『唐詩選』と『古文真宝』を再読する

投稿者: | 2021年8月16日

高畑 常信

 

 2020年12月、広島市のアカデミー(古書店)で、『とうせん』と『ぶんしんぽう』を買った。
目加田誠『唐詩選』(昭和三十九年初版、昭和四十六年11刷、2800円→1000円)
星川清孝『古文真宝』前集(上下二冊、昭和四十二年初版、昭和四十六年11刷、各1800円)
星川清孝『古文真宝』後集(昭和三十八年初版、昭和四十五年13刷、2000円、合計5600円→三冊セットで1500円)
 東京神田の古書店でも、見切り品のコーナーには、これくらいで出ていることはよくある。2020年1月に、東京神田の原書房で中国書論大系の第一巻「四体書勢」その他(1977年、4800円→1000円)があった。重いので一冊にしたが、数日後にもう一回行ったら、みんななくなっていた。安いと負担が少なくてすむが、この安さに、さみしい気持ちがする。
 『古文真宝』や『唐詩選』は、入門書である。国語の教員コース、日本文学などを専攻する人なら、誰でも読んだことがあるだろう。専攻に関係なく一般教養の「文学」であつかうこともある。
 私は中国哲学専攻だったので、入り口を通りすぎると、中国文学とは疎遠になった。いま袋小路に入ってしまい、まわりが見えなくなってしまったので、また入り口まで帰ることにした。時すでに遅く無意味かも知れないが、なりゆきにまかせることにしよう。

■『唐詩選』「解説」を読んで

 唐代の人は、詩をやりとりして交際することが多く、役人になろうとする人には、必要な教養であった。交際を始めるときの詩の贈答、友人同士の交際、皇帝の徳や政治を詩でたたえて、皇帝から認めてもらうというように。かりに、自分の思想を表現するのが「文学」であるとするならば、文学と言うよりも、就職して生活するための手段であった。
 うまく地位を得る人、得られない人。うまく地位が上がる人、地位が上がらない人。地位が高くなったが失脚する人、左遷されて僻地で死ぬ人、主人が「あんろくざんの乱」に荷担したとか、朝廷に反抗的であったとかで処罰される人。安禄山の軍隊が都・長安に攻めこんだときは、脅迫されて、多くの役人が安禄山につかえた。朝廷側の軍隊が長安を奪回すると、かなり寛大にあつかわれたとはいえ、裏切り者は処罰された。李白は主人が犯罪者(謀反)になり、自身も流罪になったが、大赦にあい無罪になった。杜甫は下級官吏で不遇な生涯を送ったが、自身は詩の中で、一般庶民よりはめぐまれている、と言っている。
 1989年に筆者はきゆうけん(古名は新安。朱子の本籍地)こうざんけいけん(紙の産地。李白の詩「王倫に贈る」に出てくる「桃花潭」がある)、宣城、(以上みな安徽省)を訪れ、蕪湖から南京へ行く途中、とうで李白の墓、さいせき(李白の没地)を見た。李白はここの長官だったようひよう(唐代、篆書の名手)をたよって行ったのだった。

 人はみな天命にふりまわされて生きた。それはいつの時代でも同じである。年代と人が変わっているだけである。読者の一人でしかない筆者は、時の流れを見つめるだけである。自分と同じような運命の人はたくさんいる。
 過去の時代には、朝廷の政治をあからさまに批判すると死刑になるため、「ふう」「ふう」を多くおこなった。「風刺」「風諭」も、きわめて遠回しに言っていることが多く、わかりにくいがわかる読者にはわかってほしい、ということである。はくらくてんの「ちようこん」は、げんそう皇帝(61歳)よう(27歳。38歳没)の愛と不幸を歌ったものではあるが、多くの人は「皇帝は女性との愛情におぼれて、国家の政治を忘れてはいけない」との「風諭」であると、感じたであろう。
 白楽天は若い頃には、批判的な内容を内に持つ文章をたくさん書いたが、晩年にはやらなくなったという。それもしかたがないことである。筆者は80歳。体力が衰えたら、大きな声を出す元気さえもなくなる。その点では白楽天を理解できる。白楽天を非難する気持ちはない。若いときから自分の地位を得るため、昇進のため、人を蹴落とし、阿諛追随ばかりしていた人が、いかに多いことか。中国の歴史の中にはたくさん出てくる。

 『唐詩選』の「解説」を読むと、いつの時代も同じだなあ、と思う。偉くなった人、有名になった人、無名で終わった人、歴史の片隅に名前だけが残っている人。みんな歴史の闇の中に消えて行くのだと思う。
 『唐詩選』には、かんの詩は一篇だけ、白楽天、ぼくの詩は編入されておらず、杜甫の「しゆうきよう八首」はそのうちの四首しか入っていない、という(『古文真宝』には「秋興八首」も入っていない)。編者・りくりん(明代の人)にはそれなりの考えがあったのであろう。訳者(目加田誠)は「解説」でそれを述べて読者に注意を与えている。どの詩がよいと思うかは、人それぞれであろう。『唐詩選』は四百六十五首をおさめるが、『唐詩三百首』(清代の人、こうとうどう編)という本もある。

