『元曲選』の挿絵
瀧本 弘之
中国戯曲の挿絵について何回か語ってきたが、『元曲選』のそれについてはまだ言及がなかった。今回は、この戯曲版画の基本的文献について、調べてみたい。
中国版画史の泰斗・鄭振鐸(1898-1958)は民国時期に既にこの本について、情熱的な言及を行っている。商務印書館から出ていた『中学生』に「関于版画」という文章を寄稿していた(原載『中学生』1936年第1期)。これは自身の古版画との出会いや、それに関する蘊蓄、その収集の苦労などを語ったもので、そのなかに『元曲選』を含む版画収集の思い出がある。
子供のころから彼は三国・水滸、紅楼夢などの通俗小説に魅せられて手が離せなかったという。そしてそこに付けられていた人物像からはいって、次第に小さなカラーのカードを集めだし、これが昂じて絵の付いた繍像本にのめり込んだ。やがて収集は病膏肓に入り、大胆にも木刻本に進んだ。そして本当にいいものが分かるようになっていく。
そのきっかけともいうべきものが商務印書館から出ていた石印の『元曲選』で、これは「戊午七月[1918]涵芬樓影印商務印書館發行」と印されるものだ。「涵芬樓」は商務印書館の蔵書楼で1910年ころにできたが、1932年の第一次上海事変で焼けた。鄭振鐸はここで働いていたことがあった。そのころここは明版小説本の宝庫だったという。ただし挿絵のあるものは殆どなく、挿絵に注目する人もいなかった。挿絵にこだわったのは鄭氏をもって嚆矢とするのだ。
ちなみに「版画」という言葉は純粋に日本起原で、明治末期から大正初期に日本の青年版画家たち(『方寸』という文藝美術雑誌を発行していた、石井柏亭・山本鼎らの人々)が作り出した造語だった。それが即座に民国に輸入され、もともと漢字だからそのまま使われていく。当時「新興」という言葉も日本が始まりで、「新興美術」・「新興藝術」などの用語は、大正期の総合雑誌の目次の随所に見出すことができる。ところが新中国になると、民国時期当たり前に使われていた「版画」も、急速に「木刻」にとってかわられていく。もっとも並行して「版画」も使われてはいたものの、政治的に敏感な知識人の間では、使われることがぐんと減った(「日本起原」が敬遠されたのであろう)。ちなみに私の調べた限り、「木刻」が印刷物としての意味で使われた初めは杭州・雷峰塔の崩壊(1924年)を報じた『小説月報』の記事の中で、陳乃乾(浙江海寧人、文献学者・編集者)が語ったのが初出だと思う。
鄭振鐸は、熱心な民主同盟支持者だったから、共産党指導を謳う政権幹部からは睨まれていただろう。彼は用心深く新中国では殆どの場合「版画」の用語を「木刻」に切り替えている。1958年に起きたブルガリア出張中の不慮の事故死がなければ、その後の文革でどんな目に遭ったか分からない。文物局長という肩書だったから、郭沫若(究極の自己否定によって生き延びた)並みにあしらわれただろう。彼の死後、蔵書は北京図書館に寄贈され幸いにも無傷で保護されたのである。
閑話休題。さて『元曲選』だが、これは明末の臧懋循(字は晋叔,万暦8年(1580)の進士)という人物が編んで刊行した戯曲選集で、収録した戯曲は元代と明初の100種類、それぞれに2図ずつの挿絵が付けられている。臧氏は浙江省長興県の人で、三代続く書香の家に生まれ、抜群の記憶力があった。原本の『元曲選』は資金難のため二回に分けて刊行され(万暦34・35年)、そのため序文が二つ付いている。また挿絵をまとめて一冊にした『元曲選図』という版本もある一方(ハーバード大学図書館蔵)、本文中に差し込んだ形のものも普通に見かける。臧氏は湖州の人だが、刊刻は杭州で行われたようだ。これはいくつかの版本に記された刻工名に黄応光らの名があるのでわかるという。
■目印は馬と琵琶
