『近代中国思想の執拗低音』評 宮原佳昭

投稿者: | 2025年12月15日
『近代中国思想の執拗低音』

近代中国思想の執拗低音
歴史の考え方を振り返る
/台湾漢学研究叢書


王汎森 著
佐藤仁史 訳
出版社:東方書店
出版年:2025年4月
価格 5,500円

本書は台湾の著名な中国近代思想史研究者である王汎森氏(中央研究院歴史語言研究所)の『執拗的低音 一些歴史思考方式的反思』(2014年に台湾・大陸でそれぞれ刊行)の日本語訳であり、台湾人研究者が中国の思想・文学・歴史を紐解く学術専門書シリーズ「台湾漢学研究叢書」の第二弾として刊行された。本書の内容は、丸山眞男が古層論で用いた「執拗低音」より着想を得て、中国近代思想における「低音」すなわち新学派に抑圧されてきた保守派の種々の学術思想を研究する意義、歴史的思考、歴史意識などについて、歴史学の観点から論じたものである。本書によって、含蓄に富む王氏の文章を訳者による周到な日本語訳とガイドによって存分に味わえるのは、大変ありがたいことである。
 本書の構成は、王氏が2011年3月に上海の復旦大学(前身は1905年に創立した復旦公学)文史研究院において大学院生向けに行った4回の講演原稿と、関連する既発表論文2本、そして本書の刊行に際して書き下ろされた「おわりに」と「訳者あとがき」などからなる。以下、4回の講演にもとづいて、本書の概要を見ていきたい。
 第一講では、中国近代思想の「低音」を検討する意義、およびその際に必要な態度について述べる。王氏にとって、中国近代思想の「低音」を取り上げることは、「復古」を主張することでは決してない。近代において主流となった新学派によって歪曲された保守派の言説を「再訪」したり、当時に併存していた多様な言説のなかから主流が形成されるに至るまでの過程を「再訪」したりすることによって、我々の歴史研究に役立つ利用可能な資源を提供しようとするものである。
 この「再訪」に際して必要な態度は、著名な歴史学者である陳寅恪(1890-1969、清末に復旦公学を卒業)が言うところの「説を立てた古人と同一の境地に身を置く」ことである。歴史研究においてこれを達成するにはどうすればよいか。一つ目、ある学者の思想を見下すがために、その学者の学術的見解までも見下したりしないよう、「価値の宣揚」と「事実の再構成」をある程度まで切り分けること。二つ目、西洋からもたらされた「近代学科」の枠組が近代中国の知識人や現代に生きる我々の思考に与えている影響を自覚すること。一例として、古代の経学や仏教学などは学問・信仰・道徳の三つが一体となっているのに対し、「近代学科」の枠組によって別々の分野に分けて古代の人々を理解しようとすると、意味の中にずれが生じる。すなわち、すべての学問に特有の性質があることを忘れてはならない、ということ。三つ目、我々が歴史上の行為者を解釈する時には、結果を知る立場として過去を遡るのではなく、当時の人々も我々と同様に「未来のことは分からない」という未知の状態に置かれていたと考えること。四つ目、ある時代やある社会を描写する際には、当時の「主旋律」すなわち主流の動向だけでなく、同時に競合する「低音」や「副旋律」にも注目し、それらの間にある複雑な関係を理解すること。五つ目、歴史の真の様相を理解するためには、西洋と中国とを問わず、あらゆる学術的資源を用いるべきであり、その際には西洋と中国のいずれをも普遍化することなく、両者ともに個別化すること。
 第二講から第四講では、西洋の近代学科の影響を受けた中国近代の知識人の諸相を探る。
 第二講。譚嗣同(1865-1898)は『仁学』において、「エーテル」や音声学・光学・化学・電気学・気体学・力学など近代西洋の学知を広く援用して、伝統中国思想における「気」の概念を書き換えた。『仁学』にこめられたさまざまな発想は毛沢東にまで影響を与えたと考えられる。
 第三講。保守派に位置づけられる王国維(1877-1927)は当初、西洋近代の新たな学問観の影響を受け、学問と政治・道徳を分けるべきだと見なしていたが、辛亥革命後は歴史と道徳とを結合させなければならないと考え、「殷周制度論」の執筆へと至った。しかし、彼の発想は近代中国の歴史学の主流とはならず、かえって排除の対象にすらなってしまった。
 第四講。歴史学者の劉咸炘(1896-1932)は西洋の歴史学に理解を示しつつも、それが史実の確定を過度に重視していることを批判した。彼は中国の伝統的な史学概念である「風」に着目し、歴史学の重要な任務は各時代における「風勢」(風潮)の起伏を知ること、すなわち政治的事件などの客観的な史実だけでなく、民衆の風俗や文化などの主観的な部分も重視して総合的に歴史を捉えることを提唱した。
