「旅」というものは、何かしら強烈な印象を残すことが多い。それが、外国であればなおさらだ。おそらく、文化や国民(民族)性による違いが、驚きや興奮などの強い感情を引き起こすのだろう。
そこで今回、小社社員によるオモシロ!トンデモ!旅行記をここに綴っていきたいと思う。著しい社会変化が巻き起こっている現代、たかだか数年、十数年前でも、我々は浦島太郎か?というほど、街の様子が様変わりしていることは、読者の皆さんも重々ご承知だろう。
これから綴る「旅の記憶」は、今の中国に行ったことがある人にとっても、昔は行ったことがあるがそれっきりという人にとっても、きっと新しい横顔を見た気持ちになってもらえる、そう思っている。
それでは、はじまりはじまり。(編集部)
1Q87 スロウボートからワンダーランドをめぐる冒険
山下 輝恭
ミルクティーのような色の大河の向こうに上海外灘が見えた。古ぼけた中国行きのスロウボートは、ゆっくりと着岸の体勢を取り始めている。白くて大きな鑑真号から陸を見上げると、灰色でくすんだ石造りの高い建物が塀のように立ち並んでいて、上海という港町は何となく横浜に似ている印象だった。茶色い湾口の水からは金属臭が感じられたが、これはこの街全体の印象として常に私の鼻先から離れることはなかった。
1987年春の初めのことである。私たち3人の若者は、中国語の実力も顧みず無謀にも上海上陸から始まる大陸行を敢行した。特に仲が良かったわけではないゼミの仲間だった我々が、村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」という短編小説のタイトルに感化され、ちょっと行ってみるかというくらいの気軽さからだった。
同行のゼミ仲間は瀬戸、大堀といった。船に乗った経験があまりない彼ら二人は船出直後から激しい船酔いに襲われ、いったいどこで売ってんの?と吃驚するくらい幅が狭く薄っぺらい布団に寝転がったままだ。おかげで、上陸後の打ち合わせも出来なかった。
到着前夜、私はひとり星を見上げながらビールでも飲もうと甲板に出たが、星も見えず思いの外風も強く、寒さに耐えかね早々に諦めた。幼少の頃家人から聞かされた話なのだが、江戸末期母方の先祖が侍であったが脱藩し、後に中国に渡り満洲鉄道で現在のキオスクのような商売を始めて成功したという立志伝がある。真偽は定かでなく最初上海に上陸して外国人と一緒に商売をしたとも聞くが、そんな記憶が私を中国、とりわけ上海を大きく意識させるきっかけになったことは間違いない。
私たちは煤煙にくすんだ晴天の下、大勢の旅客にまぎれ下船しコールタールに汚れた街路に出た刹那、バックパッカーを呼び込む客引きたちに囲まれた。いくつかを軽くあしらいながら(と言っても、ほとんど何を言っているのかはわからない)、ちょっとだけ誠実そうで言っている料金が相場より安いと思われる一人の前で立ち止まり、我々は交渉を始めてみた。その客引きは、事前に穴のあくほど上海の地図をながめ、街路の名前の多くを記憶している我々も知らない通りの名前を言っているがここから近いという(後から地図を確認したら本当に細い路地で路名も小さく表示されていた)。料金はドミトリーで、1泊1人10元か20元くらいだったと思う。
当時の私たちの最も信頼するガイドブックは『地球の歩き方』だったが、上海のドミトリーで最安値と掲載されていたのが10元くらいだったのでまあまあというところだ。しかし、宿の施設や状況、当地の利便性は行ってみないとわからない。予約もなく現地で探すというのはある種の賭けだった。船酔いもまだ醒めやらない二人と約50時間の船旅で疲弊している私は、面倒なこともあり目の前の客引きに賭けてみるしかなかった。だが、この賭けは我々の勝ちだった。
トイレやシャワーが共同なのは当然として、部屋はなかなかの清潔度が保たれシーツも白くてパリッと糊が効いていた。鑑真号の冴えない船室に比べたら天国のようである。
その小さなホテルには各階に係りの服務員が常駐していて、我々の階はかわいい色白の女の子がいつも座っていた。我々は代わる代わる筆談や拙い語学力で彼女との会話を楽しんだ。彼女は20才で、私たちはシャオリーと呼んでいたように思う。その晩はホテルの食堂で久しぶりにまともな食事を摂ることが出来た。でも、ビールは冷えていなかった。
