中国古版画散策 第一〇五回

投稿者: | 2026年8月14日

名勝・山岳図をめぐって①
『天下名山勝概記』

瀧本 弘之

 『天下名山勝概記』は、古版画研究の草分け、鄭振鐸(1898-1958)の収蔵書籍として名高い。氏の「中国古代版画叢刊」シリーズに収められていて、1994年に上海古籍出版社が再版本?を出したとき揃えた記憶がある。「中国古代版画叢刊二編第八輯」の「海内奇観、名山図、大平山水図画、古歙山川図」に含まれる「名山図」がそれだ。
 私は1988年に町田市立国際版画美術館の「中国古代版画展」を手掛けたとき、確か国立国会図書館のものを借りて展示した。後日同じ名前のものが、中国で影印されているので入手してみたが、影印本は一定の編集加工がされているので、今見るとすこし違和感がある。今日は世界中でネットが普及し、デジタルしかもカラーが当たり前だが、当時はモノクロ写真やコピーが常識。また影印本も本文以外は削除されていることが多い。『天下名山勝概記』も現在はいろいろな収蔵先のものが知られている。影印も多様だ。
 鄭振鐸が持っていた原本は、現在中国国家図書館(当時は北京図書館)に収蔵され、原則は閲覧禁止でデジタル公開されているはずだ。私は苦労して影印本を一冊スキャンしたことがあった。
 この『名山図』こと『天下名山勝概記』には、解説に等しい「跋」(解説・署名は林曙雲氏)が付けられていて、これによって版本の異同やその他の細かい情報が知られる。肝心の図版は、見開きの横長図の名山が55図掲載されているが、本文はなく一覧の目次がある。目次は後で付けたもので、55図は以下のとおりである。

 燕山、盤山、鍾山、燕磯、茅山、九華、黄山、白嶽、包山、虎丘、京口三山、小金山、浮槎山、九峰三泖、西湖、徑山、天目、石門、雁蕩、龍湫、仙巌、石梁、赤松山、樊山、武當、衡嶽、岳陽、赤壁、匡廬、石鐘山、嵩嶽、太行、泰嶽、嶧山、五臺、華嶽、恒嶽、桟道、武夷、木蘭陂、浮丘、羅浮、隠山、桂林、峨眉、三峡、七曲山、修覺山、青城山、牛頭山、瀼西、清溪三潭、點蒼山、阿盧三洞、飛雲巌

 順番は河北から次第に南下して、広東・貴州などで終わっているようだ。ともあれ、いくつか代表的な図版を見ていこう。
 初めにあるのが「墨絵斎」という出版社(刊行者)の序文(というか出版説明)で、実に凝りすぎの文章だ。しかも篆書で読みづらい。左右に並べたが、右は内閣文庫本、左は鄭振鐸本だ。

 「名山図仿自旧志黄山白岳出鄭千里呉左千(干)天目雁宕出趙文度杜士良匡廬石鐘出陳路若黄長吉赤壁浮槎出藍田叔孫子真餘皆劉叔憲重摹單繼之補寫咸一時名士勝流云。崇禎六年春月墨絵齋新摹」

図1 『名山図』の巻頭に置かれた「前言」。右は内閣文庫本、左は鄭振鐸本。

 黄山・白岳は安徽の名山、天目雁宕は浙江福建…という具合に、各地の名山をそれぞれの名画家の作品をなぞって作ったという。崇禎六年は西暦では1633年、和暦では寛永十年、三代将軍家光の時代にほぼ相当する。墨絵斎は安徽の書肆か。名山図の初めに白岳・黄山を置いているということは、安徽の地元ナショナリズムだろう。鄭千里呉左千いずれも徽派の画家か。
 古代版画叢刊に跋を書いた林曙雲氏の経歴などは不明で、多分安徽地方の書画家に詳しい研究者と思われるが(故人か)、いまのところ中国のネット情報でもみつからない。林曙雲氏の跋に頼って、少しく読み解いていこう。
 鄭千里、呉左千(干)は安徽の絵師で、呉氏は『程氏墨苑』などにも登場する。趙文度は趙左ともいい、明末の名家・董其昌の代作者としてよく知られる。藍田叔は藍瑛のことで、明末清初の著名画家。杭州画壇の首魁と目された。杜士良は不明、陳路若も不明。黄長吉は黄派刻工の仲間だろう。
 以下、代表的な山岳図を内閣文庫本『天下名山勝概記』から選んでみよう。図は鄭振鐸本ではなく内閣文庫のものを借用している。欄外に山岳の名前が表示されているのが便利だ。

