![]()
|
台湾文学研究は台湾研究の一部だろうか、それとも文学研究の一部だろうか。
日本の高等教育機関で台湾研究を掲げる専攻は存在しない(副専攻としては存在する)。台湾文学に特化した専攻はもちろんない。ではどこで台湾文学研究が担われてきたかというと、多くは中国文学の専攻においてであり、日本文学の専攻でも一部研究されてきた。先駆的なものを除けば、日本では1990年代以降に台湾文学研究が勃興するが、組織の中でなされたわけではなかった。台湾文学に関心を持つ個々の研究者が、個人の研究を深める中でネットワークを作り、戦前の書籍や雑誌掲載の作品を復刻するなどして、研究を可能とする環境を築いてきた。
1998年に日本台湾学会が設立され、台湾文学研究者の集まる場所ができた現在、教育機関の制度に支えられずとも、台湾文学の研究は可能である。中国文学はもちろん日本文学研究においてさえ、台湾文学(日本語で書かれたものを含む)は無視できない領域を形作っている。例えば本書の著者、赤松美和子氏も執筆し編集に関わった論文集、『文学の力、語りの挑戦──中国近現代文学論集』(宮尾正樹教授退休記念論集刊行会編、東方書店、2021年)は、お茶の水女子大学の中国文学・中国語学専攻(現在は中国語圏言語文化コース)で学んだ研究者による計21篇の論文を収める。そのうち台湾文学を対象とする論文は4篇、香港文学は3篇で、今や「中国文学」より「中国語圏文学」と呼ぶ方がふさわしい状況である。
しかし、個々の研究者による単著や論文集こそ蓄積されたが、では台湾文学の世界に分け入るガイドとなる本は、となるとまだ十分ではない。一冊で広く見渡したものとしては、『講座台湾文学』(山口守編著、藤井省三・河原功・垂水千恵著、国書刊行会、2003年)があるのみで、大学生や研究を目指す人のための手引きの性格が強い。かつて台湾文学の翻訳もそうだった。世紀の変わり目に国書刊行会から刊行された「新しい台湾の文学」12巻は台湾文学への関心を高めた画期的な翻訳シリーズだが、では広く欧米文学を含む文学愛好家の関心をも獲得したかというと、まず台湾やアジアの文学にあらかじめ関心を持つ人たちが主な読者だったと思われる。
その状況は21世紀が進むにつれ一変した。台湾への注目の高まりを背景に、台湾文学の紹介や翻訳が飛躍的に増え、台湾に格別関心を持たなかった読者にとっても、台湾文学が文学の新たな領域として出現した。2025年現在、翻訳は毎年十点以上出ている。とすると現在求められているのは、台湾文学の海域にこぎ出していくための羅針盤であり、海図となるだろう。本書、赤松美和子『台湾文学の中心にあるもの』は、この切実な期待に応える一冊として登場した。しかも、未知の海域へこぎ出す勇気にあふれた、アグレッシブな一冊である。
文学は政治と距離を置くべきだ、との価値観を内面化していたという赤松氏は、台湾文学に触れる中で、文学と政治の距離の近さに驚き、悩んだという。しかしその世界に入り込んだとき、氏は台湾文学を次のように定義するに至った(「はじめに」)。
文学が国家に紐づけされることに、あるいはされないことに苦悩してきた文学もある。それが台湾文学だ。
本書の姿勢はこの一文に集約されている。文学が国家や政治に紐づけされることは、実はアジアの文学では往々にしてあった。革命と戦争に翻弄されつつ対峙してきた中国の現代文学はその典型だし、本書に先行する、斎藤真理子氏の『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス、2022年)を読むと、韓国文学が朝鮮戦争、光州事件、アジア通貨危機、セウォル号事件などの社会を揺るがす事件と向き合い、人々を拘束してきた不条理な社会的慣習に抗って書かれてきたことがわかる。アジアの文学を読むと、見慣れぬ人名や事件、創作手法の違い以外に、作中に描かれた個人が国家や民族、政治や社会と直接結びつけられていることに、戸惑うことがあったろう。その意味では台湾文学も例外ではない。赤松氏は一方、文学が国家に紐づけ「されない」ことに苦悩してきた点にも注意を促す。文学作品を書き、社会にメッセージを送ろうとしても、検閲や刑罰、報復があれば発信は困難である。たとえ送ったにしても、社会に対する有効な声となって響かない。台湾文学の苦悩はここから出発した。文学がはなから国民や民族の声を代弁するなら話は簡単で、台湾の場合、その文学が誰の声を代弁しているのか、ということ自体疑問に付されてきた。
