──当事者の語りと記憶の継承を手がかりに──
大野 絢也
◎はじめに──大戦終結から80周年という歴史的節目を迎えて
2025年8月、日本は第二次世界大戦の終結から80周年という大きな節目を迎えた。この80年の歳月の中で、戦争の記憶は単なる過去の出来事としてではなく、今日に至るまで様々な文脈で繰り返し語り直されてきた。東アジアの各国は、それぞれの国家的な記憶と歴史認識に基づき、1945年の出来事を「終戦」「抗戦勝利」「植民地解放」「民族復興」「独立回復」などの言葉で表現してきた。
このような第二次世界大戦の終結をめぐる言語化の差異は、戦争に対する歴史的評価が一国の内政問題である以上に、複数の国々にまたがる「相互に絡み合った歴史」であったことを示している。すなわち、戦争とは一方向的な「加害と被害」では語り尽くせない、記憶の交錯する場であり、植民地支配・軍事占領・武力衝突・国民動員といった多様な経験が、今日においても国際関係や市民社会の歴史対話に影響を及ぼしている。
そして、戦後80年という歴史的節目を迎える今、私たちは改めてその記憶と向き合う契機を得ていると言えよう。なぜなら、戦争や植民地支配の記憶は、国家レベルの外交や安全保障にとどまらず、異なる民族間や階層間の和解、教育政策の再編、地域社会の歴史継承、そして平和共存の理念において、いずれの国においても根幹にかかわる問題だからである。
◎引揚げの実態──記録された痛み
このような文脈において、日本で特に注目すべきは「引揚げ」という歴史的事象である。引揚げとは、敗戦によってかつての日本の植民地・占領地からの退去を余儀なくされた約660万人の日本人が帰還を果たすプロセスのことであるが、これは単なる帰国という物理的な人の移動にとどまらない。そこには、敗戦によって構造的に「国家から棄てられた」人々(いわゆる棄民)、現地で暴力や略奪、貧困や病苦に苦しみながら命をつないだ人々、そして戦後の日本社会において「異邦人」や「在日日本人」として再定住を余儀なくされた人々の、痛切な「生の記録」がある。
特に満洲(現在の中国東北部)からの引揚げは、東アジアにおける戦争終結の過程のなかで極めて象徴的な事例である。満洲は、かつて日本の帝国主義的な野望の対象であり、満洲国という傀儡政権の下で多くの日本人の移住・開拓が推奨されていた地域である。しかし、1945年8月のソ連の対日参戦とともにその秩序は崩壊し、多くの民間人が戦火に巻き込まれ、過酷な逃避行や抑留を経験した。
引揚げの過程において生じた虐殺、性暴力、餓死といった極限的な経験は、戦後の日本社会において長らく語られることのなかった、いわば「沈黙の記憶」であった。こうした記憶の可視化は近年ようやく進展し、当事者による証言や私的な回想記録の公開、さらに研究者や市民団体による聞き取り調査や史料収集が本格化する中で、その実態の一端が明らかになりつつある。筆者が所属する「満洲の記憶」研究会も、こうした流れの一環として2013年7月より活動を開始し、引揚げ経験者へのインタビューや回想記録の編纂、ならびに日記資料の翻刻・出版を通じて、記憶のアーカイブ化と社会的共有に貢献することを目的として取り組んできた。
◎引揚げ経験の語りにおける複層性──誰が、何を、どのように語るのか
引揚げの経験は、一様に語られるものではない。それは、語り手の立場、世代、性別、社会的背景、語られる時代状況によって、内容も形式も大きく異なる。すなわち、引揚げの記憶は単なる個人の経験談にとどまらず、社会的・政治的文脈のなかで構築され、再構成されていくものである。このような語りの多層的構造=「語りの複層性」を理解することは、引揚げ経験を歴史的に捉える上で不可欠である。
第一に、引揚げ経験の語りは、しばしば「被害者としての日本人」の視点に集中しがちである。暴力、飢餓、病苦、家族の死といった経験は、聞き手に強い印象を与える一方で、日本の戦争責任や植民地支配との関係性が語られにくい傾向もある。こうした「語られないこと」を含めた記憶の構造に注目する必要がある。