図2 黄山図 中央に巨塊そのものの主峰が鎮座している。寺院は慈光寺らしい。(内閣文庫蔵)

 旧時代、山は信仰の対象で、日本では山伏が活躍し、中国では僧侶や道士が仕切っていた。一般人はおいそれと立ち入れない仙境だった。文人墨客は称賛の詩文を献上し、画家はそこを仙境として憧れをもって描いた。近代のように、アルピニズムもなく、ハイキングにも行かない。仙草秘薬を求める僧侶や道士らの独壇場だった。もとの名は「ざん」だったが、唐の時代、玄宗皇帝が「黄山」と改称したという。黟は青黒いという意味で、そういう色の山だった。そう見えたのだろう。だが、道教マニアの玄宗は、黄帝がここで煉丹したからという理由で改名した。「黄帝」の山だ。山の色が黄色いからではない。
 山岳図には必ず道観・寺廟が点在している。人物が描かれることは殆どなく、稀に描かれていても豆のような小さなものでしかない。
 黄山は、知らぬ人もない有名な山域だが、いったいいくつの山峰が群立するのか、多分その数は実数ではなく、吉兆の数合わせで六十四とか三十六になるのだろう。
 黄山は「世界遺産」に登録されており、ウィキペディアには「三主峰と呼ばれる蓮花峰、光明頂、天都峰があり、その他69の峰がある」と謳われている。私はもちろん登ったことはなく、近づいたこともない。現在はケーブルカーが三方面に通じていると記されるから、登るのは至極簡単になったのだろう。
 また周辺を流れる三本の河川のひとつに「秋浦江」がある。この文字ですぐに気が付いたが、唐の詩人・李白の「秋浦歌」の秋浦のようだ。しかし、李白が黄山に近づいた(登った)ことはないらしい。詩の中には、「黄山」や「黟山」の文字は出ていない。

図3 白岳 『天下名山勝概記』より。岩塊の下に木々に囲まれた大規模な建築が見える。(内閣文庫蔵)

 次は黄山と並び立つ白岳だ。「白岳」の呼称は今も通用するが、本来は古称で現在一般には「斉雲山」といい、安徽の地元では黄山に比肩する山岳として崇められているようだ。
 台北故宮には、『白岳図』という作品が所蔵されている。これは冷謙という元代の画家の作品だが、その写真が『故宮文物』の裏表紙にカラー掲載されているのを初めて見たとき、一種の衝撃を受けた(1990年代だったか)。現在は、写真が台北故宮のホームページに解説とともに掲載されており、詳細な部分も知ることができる。早くも元の時代からこの地域に入り込んで、絵画をものしていた人物がいて、その記録が遺されているのには驚く。また絵に文字によって記録を残し、時代を経て皇帝らの賛が連なっているのには、歴史を感ぜざるを得ない。

図4 冷謙「白岳図」(部分) 台北故宮ホームページより(https://theme.npm.edu.tw/khan/Article.aspx?sNo=03009157

 ここにその一部を掲載する。当時から「白岳」がこうした岩塊として認識されていたことも面白い。この中にはまだ寺院や道観らしきものは描かれていない。山間の草庵風の簡素な建築がいくつかあるだけだ。寺院などは南宋時期に作られ始めたと書かれているが、本格的に建設されたのは明代以降だろうか。

図5 西湖図 俯瞰する西湖。その周辺に多様な名勝をちりばめている。(内閣文庫蔵)

 最後は「西湖図」だ。西湖は山ではないが、その仲間に入れている。正面には北高峰・南高峰がならび(これはもちろん山だ)、手前左には雷峰塔、右手には孤山が描かれている。その手前には白蛇伝で名高い断橋が描かれる。内閣文庫本は印刷があまりよくないが、ともかくこれがいわゆる典型的な名所絵の一つなのだ。昔の人々は個別の地名など書き込まれていなくても瞬時にどれが何だと了解できただろう。
 かつて『中国歴史名勝図典』(遊子館 2011年)を出したとき、その巻頭の解題でこの図にまつわる論考を発表したことがある。なぜこのような絵が西湖図の典型になったのか。西湖図というと大体みなこの形式を踏襲する。その解答は、「天子は南面す」だったが、詳しくは次回に譲ろう。

(たきもと・ひろゆき 著述家、中国版画研究家)

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