■『古文真宝』を読んで

 『古文真宝』は題名から想像がつくように、古い時代から南宋までの、学ぶべきよい作品(詩と文章)を集めたものである。作品に南宋後期のものがあるので、南宋末期から元代初期に編集されたのであろうとされるのが通説である。
 編者はこうけん(徐州りんぽうの人)であるが、その人の伝記は不明。知識人ならば誰でもできる仕事である。この本も初学入門の教科書として編集されている。
 だが、この本は、はっきりとしたテーマをもっている。そのテーマとは朱子学である。作品には唐代では朱子学につらなる人が多く、宋代では朱子学そのものの人が多い。朱子学は儒学の正統で、自己の修養から始まり、天下を平和にするという知識人たいの学問である。その人たちの心構えを教育しようという立場が感じられる。ただ詩文を暗誦するだけでなく、人生の目標を与える生きた学問にしようとするものである。
 それゆえに『古文真宝』が編集されたのは、元代初期になり朱子学がきよ(官吏登用試験)に採用された時期であろうと考える。絶対にあり得ないとは言えないが、朱子学が反主流派と考えられて弾圧されていた南宋後半期から南宋末期の戦乱期ではなかったと思われる。

 『古文真宝』前集(詩編)は、学問を勧める北宋、第三代、真宗皇帝の「勧学の詩文」から始まる。最後は漢代に異民族に嫁いだ不運な女性・おうしようくんを取りあげて終わっている。
 目立つのはとうえんめい(十四首)、李白(三十九首)、杜甫(三十四首)かん(十四首)しよく(蘇東坡。十六首)である。不遇な環境の中で失望することなく、天命に安んじて生きることを述べているものが多いように思う。人生みんなが満足できる地位と生活は与えられない。これらの詩文は、知識人、役人となる人の教養として意識的に取りあげられているように思われる。『唐詩選』にはなかった白楽天の詩を編入し、一首だけだった韓愈の詩は十四首と多くなっている。最後に王昭君を取りあげたのは、天命に従わなければならない現実を述べたものと思われる。『論語』も「めい(天命)を知らざれば、もつくんたることなきなり」ぎようえつ篇)で終わっている。
 一般に陶淵明の「む」は、五人の子供がみな学問を好まない不満を述べたものとして理解されている。『古文真宝』の編者もそのつもりで編入したらしい。筆者も大学時代に始めて読んだときにはそう思った。しかし、80歳になって読み返すと、詩文は、だから酒を飲んで過ごすのだと続いており、酒を飲むいいわけであって、全部が本気だと思うことができなかった。
 父親は子供に大きな期待を持つ。自分よりは偉くなって欲しいと思う。しかし、高級官僚になれそうにないというだけで、全員がみなお粗末であったのではないだろうと思った。この本(明治書院版)の《余説》を読むと、多くの注釈家が陶淵明の不運に同情していることを書き、ただ一人、宋代のこうさんこくこうていけんだけが、筆者と同じ意見であることを紹介して、著者の星川清孝はそれをまちがいであると否定している。私は80歳になり、黄山谷と同じ理解になった。59年間の読書の成果だと思う。

 宋代の学問を宋学と言い、宋学のことを朱子学とも言う。宋代前半期の北宋から、宋代後半期の南宋にかけて開拓された学問を、宋代後半期の朱子が総合して、まとまった形に編成したからである。朱子学という言葉は、①宋代の学問、②南宋期の学問、③朱子個人の学問、などの三つの使い方がある。
 学問の系統としては、ほくそう期では、おうがくしよくがくらくがく、その他(系統に属さない)があり、南宋期では細かく見るときには①ふつけん学派こうてい学派、朱子)②湖南学派こうちようなんけんこう西せい学派りくしようざんせつこう学派ちんりようしようてきがあるが、朱子に統一統合されたというのが通説である。広い観点から見れば、みな唐代の韓愈を源流とするものである(1)