本書は計5章で構成されている。
第1章 同性婚法制化への道は文学から始まった
第2章 女性国会議員が40%以上を占める国の文学の女性たち
第3章 文学は社会を動かし、その瞬間をアーカイブし続けてきた
第4章 日本統治期が台湾文学にもたらしたもの
第5章 ダイバーシティな台湾文学の表記と翻訳の困難
大きく、第1章はLGBTQ+の文学、第2章はフェミニズムの文学、第3章は記録としての文学、 第4章は台湾文学の一部としての日本語文学、第5章は翻訳を通して見えてくる台湾文学の言語的複雑さ、と言い換えることができるだろう。ただし本書は台湾文学を網羅的に語る目的でこの章立てを組んではいない。台湾文学の目指す地点を明らかにする上で、これらの章立てが有効だとの見地からである。
2019年に同性婚が法制化されるなど、性的マイノリティの権利を保証する点で、台湾がアジアで最も進んでいることは日本でも広く知られている。これには背景がある。台湾を統治した外来政権の一つである国民党の独裁に対し、1980年代から90年代にかけて、民主化や本土化(台湾化)の運動が推進された。それは被支配者による権利の回復や獲得の過程だった。その中に原住民族(先住民族)の運動があり、性的マイノリティの運動があり、個としての自身を解放する女性たちの運動があった。そもそも戦後の台湾では、少数者の国民党政権が戦前から台湾に居住してきた多数者の本省人を支配していた。人数的にはマイノリティでないにもかかわらず、本省人は政治・経済・文化の周縁に追いやられてきた。戦後国民党とともに台湾へやってきた外省人の中にも、国民党の圧政に抗議する人々がいた。独裁政治を打倒し権利を獲得する流れの中で、同じく本省人でも福建省南部から来た閩南人(河洛人)とはエスニック・グループの異なる、広東省東北部から来た客家の人々や、漢族が台湾海峡を渡る前から全島に居住していた原住民族が声を上げる。抑圧されてきた女性たち、性的マイノリティも文学を通して社会へ声を発信した。
第1章では、2019年の同性婚法制化の出発点として、活動家による1986年の立法院への請願に触れてから、赤松氏は、「だが台湾文学はさらに10年も前から、同性婚法制化への準備を始めていた。40年も前から、ジェンダー平等を語るための言葉を模索し、物語を社会に発信し、言論空間を拡げ続けてきた」と述べる(18頁)。それが、台湾を代表する作家の一人、白先勇が1977年に書き始めた小説、『孽子』(陳正醍訳、国書刊行会、2006年)である。第1章ではさらに1990年代以降に書かれた10作近い代表的作品が紹介されている。面白いのは、この文脈に村上春樹『ノルウェイの森』が加わっていることで、翻訳を通して日本の文学が日本とは異なる文脈で影響を広げた。一方、台湾のLGBTQ+文学が、垂水千恵氏や三須祐介氏らの手によって、大きなタイムラグなしに日本へと翻訳されている。映画も含め、日本のLGBTQ+の現場に台湾からの影響が及んでいることが予想され、現在では台湾文学と日本文学の相互作用の磁場が生まれているのである。
第2章では、これも台湾を代表する作家の一人、李昂の『夫殺し』(藤井省三訳、宝島社、1993年)を出発点に、フェミニズム文学のみならず、外省人の住む眷村出身の女性作家たち、さらに男性作家による女性表象、近年の台湾社会でのハラスメント告発に触れている。フィクションの世界で始まった告発が「現実世界へと飛び火」(88頁)しているわけだが、これは文学の空間に閉じ込めきれない声が社会の空間へと波及した一例にすぎない。
