榎本武揚とキャフタの磚茶
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榎本武揚(東京農業大学内)
幕末の英雄というと、西郷隆盛や桂小五郎などに代表される薩長側、幕府側では勝海舟などが思い浮かぶ。だが恐らく最大の英雄は、最後まで戦った榎本武揚ではあるまいか。戊辰戦争で旧幕府軍を率いて蝦夷共和国の総裁となり、新撰組の土方歳三らが華々しい最期を遂げる中、無念の降伏。東京の牢獄に2年半投獄されたが、敵将黒田清隆らの尽力により助命され、釈放後明治政府に仕えた。
榎本の仕事は因縁の地、北海道開拓使での資源調査から始まり、駐露特命全権公使に任命され、樺太千島交換条約を締結、幕末のオランダ留学で学んだ国際法の知識など、榎本が如何に有用な人材だったかが良く分かる。いや同時に明治政府に如何に人材が不足していたかを如実に表している。
駐露公使を退任して帰国する際、シベリアを陸路横断して、その状況をつぶさに実見し、『シベリア日記』として残したことは、さすが榎本と言えるだろう。1878年7月ぺテルブルクを出発、9月にウラジオストクに到着するまでの66日間に渡る旅、その詳細な記録を今も読むことが出来る。
茶の歴史を追っている者としては、やはりキャフタ訪問が最も注目される。わざわざシベリアのルートから外れてまで訪れているところに、榎本の強い関心が見て取れる。「9月1日夜キャフタに到着、ロシア茶商会社のクラブに宿泊。人口300人で茶商の倉庫があるのみ」から始まり、1860年の北京条約以降茶貿易が減少していることや売買城(マイマイチン)での、清国役人の腐敗の実態などを記載しているのは特に面白い。
また榎本は現地でロシア茶商と交流。日本茶の販路拡大を目指し、「北京にある互いの公使館を経て、当府へ茶の見せ本を送らんことを約せり」「アムール河を用いて、日本と貿易を開かんがためなり(ロシア産の毛皮類と日本茶の交易)」と、如何にも外交官らしい、国益を考えた行動を随所に見せている。
キャフタは1727年に締結されたキャフタ条約以降、「万里茶路(ティーロード)」の中心地、中露商人の茶貿易の交易場として大いに栄え、最盛期にはロシア税収の30%以上を稼ぎ出していたと言われていた。1860年の北京条約で外国人が中国領内へ入ることが容易になるとその優位性は薄れたが、それでもシベリア鉄道開通までの期間は、一定の役割を果たしていた。実際キャフタまでの道中で、榎本は何度も茶葉を運ぶ隊商とすれ違っており、如何に茶が儲かる商品であるかを肌で感じていただろう。

キャフタ博物館 当時売買された磚茶
キャフタで実際に取引されていた茶葉の多くが磚茶(ブロック型茶)であった。静岡県茶業史によれば「明治11年(1878年)露国全権公使榎本武揚氏……露国東部にて磚茶を嗜好せるを聞き、各種の磚茶模本を携帯し、之を製し彼に送らんことを勧農局に照会あり、之に因りて数枚を製し、同氏に贈る」と書かれており、榎本が帰国後キャフタでの約束を実行している様子が見て取れる。尚筆者は2度キャフタを訪れたが、ロシア側に僅かに建物が残るだけの荒涼とした場所であり、その繁栄を見ることは今や出来ない。
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キャフタ 税関跡(2016年撮影)
更に「後上林熊次郎氏又之を製し、横浜在留の米商『オールス』氏に見本を送りしに、同氏之を露商に議し5千斤注文ありき」としており、榎本がもたらした情報が活用された様子も書かれている。これが日本の国産磚茶の始まりと見る向きもあり、非常に興味深い。尚上林熊次郎は京都の名門上林家の出身と思われるが、資料は少なく、今後調査したいと考えている。
磚茶は以前紹介した多田元吉が1876年湖北省漢口視察の際、数種類を持ち帰ったのが我が国茶業史の最初に出て来る。そして上林熊次郎が製造機械を造り出し、緑茶の粉末を使って緑磚茶の製造を試みるも失敗したとあり、横浜の米商会に販売した磚茶は、やはり多田が福州から持ち帰った機械で作られたものらしい。
それにしても榎本はなぜそこまで茶業にこだわったのか。勿論明治初期の日本の主要貿易品が絹と茶だったこともあるが、実は既に第18回「狭山茶 ニューヨークへ」で紹介した通り、狭山の大茶商繁田家とは姻戚関係にあり、狭山茶のアメリカ直輸出を焚きつけた人物?でもあると言われている。恐らくはオランダ留学時代に茶貿易について何らかのアイデアを持ったと想像するがどうだろうか。
その後榎本は1882年に駐清特命全権公使となり北京へ赴任。1885年帰国後は農商務大臣など政府の要職を歴任、活躍を見せる。同時に1891年に自ら創設した育英黌農業科(東京農業大学の前身)で、近代農業の技術を国内各地に広める人材を育成するのに貢献している。
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榎本武揚像(東京 梅若公園)
榎本の墓所は東京都文京区の吉祥寺にある。武蔵野の吉祥寺の由来となった寺として知られるが、ここには榎本だけでなく、姻戚の赤松則良や二宮尊徳の墓もある。その墓の説明書きにも「東京農業大学創設者」と書かれており、榎本が日本の近代農業に果たした功績はもっと評価されるべきだと思う。
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榎本武揚墓 説明書き(東京 吉祥寺)
▼今回のおすすめ本
榎本武揚シベリア日記 【現代語訳】
平凡社ライブラリー/諏訪部揚子・中村喜和編注/平凡社/2010年刊(版元品切)
幕末、五稜郭の戦いで敗れた榎本武揚は、のち明治政府に登用され、全権公使としてロシアへ。任を終え帰国する彼は、シベリア回りを選択、日露両国の将来を展望し、この北の大地の風景、物産、産業、民俗、交通その他、万般を観察、じつに興味深い日記を残した。本書は、人名・地名をはじめ懇切な注を加え、現代語訳で、この稀代の人物の旅に同行する。
榎本武揚シベリア日記
講談社学術文庫/講談社/2008年刊(版元品切)
明治十一年、二ヵ月かけての一万三千キロのシベリア横断の旅。幕臣・明治高官として活躍した榎本武揚の綴った日記は貴重な資料である。実地の踏査、綿密な観察、古馬車に揺られながらの克明な記述、十九世紀末のシベリアの実情がつぶさに紹介される。本日記に関連する書簡三通と、幕府留学生としてオランダへ向かう船中で綴った「渡蘭日記」も付す。
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須賀 努(すが つとむ)
1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウオッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆中。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。
blog[アジア茶縁の旅]