 『古文真宝』後集(文章編)には、宋学の源流・韓愈(十三編)、蜀学(蜀は四川省の古名。とうは蜀の出身。旧法党)系は蘇東坡(五編)、その父、ろうせん(一編)、またこう(二編)おうようしゆう(四編)、王学(新法党)系、王安石(一編)がある。狭い意味での朱子学の系統(洛学)の学者と経歴、思想をまとめた『らくえんげんろく(編者の名前はないが、朱子が編集したと言われている。朱子の時代にこんなことをする人は、他に見あたらない)には最初にしゆうとんしゆうれんけいてい(程伊川)、さらにたいりん(呂与叔。程頤の門人)ちようさい(独立派。晩年、陝西省南山のふもとに隠居したので「関学」という。著に『正蒙』)が出てくる。
 『古文真宝』は、文章の形式に従って編集していて、内容が系統に従っていないので、読者は自分で総合して読むことが必要になる。
 宋代で最も重要な哲学思想を述べるものは、周惇頤の「たいきよくせつ」である。「太極図説」は宇宙の根源と人間との関係を述べていて、宋学の根本になるものであるが、文学ではないので『古文真宝』に採用されていない。蓮の花を君子に見立てた周惇頤の「あいれんせつ(巻二)が採用されている。 韓愈の「せつ」「しんがくかい(巻二)は、修養方法を述べるものであるが、韓愈の「孟東野を送る序」(巻三)では、過去の多くの名士が国を支えてきたことを述べ、柳宗元の「薛存義を送る序」(巻三)では、民の父母でなければならない官吏(読書人)の立場を述べる。また おうぼつの「とうおうかくじよ(巻三)は、不遇にうちのめされない君子の心意気を述べている。
 張載ちようおうきよの「西せいめい(巻五)は、天地の間に生まれた人間の社会的な立場について述べるものである。君主と臣下、父母と子、年長者と年少者、社会的に自立している人と、自立できない社会的な弱者、これらが共に調和して生活する理想社会の実現をめざすことを述べるものである。張載の「とうめい(巻五)は「西銘」とセットであり、修養方法、社会を維持する方法を述べて、「西銘」の内容を補充している。
 の「古戦場をとむらう文」(巻五)は、戦争の悲劇を述べて君主や政治家に反省を求め、しよかつこうめいの「すいひよう(巻八)は君主に国政と外政を助言するものであり、韓愈の「げんどう(巻九)は儒教・仏教・道教を比較して、儒教が正しいとするものである。
 最後の巻十には、人生にすぐに役立つ文章が取りあげられている。他人を推薦する文章、自分を推薦して就職を依頼する文章である。文章の書き方、依頼の仕方がわかるだけでなく、人生には地位の高い人に積極的に働きかけ推薦してもらうことが大切であるという、世渡りのコツも学ぶことができる。

 『古文真宝』後集が、古今の名文を集めたとはいえ、科挙を背景とする朱子学「宋学」の立場から編集していることは明らかであると思う。ならば、「宋学」とは何か。すでに古く孔子、孟子の時代の『大学』に言われている内容を充実させ深化した形の、「しゆうしんせいこくへいてん」であり、北宋の人、はんちゆうえんが「がくようろう(『古文真宝』後集、巻四)に言う、「天下のうれいに先んじて憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」というエリート士大夫(読書人)の「民衆のために」という自負と覚悟である。偉くなると自負と覚悟を忘れ、私欲におぼれる人が多いのも事実であるが。『古文真宝』は現代においても人生に役立つ文章を集めている。
 『古文真宝』後集の立場から、前集を振り返ってみると、『古文真宝』の立場は、さらにはっきりとよくわかるような気がする。しようこうせつの「せいぎん」で始まりおうあんせきで終わっている。とうは一首、王安石は二首、こうさんこくは五首。黄山谷(蘇東坡の門人)は蘇東坡の立場を補強していると思われる。
 しかし、宋学の大成者、南宋の朱子の重要な作品は一つも採用されていない(2)

 朱子の立場はすでに北宋の時代の人に語られているからであろう。そうではあるが、編者は程頤(洛学)の学統ではなく(朱子は程頤の系統)、蘇東坡(蜀学)の学統の人だったのではなかろうか、と思われる。
 今にして思えば、20歳の時、『古文真宝』をぼんやりと聞き、ぼんやりと読んでいたのは残念である。80歳になって、初期に学んだものを再読できたのは、幸運である。20歳の時、共に読んだ人のなかにはすでに鬼籍に入った人もいる。

【註】

(1)拙著に『宋代湖南学の研究』(秋山書店、1996)、中国語版は、田訪訳『宋代湖南学研究』(中国、人民出版社、2019)がある。〈新刊紹介、書評〉に、吉本博志「高畑常信著『宋代湖南学の研究』」(香川大学国文研究、二三号、1998)、重田明彦「中国語訳『宋代湖南学研究』」(書論、四六号、2020)」がある。

(2)朱子の作品は二つ取りあげられている。「朱文公の勧学の文」(前集、巻一)は、「日々に努力することが大切である」というだけの短い文章であり、「雲谷雑記」(前集、巻一)は、勉強と修養の妨げになるので、レベルの低い客人は「来て欲しくない」というだけの内容である。

(たかはた・つねのぶ 東京学芸大学名誉教授)

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