翌日、外貨両替に対応している和平飯店で両替をしたら夕方にサーカス会場で集合ということになった。その日は3人それぞれに興味や方向性が違うこともあって、結局自由行動ということにしたのだ。と言いつつも、何となく心細く、売店で軽食を買うこともバスに乗ることも初めてだったので、一緒にパンを買ったりバスに乗ったりしていた。大通りの交通渋滞、街角の肉屋、人々の垢ぬけない服装、どれも珍しく映った。豫園で小籠包を食べて、いよいよ3人それぞれに自分の目的地に向かうことにした。
彼らと別れ、通り全体が商店街になっているような道を歩くと、老人たちが煙草を吸いながらトランプ遊びをしている。全員の手札が相当に多く扇を持っているようだったので、何組かを使っているのだろう。老人の傍らには猫が座っていて、店舗の2階には洗濯物がぶら下がっている。のんびりとした普通の街の風景だった。
私は新華書店に入った。専攻が現代文学だったのでその一角を見るが、気軽に手に取ることが憚られた。店内は人もまばらで、何でこんなところに外国人がいるのだという視線も感じる。静かすぎて居心地が悪かったこともあり、一通り見てから店を出た。
道の反対側には雑誌や新聞を専門に売っている売店があった。西洋人の女性が微笑んでいる表紙やゴシップ雑誌っぽいもの、夕刊フジのようなタブロイド判も並んでいる。いくつか適当に選ぶと「4元」だという。そのまま札を渡すと「違う、違う」と手に持っている10元札を指差す。ちょっと釈然としなかったがそのまま支払うと、お釣りは返ってこなかった。横に視線を移すと、ワゴンにカセットテープが並んでいるのが見える。その中にどう見てもテレサ・テンと思われる歌手のものがあった。中国お馴染みの海賊版なのだろうか。テレサ・テン(鄧麗君)が鄧小平と同じ姓だったと知るのはその時のことである。
当時流行っていたテレサ・テンの歌を鼻歌で歌いながら、いつの間にか少しさみしい通りに差し掛かる。地図で確認するとそこは目的のフランス租界で、通りには人影がまったくなかった。プラタナスの並木が続き、高い塀の向こうには大きな洋館が建っている。門は閉ざされ敷地が広く、その隣も同じようなもので、街全体がその連続だった。結局歩いている間、誰にもすれ違わなかった。そこは静かでさみしい生き物の活動を感じられない、不思議な空間だった。往時の私の先祖が当地のフランス人と懇意になってこの洋館のどこかで厄介になっていたとしたら面白いな、などと想像してみたりした。
ふと気が付くとほんのりと春の香りがしている。塀の向こうにも道端にも花は咲いていないが、この辺りだけ色を差したように甘い香りが漂っている。ある家の門柱には銅製のレリーフがあり、装飾のある横文字が何語かわからない。文字を撫でフランス語なのか…と思った刹那、その家の奥から「セイヤ」という音が聞こえた。音ではなく人の声なのかもしれなかったが、驚き反射的にその場から離れた。しかし、玄関が開くことはなかった。あの音、または声は何だったのだろうか、そう思いながらもと来た道を戻り始めた。お祭りの神輿のかけ声にも似ていたが、そんなはずはない。プラタナスの並木を見上げ、本当にここは上海なのだろうかと不思議な気持ちになった。色彩に乏しい、静かでさみしい通りに日が傾き始めていた。
地図を頼りに待ち合わせ場所の人民広場まで歩く間に、夕日は傾きやがて夜に差し掛かった。夕方の自転車の帰宅ラッシュに目を瞠りながら、いくつもの信号を渡り人民広場を目指した。小さな食堂に人々が集まり、楽しそうに思い思いの食事をしている。流行なのか、けばけばしい青や赤、黄色の原色で細いネオンの管を折り曲げ細工された看板が多い。「餐厅」「酒吧」(注・簡体字)などと器用に作られ輝いていた。そこには先程のフランス租界とは全く違う賑やかな人の生気が漲っていたし、人民の生活と匂いがあった。
人民広場内のサーカス会場で仲間を待って無事に集合し、屋台の料理で食事を済ませた。サーカス小屋はテントだったと思う。入場しようと思い、先に買っておいた切符を出す段になって瀬戸の切符がないことがわかった。買ってから落とすとしたらさっきの屋台だろうか、と狼狽している瀬戸のもとに一人の中国人が近寄ってきた。手にはサーカスの入場券がある。彼は「これはあなたのだろう」と手渡してくれた。おぉ〜、なんと親切な御方だろうか…我々は三人でお辞儀をして感謝を伝えた。「ゼウェ」とその彼は何事もないように笑いながら去っていった。
