劉 文兵
2025年10月27日から11月5日までに開催された第38回東京国際映画祭は、中国でも大きな注目を集めた。その焦点となったのは、コンペティション作品の主演を務めた二人の中国のスター女優──ファン・ビンビン(范氷氷)とバイ・バイホー(白百何)だった。二人の大女優はそれまでのイメージを覆すような大胆な役に挑み、その成果を東京国際映画祭に賭けたからだ。
■マレーシア映画で原住民役に挑戦するファン・ビンビン
ファン・ビンビンが出演したのは、チョン・キット・アン監督が演出を手掛けたマレーシア映画『母なる大地』だ。舞台は1990年代末のマレーシアとタイの国境地帯である。そこに暮らしている農民たちは英国領植民地時代の負の遺産を背負いながら、現政権の酷い政策に喘いでいた。そこにヒロインは現れ、悪政から農民たちの土地を守り、呪術師として農民たちに精神的なケアをも施す。いわば聖なる女性だ。しかし、夫を亡くした二児の母で、現地の貧しい農民の一人という設定だから、汚れ役にほかならない。
役作りの一環として、ファン・ビンビンは撮影に先だち、現地に行って農民とともに農作業に参加し、マレーシア語や、ジャム語、福建語といった彼女にとって母国語でない言語を習い、鼻の骨格の大きい現地人女性に近づくために鼻の特殊メイクも施した。彼女がそこまでしてこの役を演じる必然性はどこにあったのだろうか。
周知のように2018年頃に脱税疑惑が発覚し、中国国内での映画出演のオファーが一気になくなったファン・ビンビンは、その後、海外での映画出演に活路を見いだそうとしてきた。本作品の出演もファン・ビンビンが監督に猛アタックして手に入れたものである。彼女の美貌が邪魔になるのではと心配する監督に対して、ファン・ビンビンは「私の顔を滅茶苦茶にして監督のイメージ通りにしてもいいわよ」と売り込んだそうだ。
彼女の涙ぐましい努力に加え、悪霊払いの場面での体当たりの演技や、娘役や息子役を相手にした繊細でナチュラルな演技は観る者に深い印象を与えた。薄暗い画調と遠景のロングショットの多用を特徴とする『母なる大地』では、ファン・ビンビンの美貌が後退し、風景や大地に溶け込んでその一部となった。
上映後のQ&Aの時間に、ファン・ビンビンは「15年前、ここで最優秀女優賞をいただいたあの時を思うと、感無量です」と語っていた。しかし、第23回東京国際映画祭(2010年)で最優秀女優賞に輝いたその幸運が、今回、彼女に訪れることはなかった。本作品をもってトップ女優への復権を夢見たファン・ビンビン、そして彼女のファンたちは落胆したにちがいないだろう。
実は、筆者も2008年に来日した20代後半のファン・ビンビンに取材したことがあった。全盛期にあった彼女は絶好調で、これから立ち上げようとする様々な大きなプロジェクトから自身の結婚まで熱く語ってくれた。その時の意気揚々として誠実な彼女の姿を思いだすと、やはり感慨深い気持ちになった。
■アート系作品に出演するドル箱女優バイ・バイホー
中国美人の代名詞として知られているファン・ビンビンと比べ、バイ・バイホーは日本人になじみが薄いとはいえ、中国国内では現代もののコメディーや恋愛映画からファンタジックなアクション大作まで幅広く活躍し、数少ない客を呼べる女優である。だが、2025年立て続けに張律監督のアート系作品『羅目的黄昏』と『春の木』の主演をつとめることとなった。中国朝鮮族の張律(チャン・リュル)監督は韓国を拠点とし、日中韓など東アジアを舞台とした作品を手掛け、国際的に高い評価を得ている。バイ・バイホーは中国国内でのヒット作や大作だけではなく、国際的な舞台でも羽ばたこうと考えていたのかもしれない。事実、この二作品はそれぞれ釜山国際映画祭、そして東京国際映画祭において監督賞を受賞した。
『春の木』でバイ・バイホーが演じたのは、自分の生まれ故郷の四川の方言も喋れないことで降板させられた、売れない駆け出しの映画女優である。失意のなかで故郷の重慶に戻った彼女は、由緒ある映画撮影所や、家族、旧友を訪ね、自身のアイデンティティを再確認する。ダンサー出身で170センチの身長もあるバイ・バイホーは映画のなかで、敢えて姿勢を崩し、伏し目がちで自信なさそうに立ち振る舞う。一瞬、彼女とよく似た新人女優かと思うほど、改めてその演技の幅の広さを感じた。
『春の木』は監督賞と主演男優賞をダブル受賞したにもかかわらず、彼女は賞を逃した。主演女優賞に届かなかった二人の中国人女優をめぐって、中国のネット上では憶測を含め、大きな話題となった。
■汚れ役を厭わないチャン・ツィイー(章子怡)、リウ・ハオツン(劉浩存)
コンペティション作品のほかに、「ガラ・セレクション」部門の出品作『She Has No Name』で国際派女優のチャン・ツィイーがヒロイン役を演じている。1940年の上海で実際に起きた殺人事件を基にした本作品は、センセーショナルな事件を題材とする「上海猟奇映画」の系譜に属する。そのルーツは、1920年に上海で起きた娼婦殺害の事件を再現した、中国初の長編映画『閻瑞生』(1921年)に遡る。
夫の暴力にさらされてきた主婦が限界に達して、その夫を惨殺したが、逮捕・収監された彼女は他の女囚の影響で女性としての人権や尊厳に目覚めていく。その苦難に満ちた人生を表現したチャン・ツィイーの迫真の演技は高い評価を得た。この映画は、フェミニズム映画の一種であるはずだが、ヒロインが虐待されるシーンが多すぎるのではという批判も中国で上映された当初から受けている。
また、「ワールド・フォーカス」部門の上映作品『ガールズ・オン・ワイヤー』には、チャン・ツィイーと同様に、中国映画の巨匠チャン・イーモウに才能を見いだされた女優のリウ・ハオツンが、演技派女優のウェンチー(文淇)と姉妹役でダブル主演している。リウ・ハオツンが演じたのは薬物中毒で犯罪組織に巻き込まれる妹役で、男性に虐げられた挙句、殺人を犯してしまう。いっぽう、ウェンチーが演じる姉役はスタントマンの仕事をしながら自立していて、妹を救いだそうとする。映画の見どころは明らかにウェンチーの活躍する場面となっている。リウ・ハオツンには汚れ役に挑戦する意欲があったはずだが、結果的に可憐な美人女優が暴力を振るわれるシーンを売りにする興行的な思惑に利用されたのかもしれない。
いずれにせよ、この傾向は新天地を切り開こうという女優たちの志向、そして若さと美しさだけでなく、多様で重層的な女優のイメージを楽しみたいという中国の観客側の欲求が合致したものといえる。というのも、2025年11月に中国映画アカデミー賞の最優秀女優賞に咏梅(ヨンメイ)や、宋佳(ソン・ジャ)、徐海鵬(シュ・ハイポン)ら、40~50代の女優がノミネートされ、宋佳が『好東西』での母役で受賞した。それをみると、これが中国映画界における一つの流れといえるのかもしれない。
(りゅう・ぶんぺい 大阪大学)
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