公開されていないためか、国会図書館所蔵の鳥山石燕画『水滸画潜覧』は殆ど紹介されたことがないようだ。先日その「一端」を見かけたが、それは唯の「切れ端」だった。『水滸伝の衝撃』(アジア遊学131)という本の外カバーに、挿絵のごく一部がアレンジされていたのである。本文に期待した石燕についての文字はなかった。
 『新編水滸画伝』という曲亭馬琴(高井蘭山が後継)と葛飾北斎が組んだ仕事(文化二年、1805)について、馬琴自身に以下のような文言がある。
 ある梅雨の日に馬琴を書肆が訪ねてきた。『水滸伝』の翻訳を頼みたいとの相談だ。資料として書肆家蔵の石燕『水滸画潜覧』に言及した……。以下原文引用すると、

「彼が家に藏るところの畫本。水滸画潛覽は。むかし鳥山石燕が筆のすさびに。水滸傳の人物を寫し。その傍に國字をもて。事の槪略を記せり。上木旣に三十年來。普く世に行ふといへども。粗漏にしていまだ婦女童蒙の目を歡するに足らず。よりて今新に予が譯文を乞て。彼畫潛覽(水滸画潜覧を指す―筆者)に根き。水滸の畫本を版せんといふ」(『新編水滸画伝』馬琴「譯水滸辨」)

 つまり、この時点で石燕本は一種の「種本」扱いなのだ。また馬琴は「乞るゝこと再三にしてやうやくうけ引つ。僅に五三本を校讐して。忽卒にこれを譯す。さるあひだ書肆又畫工北齋子とよし。予ら一面のまじはりあれば。やがて彼人に就て。卷のところどころにその像出し。もて繡像水滸傳の模様に擬す」。しかし、馬琴と北斎は第一巻の出た後に仲違いして、後の翻訳は高井蘭山が引き継ぐことになる。ともかく北斎は馬琴に導かれて、水滸伝に引き込まれたともいえる。

●水滸伝紹介の創挙

 本題に戻ると、『水滸画潜覧』は表紙の中央に貼られた題簽には丸印の中に「石燕先生」とありその下に「水滸画潜覧」と漢字の草書で認めてある。序文にはかなで大島蓼太という俳人が登場する。日付は安永六年酉正月で、西暦1777年の1月末から2月初め頃だ。この年石燕は65歳くらい。奥付を見ると

水滸画潜覧
鳥山石燕豊房筆 校合門人 子興、月沙、燕十
彫工 町田助右衛門 後篇近刻
江戸本町二丁目御書房出雲寺和泉掾 閧版
元飯田町中坂 書林 遠州屋弥七

とあるから、門人三名も手伝って、出雲寺和泉掾が出版し、遠州屋弥七も販売したということらしい。出雲寺和泉掾はもと京都の書肆で、八代目以降江戸にも進出した著名店、明治まで続いた幕府の御用書肆だったという。「潜覧」の文字は、石燕が大岡春卜の『画巧潜覧』(元文五年(1740))から取ったのだろう。画家の系譜や絵手本をまとめた画家必携本だが、画譜として名高いからこれにあやかろうとしたか。
 『水滸画潜覧』は上中下を1冊の合本にしてあり、上巻には9場面、中巻には9場面、下巻に8場面がある。最後に3頁の跋がつけられ変体仮名で示されている。体裁は完全なる絵本で、文字はごく一部だ。画本といってよい。

●初めから省略でいく石燕

図1 『水滸画潜覧』第一図 勅使・洪信が大蛇と虎に遭う(国会図書館蔵)

 第一図「張天師祈禱疫癘」(図1)を見よう。中央で腰を抜かしているのが勅使の洪信。右には虎が、左には大蛇(絵では龍に描かれている)が威嚇している。この場面は、蔓延する疫病退散の祈禱を江西の龍虎山に隠棲する張天師に頼むために、北宋の都汴梁(汴京)から特使の大尉洪信が派遣されたところを示す。水滸伝の本文テキストでは、洪信は沐浴潔斎した上、張天師の住む龍虎山の頂上に向かう途中、牛に騎乗し横笛を吹く童子に出会うことになっている。童子に聞けば天師の傍に仕える彼は、勅使の用向きも知り尽くし、あまつさえ天師は既に鶴に乗って都に出かけたと言う(あとで聞けば、この童子が天師だったとされる)。だが、この叙述に該当する部分の挿絵は『潜覧』にはない。
 『水滸画潜覧』が描いたのは、勅使の洪信、後ろに虎、前に大蛇、そして右上に小さく鶴に乗る小さな人物の後ろ姿である。一枚の横長場面に、複数の内容を盛り込んでいるので混乱しやすい。左側には、4行の文字説明があり、「……天師のすむ山ぢにおもむきけるが一陣の風とともに錦毛の猛虎雷のごとくほへ松のかげから□□また二三十歩行くとき臭気天にのぼり十丈金光の大蛇大石によりてにらみしがしばらくして竹林の中に□」とあり、牛に乗った童子は描かれもせず説明もない。文字の記述がないので、読者はよほど察しがよくなければ、空に飛ぶ鶴に乗るのが天師だとは気がつかない……だろう。恐らく、これを参考にした北斎は、どう作画したか。彼はもとの1枚から3枚の場面を作りだして、読者の理解を助けている。