 王氏は第一講の冒頭で、「いくつかの問題意識や困惑、特に歴史学に対する態度を会場のみなさんと共有したいのであって、決して何か正しい答えがあってそれを主張するわけではない」と言い、また第四講の結論では、「四つの講義は、様々な角度から人文の多様性を説明することを意図して」おり、「私見では、人文とは人という主体と人の尊厳のことであり、いかなる事もこの二つの基準に符号しなければならないと考える」と言う。王氏が講演で中国大陸の大学院生に、そして本書で日本人に伝えたいことは果たして何であろうか。本書のために書き下ろされた「おわりに」に、それを理解する鍵がある。
 「おわりに」で王氏は歴史学者について、大略次のように言う。歴史学者の任務の一つは、歴史上の様々な「音調」(「低音」に限らない)を発掘し、それらの関係を明らかにすることによって、一つの時代には一つの「音調」しかないか、あるいは一つの「主旋律」のみ存在すると読者が誤解しないようにすることである。歴史学者に必要な資質とは、理性を保った態度を持ち、自由と民主とを自分の行動指針としていること、そして、いかなることに対しても君子としての風格を保ち、自明の善を共通認識としてより多くのものを包括する開かれた態度を持つことである。また、王氏は歴史叙述のあり方について、大略次のように言う。我々が歴史に正しく向き合うには多元的な歴史叙述と和解、すなわち人々が自発的に想いを表して歴史を記し、互いの異なる歴史を十分に理解した上で、互いに諒解の機会を追い求めることが大事である。我々は民主と自由の思想という前提を歴史編纂の原則とすべきである。私は政府が権力を用いて歴史を壟断することに反対であるし、またその対極にある極端な解釈にも反対である。歴史叙述を現実の必要から誇張したり歪曲したりしてはならず、平衡感覚によって表現しなければならない。
 以上から、王氏は中国近代思想の「低音」を題材とする形で、中国大陸の歴史学とは異なる、自由・民主・多元性を尊重する台湾ならではの歴史学のあり方を世に示したものと言えよう。
 また、同じく「おわりに」で王氏は、現代人は歴史意識の欠如によって、自らが身を置く環境や目に入るものを人類の自明のことと安易にみなし、人類には実は多元的で豊かな可能性があったことをなおざりにしている、として、歴史意識の重要性に関する新たな著作を準備していることを表明する。この著作が『歴史是拡充心量之学』(生活・読書・新知三聯書店、2024年)であり、文学・歴史学・社会学・人類学などの第一人者が各分野の醍醐味を若者に分かりやすく伝えることを目的とする「楽道文庫」シリーズ(主編は羅志田氏)の一つとして、大陸で刊行されたものである。この著作は台湾や大陸における王氏の講演をもとに、歴史的思考や歴史意識を持つこと、そして史料を読解することがいかに人間の能力を高めるかを説いたものであり、「風」や「再訪」など本書で挙げられていた論点が随所に盛り込まれている。すなわち、我々は本書を読むことによって、王氏の近年の著作における問題関心を理解する手がかりをも得られるのである。
 王氏は「あらゆる学術的資源を用いるべき」と自ら言うとおり、本書において西洋・中国・日本といった地域や時代を問わず、多くの学説や社会現象などを巧みに幅広く引用することによって、その主張に大きな説得力を持たせている。王氏の文章の魅力は、結論だけでなく、それに至るまでの一つ一つの過程にもあると言えよう。たとえば、「再訪」の一例として評者の心に残った箇所は、日本の東日本大震災によって顕著になった水冷式の原子力発電所の危機に対して、冷却に融解塩を用いる原子炉がアメリカで提唱された1960年代の分岐点に立ち返り、新たな活路を考えようとする者が徐々に現れた、というくだり(「はじめに」注7)である。一方で、この過程の方に目が惹かれるあまり、文章全体の主旨は何であったかと迷子になることもしばしばである。この点に関して、本書には訳者による周到なガイドが設けられている。具体的には、本書に引用されている学者の略歴一覧を付すほか、「訳者あとがき」において、王氏の略歴や主要な著書、本書の各章の概要を要領よくまとめた上で、本書のいくつかの鍵概念に関して議論を加えることによって、本書の意義を明確に示している。本書を読む際には、まず「訳者あとがき」で全体像を把握してから本文へと進むことを強くお勧めしたい。
 評者は中国近代の学校教育における儒教教育のあり方を研究する際、台湾の林志宏氏(中央研究院近代史研究所)の『民国乃敵国也 政治文化転型下的清遺民』(台湾で2009年、大陸で2013年に刊行)によって、中国近代の保守派の多様な動向について大いに啓発を受けた。そして、このたび王氏の本書によって、中国近代の保守派の学術思想を研究する意義を広く人類史のレベルで考えるという発想を得ることができた。本書が中国近現代史研究者はもちろんのこと、歴史学に関心を持つ日本人に広く読まれることを期待したい。

(みやはら・よしあき 南山大学)

掲載記事の無断転載をお断りいたします。

LINEで送る
Pocket