サーカスは、曲乗りや動物たちの芸、奇術と本当に楽しかった。だが、見知らぬ人から受けた親切ほど感動したものはなかった。ただ、パンダの曲芸がトリの予定だったはずなのだが、なぜか虎が出てきて輪をくぐって終わり、という看板に偽りありなのは残念なことだった。
上海に滞在した数日間、朝は必ず和平飯店で両替をしたり用を済ませたりしてからその日の活動に入るというのが日課になった。当時は当然のことながら兌換券だ。兌換券は外国人用の紙幣で、ホテルや空港で外国人が自国の貨幣と両替し、これを得る。しかしながら、市中の一般商店などでは使えないため、さらに一般的な人民元に換える必要がある。ホテルの前で「チェンジマネー」と言いつつ大勢寄ってくるのは、この兌換券目当ての闇の両替屋たち。当時の中国では、輸入品は販売を独占している友誼商店というところで兌換券を使って買うしかなかった。彼らは兌換券を手に入れるため、額面に多少の上乗せして人民元と換えてくれるという。
夕方には北京に夜行列車で旅立つことになっていた。私はお土産を買う代わりに和平飯店の散髪屋で髪を切ることにした。言葉もできないのに無謀なことであるが、入ってから適当に並んでいる写真を指さしてやって貰えばいいや、くらいに考えていたのだ。果たしてその通りにしたが、仕上がりは上々だった。ただ、襟足にカミソリを当てる際、シャボンは使わずに直に剃り、息を吹きかけて剃った毛を飛ばすという荒業には少々驚いた。
夜行列車の切符は日本の旅行代理店で手配したのだが、安い席はありません、だか取れません、だかで一番高い「軟臥」という切符だった(外国人料金なので倍額、めっちゃ太贵了)。券種は硬座、軟座、硬臥、軟臥という順番だったと思う。駅では一番上等の軟臥は待合室が特別で、現在のラウンジサービスのような扱いであった。
大堀はホテルのシャオリーとの別れが辛かったらしく元気がなかったが、我々3人は上海でのあれこれを話し合いながら列車を待った。大堀によれば、上海語には拼音で言うところのh音が抜けることがあり、「shi」が「si」になるという。サーカスの切符を拾ってくれた彼が「ゼウェイ」と言ったのは「再見」のことだと解説してくれた。なるほど、それで雑誌の売店で四と十が分かりにくかったのかと納得した。
時間が来て列車に乗り込む。二段ベッドだが部屋はなかなか豪華で白黒だがテレビがあり、アメリカの西部劇が放送されている。インディアンやジョン・ウェインが中国語を話しているのは違和感があった。
車窓から駅のホームを眺めていると、行き交う大勢の乗客のなかに知った顔を認めた。列車の窓を見ながら誰かを必死で探しているようだった。いち早く大堀も見つけていたようで、「シャオリーだ…」と呟き、彼はすぐにホームに降りて彼女を追う。瀬戸を留守番に私も急いで追いかけると、シャオリーをつかまえた大堀が何やら手渡されている。大堀は嬉しそうに礼を言い、私も「ありがとう、さようなら」と別れた。
列車を見送るシャオリーに手を振り列車は発車し、彼女も明るく手を振り返してくれた。大堀はまたさみしそうな表情だったが、しばらくしてから彼女が渡してくれた袋の中身を改めた。そこには着古して今朝捨てたはずの彼のTシャツが入っていた。
夕食は、中華と洋食でかなり豪華だったがビールは温くて残念だった。真っ暗の荒野を列車は疾走している。h音…フランス租界で聞いた「セイヤ」は「誰啊」だったのか…などと思いながら眠りに落ちていった。
早暁、北京駅に着いた。ニュース映像で見た昔の上野駅のような雰囲気で田舎っぽく埃っぽい、人が溢れているせいか窮屈な印象の駅だった。たくさんの荷物を持つ乗客や赤帽(かつて駅の構内を旅行かばんなどを運ぶ業者がいた)が急ぎ足で行き交い、ぶつかり合う…出口までその連続。
きっと往時もこんなカオスに満ちていたことだろう。終戦直後、祖父母に連れられ母はこの駅から命がけで日本に逃げ出した、その場所に私はいる。上海から北京、自らのルーツの足跡を、わずかではあるが確かにトレースしている、そう感じた。