第二に、語りの形式や語り手の属性によって、記憶の表現には大きな幅がある。例えば、当時幼少期であった女性が語る記憶と、軍属として現地に赴いていた成人男性の記憶では、経験の焦点も語り口もまったく異なる。また、後年に書かれた回想録や会報記事では、個人の記憶が団体の主張や政治的目的と結びつき、再編されることもある。
第三に、世代間の語りの継承においても複雑な力学が働いている。経験者自身が高齢化するなかで、子や孫の世代による記録化・編集・再語りの試みが進んでいるが、それは単なる代理の語りではなく、記憶の意味を新たに問い直す行為でもある。たとえば、日記や証言を読む立場にある私たちは、それを単なる「史料」としてではなく、語られる構造そのものを理解し、「歴史化」していく責任を負っている。
このように、引揚げの語りとは、単線的な「経験の記録」ではなく、個人と社会、過去と現在、記憶と沈黙の間に存在する複雑な言語空間である。その語りの複層性を認識することによって、私たちは単なる「歴史の事実」ではなく、そこに込められた意味と感情、そして未解決の問いに対して、より深く向き合うことが可能になるのである。
◎断絶された記憶──引揚げ経験と東アジアにおける歴史認識の交錯
80年前の引揚げをめぐる記憶は、日本と東アジア各国との間に存在する「断絶された記憶」の橋渡し役として機能し得る、きわめて重要かつ多義的な性格を有している。ここで言う「断絶された記憶」とは、戦争の加害・被害をめぐって各国が構築してきた歴史認識の齟齬、ならびに語られる記憶の非対称性を意味する。例えば日本国内においては、引揚者の苦難や犠牲が「戦争の被害」として語られてきた一方、同じ地域において日本の植民地支配や軍事行動の被害を受けた中国や朝鮮半島の人々にとっては、日本人の存在そのものが「加害の記憶」として記憶されている。こうした歴史記憶の断絶は、戦後東アジアにおける相互不信や歴史認識の対立を長期的に形成してきた一因でもある。
したがって、引揚げの記憶に向き合うという営みは、日本人の戦争被害経験のみを一方的に強調することではなく、むしろ東アジア地域における歴史経験の交錯と複層性を認識し、異なる視点を接続する場として記憶を再構築する試みであるべきである。それは、戦時下において日本が加害者であったという歴史的事実を再認識し、「あの戦争とは何だったのか」という根源的な問いを投げかけると同時に、国策の帰結として被害を受けた引揚者たちの視点にも、改めて光を当てることを意味する。
すなわち、引揚げという歴史的経験は、単なる日本人の「被害の記憶」によって語られるべきものでも、「加害の記憶」へと一義的に還元されるものでもない。それは、加害と被害、国家と個人、語りと沈黙といった二項対立的な枠組みを超えて、戦争の記憶がもつ複雑性と重層性そのものを私たちに突きつけるものである。こうした複眼的な歴史的視座の形成こそが、断絶された記憶を架橋し、和解と共生に向けた対話可能な記憶の構築へと至る第一歩となるだろう。
◎結びにかえて──現代日本との接点
そして今日、引揚げの記憶は、もはや過去の事象を回想するための語りにとどまらない。それは、現代の日本社会が直面する諸課題──災害時の避難者支援、外国人労働者・移民・難民の受け入れ施策、地域における多文化共生の実現──と深く結びついている。異郷からの帰還者として引揚者がたどった経験は、社会が「他者」をいかに受け入れ、包摂していくのかという問題と通底しており、その記録は、戦後復興の教訓としてだけでなく、現代における社会的包摂力のバロメーターともなり得る。
戦後80周年という歴史的節目にあたる2025年において、私たちは引揚げの記憶を一つの手がかりとして、あの戦争とは何であったのか、戦後とはいかなる時代であったのかを改めて問うべきであろう。そこにあるのは、「戦争の終焉」の記憶ではなく、「戦後の始まり」としての経験を再考する営みであり、それはまた、東アジアの人々とともに、記憶を共有し、和解を志向するための対話の礎ともなる可能性を秘めている。
(おおの・じゅんや 静岡県立大学)
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