図2 『新編水滸画伝』より「大蛇と洪信」(早稲田大学図書館蔵)
図2の部分拡大図 松の木の下に洪信

 まず、大蛇と虎が出る場面だが、画面中央にとぐろを巻く大蛇、松の木の下に潰されそうになった勅使・洪信がおり(図2・拡大図)、次の場面では牛に乗る童子に出会う洪信(図3)、そして最後が大空を鶴に乗って飛んでいく天師(図4)となっている。私の想像だが、3枚の絵は訳者の馬琴が構図に注文を付けて北斎に提案したものではないか。石燕の「水滸画」から剽窃まがいの一画面を作るだけでは、馬琴も北斎もプライドが許さない。それほどにテキストを読み解いて考えた挿絵なのではなかろうか。ここで余分に付け加えれば、これら3枚の挿絵の前に、実は北宋の都汴京を想像で描いた挿絵がある(その前には金聖嘆の肖像もある)

図3 『新編水滸画伝』より「童子と洪信の出会い」(早稲田大学図書館蔵)
図4 『新編水滸画伝』より「鶴に乗る仙人」(早稲田大学図書館蔵)

 これは北斎の想像による北宋の都・汴梁の絵であるが、「三月三日汴梁城に百官拝賀す」と題されている(図5)。清の界画を思わせるきちっとした出来栄えの山水画で、北斎の得意げな顔が見えるようだ。これによって都の姿を示し、話の発端を明らかにしている。峨々たる岩山の中に聳える王宮。このイメージも悪くない。

図5 『新編水滸画伝』より「汴梁城」(早稲田大学図書館蔵)

 ちなみに、『水滸伝』の明版の版本として最も知られている「容与堂本」の第一図を示す。洪信が深山で牛に騎乗する童子に出会うくだりがはっきり描かれている。深山幽谷のために手に燈明を持つ勅使の前に、牛の背で笛を吹く童子が現われる。右手には瀧が流れていて、勅使の前には崖の道が続いている(図6)

図6 『水滸伝』「容与堂本」の第一図 『中国古典文学挿画集成』[水滸傳](遊子館 2003)

 注意したいのは、これにも右上の端に「張天師祈禳瘟疫」とテキストがあり、傍に鶴に乗る仙人が描かれていることである。だがこの仙人は童子ではなく成人でひげが生えている。雲形は松の枝の奥から出てきていて、天師が山の最奥部から飛んで来ていることを示すだろう。
 牛に乗る童子は、古くからよく知られたモチーフで、日本でも禅の方面で普及して、様々な描かれ方をしている。一般名称は「十牛図」。図は『五味禅』という禅宗の版本に掲載されているものだ(図7)。もともとは大陸由来のもので、この童子が出ると、「禅味」が出てくるのだ。もっとも「天師」は道教の方だが、道仏習合の中国だから問題はなかろう。

図7 『五味禅』より「騎牛帰家」(国会図書館蔵)

 この水牛が出てくる容与堂の挿絵は、石燕の『水滸画潜覧』では採用されなかったらしい(見る機会がなかったか)。江戸初期に伝来した水滸伝は、人物の肖像画(陳洪綬『水滸葉子』のコピー)を本文の前に添えるものが主体で、いわゆる金聖嘆本だった。「容与堂本」には、石燕が『水滸画潜覧』で描いている虎と大蛇は登場しない。北斎は『水滸画潜覧』から「虎」と「大蛇」を独立させて、一枚の絵の中に大きく取り上げた。読者に分かりやすく分解したとも言えるだろう。しかも実に鬼面人を驚かす構図だ。ただし、大蛇が目立ちすぎて虎が殆ど見えない。

●まとめ

 すこし話が入り組んでいるので、まとめよう。近年「妖怪画家」として知られる鳥山石燕、その知られざる画本『水滸画潜覧』は江戸の水滸伝紹介の嚆矢であり、それを書肆が見つけて、ここから馬琴・北斎に水滸伝の翻訳を慫慂した。馬琴は元々中国古典が好きで心得があったので、引き受けた。そして画稿は(恐らく)馬琴が北斎に細かく注文して、例えば、『潜覧』の一図は3倍に増加し、北斎も工夫を凝らして余分に始めの部分を付け足した。馬琴が抜けてからの挿絵は北斎の独壇場……とこういう筋書きが考えられる。馬琴が『新編水滸画伝』の「譯水滸辨」に、発端の委細を書き残していたことからの推論である。確かに北斎の挿絵は、好き嫌いはあるが卓越している。異論はないだろう。しかも日本で一貫して水滸を描いたのは彼が初めてだろう。
 明治期にも複数の『新編水滸画伝』の版本が出ている。文字を活版で読みやすくして、挿絵を少なくしたりいろいろだ。博文館本はデジタル公開されている。また有朋堂文庫のものもある。戦後日本でも出されているほどだ。但し、挿絵の原形そのままを留める版本は殆どないのが残念だ。『水滸画潜覧』はまた紹介したい。

 

(たきもと・ひろゆき 著述家、中国版画研究家)

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