北京は上海ほど刺激的ではなかった。ただ大きくて人が多いばかりで、どこに行くにも遠くて億劫な感じだ。天安門広場も故宮も見て、早々に退屈した我々は長城ツアーの空きを見つけた。壊れそうなマイクロバスで十三陵にも寄って半日強、80元か100元だったように思う。大勢の中国人や外国人に混じり、かなりの急勾配を上がり下がり、再びまた上がりてっぺんまで登った。大堀は長城の煉瓦でロウマッチを擦ってタバコを吸い、瀬戸は自慢の一眼レフカメラで全景を撮っている。思いの外落書きが多く、明らかに日本人によるものとわかるものが多かったのは恥ずかしかった。
十三陵も見学し、その帰路に事件は起こった。うんざりするくらいの田舎道が続いているそのど真ん中でバスは静かに停車した。一番前の座席に陣取った我々のすぐ前で運転手が助手席の乗務員と大声で話し合っている。やがて、二人は降りていきあちこちを開けたりしながら点検を始めた。同乗の外国人たちもやがて昼寝から覚め、事情を察しガヤガヤし始めた。中国人の乗客も何人か降りて修理に加勢している。彼等の動きが止まったので直ったのかと思ったが、乗務員が戻ってきて我々に金はあるかと尋ねた。しきりに銭…コインと言っている。私たち3人は財布やポケットの小銭入れを出し、中にある数種の硬貨を見せた。すると、乗務員は満面の笑みを浮かべ、お札には目もくれず1毛銭を2つ摘み上げ、礼も言わず素早く再び降りていった。程なくバスのエンジンがかかった。乗務員や中国人たちからは歓声が上がり、外国人たちも歓喜した。助手席に戻った乗務員は私たちに礼を言い、運転手も振り返り「謝謝」と嬉しそうに笑った。しばらくして、乗務員が再び私たちを振り返り何やら手渡そうとしている。受け取ったのは傷付いてギザギザになった1毛銭(どうやら硬貨をネジ回しに使ったらしい)とピン札ではないが真新しい1毛札(元ではない)だった。
1992年、仕事による出張で再び北京に訪れる機会を得た。今はもうあまり実施されていない青年交流のような中国側(この時は出版対貿)の招待であった。最初の訪問から比べると、都市化も進み人々の服装も随分とカラフルでお洒落になった。何より冷えたビールが普通に出て来るようになった。
この時、幼少の頃の母の住所を一度だけ訪ねてみた。史家胡同という前門にほど近い北京の中心部にそこはあった。繁華街の大通りからほんの少し入った場所なのに、まだ胡同が残っていたのは驚きだった。戸を敲き、しばらく待ってから思い切って入り口の戸を推すとなかに入れた。もし住人か誰かが出て来たらどう説明しようと考えていたかは記憶にない、好奇心だけで行動していたのは確かである。
中庭には倉庫のようなものが建っており、木の一本どころか植栽や夏草さえもなく往時をしのぶ寄す処は認められない。建物はしっかりとしていて荒れた感じはないが、四合院造りの飾り気のない質素で古い2階建てだった。土の匂いがして、何となく小学生の頃に通った書道の先生のお宅に似ていると思った。
四合院のどこかに人がいる気配はないが、使い古された白いシャツが1枚物干し竿に干され小さく風に揺れていた。水墨画のような静かでさみしい風景だった。緊張感が高まり、「ニーハオ」と言ってみるが返事はなかった。この家で母は生まれこの庭で遊んだはずであるが、私にはその様子をうまく思い浮かべることが出来なかった。終戦直後、母の家族は強制収容の危機が迫るなか、雇っていた家政婦の機転ですんでのところを逃げ出すことが出来たとよく祖母は語っていた。母と母の家族はどんな気持ちでここを後にしたのだろうか。
私はそっと戸外に出て扉を閉めた。ようやく私の緊張は解かれ深い息を吐いた。汗をかいていたのは夏の暑さのせいだけではなかったと思う。思ったより混乱していたのだろう。落ち着いてから、そういえば写真を撮っていなかったなと気付いたほどだ。汗を拭いて向こうの大通りを振り返ると、喧噪の中に人と車があふれ色鮮やかなデパートのウィンドウには口紅の濃い外国人モデルが微笑んでいた。
2000年代以降にも2度北京を訪れる機会があったが、この時にはもうほとんど東京と変わらないくらいに近代化されていた(もちろん、冷えたビールはいつでも普通に飲める)。ただ、埃っぽいのは相変わらずで空気はすこぶる悪くなったなと感じた。