第3章では1970年代に勃興した郷土文学に始まり、黄春明や陳映真など、政治的立場は異なっても台湾の現実と対峙し、小説の形で記録した作家たちや、戦後台湾の最大の事件というべき1947年の二・二八事件を描く小説の数々、さらに原住民族の文学が紹介される。これに続いて話題となるのが、赤松氏による台湾文学研究の、秀でた高峰の一つ、『台湾文学と文学キャンプ──読者と作家のインタラクティブな創造空間』(東方書店、2012年)で語られた、台湾文学独自のインフラと呼ぶべき文学キャンプであり、さらに台湾記録文学の到達点の一つ、蔡焜霖の人生を描いたコミック『台湾の少年』全4巻(游珮芸・周見信作、倉本知明訳、岩波書店、2022-2023年)が紹介される。
第4章では、台湾語の話を枕に、日本統治期に日本語で教育を受けた作家たちの戦後を追う。日本語で書きつづけた黄霊芝がいれば、戦後中国語を学んで創作した鍾肇政や陳千武らがいた。評者は主に日本統治期の文学に関心を持ってきたので、言語の転換に際し辛酸を嘗めた作家たちに、5章のうちあえて1章を割いてくれたことに感謝したい。苦心惨憺して身につけた中国語の自作が、自在に操れたはずの日本語へと訳されたとき、作家たちの胸に去来したのはどんな感情だったろうか。本章の後半では、直接には当時を知らない作家たちが日本統治期を描くことの意味に言及して、赤松氏は、「当時の資料を調査し、フラットな視点から書くからこそ、(中略)植民地下の差別を直視することが可能なのだろう」(172頁)と書いている。「フラットな視点」が存在するのかどうか、それがなければ「植民地下の差別を直視」できないのかどうかについて、評者は日本統治期と現在の文学を読み比べる中、様々なケースがあるだろうと考えている。
第5章は台湾文学の翻訳者、天野健太郎、松浦恆雄、西村正男、倉本知明、山口守、三須祐介諸氏の手練れが凝らした翻訳上の工夫を通して、台湾語の訳文に焦点を当てつつ、台湾の複雑な言語状況を紹介している。現在では訳者の列に、故郷の南予方言を用いた田中美帆氏の翻訳、陳柔縉『高雄港の娘』(春秋社、2024年)も加えることができる。台湾の言語は中国語と台湾語だけではなく、客家語、原住民族の諸語や日本語もあり、この複雑さを訳文でいかに表現するかは台湾文学の本質とつながる。現在の台湾ではここに、「新住民」といわれる、主に東南アジアから来た移民とその家族の創作言語が加わり、日本の言語環境では理解が及びがたい言語的複雑さがある。訳者たちはそれだけ挑戦の甲斐があるわけで、評者は倉本氏による『台湾の少年』翻訳こそ到達点の一つだと考える。
本書には読書案内としての性格がある。邦訳が入手可能な書籍、計50作ほどを各章に配置し、作品を語りつつ台湾文学の本質へと迫る。無造作にも見える率直さこそ、本書の真骨頂である。それをもたらしたのは、赤松氏が冒頭で記した、日本ではそれと意識できないほど深く内在化された、「文学を政治から遠ざけたい」(「まえがき」)というゲームの規則に対する、大胆な度外視、赤松氏が台湾文学を読む中で築き上げた断固たる文学観だろう。逆にこうも言える、洗練された日本文学や欧米を中心とする海外の翻訳文学を、洗練された読書生活の中に取り込むような態度でもって、台湾文学を読むなら、そもそも台湾文学を読む意味がないではないか。台湾文学が日本の読者にもたらすものがあるとすれば、それは無骨な手触りの、消化しきれない感覚の残る体験であっていいのではないか。
本書で紹介された数々の作品の読後感において、部分的に記したように、評者はつねに赤松氏の紹介分析に賛同するものではない。しかしそもそも台湾文学は、読む人間の立場や背景によって、大きく印象が変わる作品を作り出してきた。通奏低音を響かせることを誰もが目指してきたわけではない。仮に「台湾文学」の名のもとにまとめられるものがあるとして、その輪郭を問い直す作業がくり返しなされてきたのが台湾文学なら、それは今後も問い直されてよい。幸い私たちには、赤松氏が太い線で描き出した輪郭がある。この勇気を讃えつつ、自身が台湾文学の海域へと出航し、自らの地図を描いていけばよい。そういう励ましがこの一冊には込められている。
(おおひがし・かずしげ 関西学院大学)
掲載記事の無断転載をお断りいたします。