『元曲選』から挿絵をみていこう。初めは巻頭に掲載されている「漢宮秋」の王昭君像。馬に乗り琵琶を抱える女性と何も持たない女性(図1)。これは王昭君(匈奴に嫁した漢の宮女)で、二人並ぶ左の人物が王氏、後ろに琵琶を抱えるのは侍女だろう。鄭振鐸が持っていた『元曲選』を1950年代に「中国古代版画叢刊」に影印(1980年代にも再刊)したものからとった。このポーズは歴代にわたって継承されてきたもので、一目見れば王昭君と認識できる。脇に添えた図2は拙蔵の版本で『百美新詠』(原刊は明だが、清代に繰り返し復刻。拙蔵)というものからとった。版刻を重ねているため、繊細な線描が失われているが、王昭君の属性(アトリビュート)としての「馬と琵琶」は添えられているし名称もはっきりしている。随分と風格が異なるが。いずれも王昭君だ。
前漢の宮廷で、後宮から匈奴に贈る美女を選んだとき、王昭君ひとりだけ画工にわいろを贈らなかったため醜女に描かれた。そのために選ばれて匈奴に送られる羽目に陥った、不運な美人とされている。当時は写真がないからどんな女かは画にして、それから選んだということだ。ちなみに画工の毛延寿はのちそれが露見して、罰せられたとされている。次に並べた図3はかつて中国のオークションサイトで採集したタバコ広告の「月份牌」で、ここには馬も琵琶も描かれていないようだが、後ろの細かい文字に説明があるようだ。このタバコのブランド名は「哈達門」。北京・崇文門の別名だ。美人画、観光ポスター、宣伝画を兼ねている。これはまだタバコ広告初期の作風だから制作は1920年以前のようだ。
次は「竇娥冤」を見ていこう。「元曲」のなかでも格段に有名な作品だが、私はこれほどの知名度の高い作品が、日本に入ってつくりかえられたものがないのを不思議に思っていた。中国の文学作品の多くは加工されて「日本化」されることが多かったのだが、「竇娥冤」の影響を受けたものがあるのかまだ知らない。
「竇娥冤」の作者は関漢卿。塩谷温(1878-1962、大正・昭和の中国文学研究者。『国訳元曲選』などが知られる)によると、元曲作者の第一人者とされる。
ストーリーをかいつまんで言うと、幼いころに父と別れて育った竇娥が、養母殺しの濡れ衣で死罪に処せられる。処刑に当たって、竇娥が自らの無実の証拠として、その後三年にわたりこの地・楚州に雨降らず、自分を斬ればその血はすべてこの場に立てた白絹が吸い取り、刑場には雪が積もると言い残し、処刑される。はたして雪が降り、竇娥を斬った血はみな白絹に吸い取られる(もっとも時系列からすると斬られる前に絵では白絹が血を吸っているが、これは話を分からせるための方便だ)。挿画(図4)はその無実の哀れな罪人の処刑場面を忠実に描く。雪を降らせる怪しい黒雲も書き加えられている。『元曲選』のこの挿絵は非常に有名なものだが、描かれた図をよく理解できるように説明した文字は殆ど見ない。
一曲に就き二図という原則で作られているから、もう一図も見てみよう。その続きでは、幼い竇娥と別れた父が仕官してこの地に赴任して、偶然、竇娥の裁判記録を閲覧し、夢の中で彼女の亡霊から無実を訴えられるところだ(図5)。ここでは亡霊となった竇娥の周囲には雲気が漂っている。父親は夢で竇娥に出会い、その悲運をつぶさに聞き取っている。結局裁判はやり直し、竇娥を陥れた悪人どもは父の手によって皆処罰された。
『元曲選』には、100曲が選定され、挿絵は各二図で膨大なものだ。しかし、筋書きをよく知らないとそのよく考究され工夫を凝らした図を読み取ることは難しい。幸い、近年翻訳も多数出てきているし、『中国古典文学大系』(平凡社)や『中国古典文学全集』(平凡社)、『国訳元曲選』(目黒書店)などをひもとけば、それほど手ごわいものでもないだろう。ちなみに東京大学東洋文化研究所では、同所に寄贈された塩谷博士の『元曲選』全訳手稿をネット公開している。興味のある方はサイトを訪れてみるのもいいだろう。
(たきもと・ひろゆき 著述家、中国版画研究家)
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