2005年冬の北京は想像以上に厳しい寒さで、迂闊にも到着早々風邪を引いたようだった。招待元の担当氏は「晩御飯は、北京ダックです」と満面の笑みで告げたが、どうにものどを通りそうもない。適当に愛想笑いを浮かべていたが、気が付くと階下から好い匂いが漂ってくる。階下に火鍋の店があるという。私は「申し訳ないのですが、今夜は風邪っぽいので火鍋が希望です」と言ってみた。担当氏は不躾な申し出にも拘わらず快く引き受けてくれた。効果はテキメンで翌朝は風邪の症状が消えていた。
次の日は書店巡りの途中、西太后の避暑の別荘・頤和園を見学することになっていた。早朝からエレベーターで派手な服装の女性と乗り合わせた。香水の匂いがきつかったので、午前中その匂いが鼻先周辺に纏わりついているようで不快な心持がした。
頤和園の池の氷は見事に凍りつきスケート場のようになっていて、私も歩くことが出来た。真っ青な空のもと氷がきらきらと輝いて、はるか遠くまで続いている。風邪を引いていることも一瞬忘れそうであった。
目の前で初老の男性が足を滑らせて転んだ。私は手を差し伸べ引き起こす。礼を言われ、どういたしましてと中国語で答えると、彼は笑って「日本人か?」と言った。そうですと答えると、微笑みながら改めて「謝謝」と言われた。人と人などこんなものである、転んだ人には手助けをする、助けられたら礼を言う、それだけなのだ。晴れた空に晴れやかな気持ちだった。
だがその晩は怪電話に悩まされることになる。ホテルのエントランスに今朝の女とは違う怪しげな女性が派手な格好で立っていたが、多分商売女なのだろう。夜中に内線電話で誘ってくる。結局3回ほどかけてきてすっかり寝不足になった。
折悪しく、夜には会食の予定が入っている。案の定、夜の酒席では白酒で酔い潰れた。寝不足のせいなのか、恥ずかしながら序盤で瞬殺ノックアウトである。夜の凍てつく北京の戸外は零下20度くらいだったろうか。私は凍死もせず、何とか転ばずに部屋に戻ったようだった。当然のことだが、翌朝、帯同してくれる担当氏から叱責された。冬の北京では酔い潰れてはいけません、と真剣に諭された。面白くないので、へぇ、何でですか?と言い返すと、「死ぬからです」これまた真剣に言われた。接待側がお客に旅先で死なれたらこんな迷惑なことはなかろう。でも、真剣に怒ってくれることに感謝の意を述べつつ、肝に銘じた。
自身最後の中国訪問はやはり北京で、図書展覧会への出張だった。ちょうどPM2.5の始まり(2012年夏)でほとんど良いことはなかった。2013年から本格的にこの汚染が報道されたが、その前年に北京の大気汚染の危険を察知したのは全てにおいてセンシティブな私だけであった(だが、まったく怪しからぬことに当時周囲は誰ひとりとして関心を持たなかった)。
ある日、夏季北京オリンピックの鳥の巣スタジアムを眺めながらタクシーに乗っていると咳が止まらなくなった。ホテルの部屋に帰ると咳は止まる、外出するとまた咳が出るの繰り返し。展覧会場のボディチェックをかい潜り持ち込んだタバコは日に日に不味く感じられた。矛盾するようだが、空気の良い部屋で吸うタバコは美味しかった。
展覧会最終日、お昼から降り出した土砂降りの雨の中トラックは何十台と列をなし、会場の撤収作業が行われている。それを見下ろすホテルの部屋からは、雷雨に煙る北京の街が霞んで見えた。かつて祖父母と母が暮らし、そのまた祖先が住んだ家々が櫛比する街を稲光が紫色からほんの一瞬金色に照らす。その祖先は最期は肺病を病み倒れたと聞くが、奇しくも子孫の自分もまた咳に苦しんでいる。
古からこの街は空気が悪いのだろうか。やれやれ、明日はまだまだ猛暑の日本に戻るのか、私は少しうんざりした。でも、もう北京に来ることはないだろうなとぼんやり思った。会期中一度も晴れなかったが、翌朝は昨夜の雨で空が洗われたように澄み渡る眩しい青空であった。私の咳も止まり、夏の終わりの花壇は芳しい薫りがさわやかだった。玉蜀黍なのかススキなのか私にはわからない金色の毛のような植物が咲いている。
もろこしや 病みて紫煙を そっと吸い
母も祖父母も、そのまた祖先もこの国との縁は深い、そして自分自身もである。いろいろな人に助けられたからこそ今ここに自分もいる。「顔を上げて胸を張りなさい」村上の小説にはそんな一節があった気もするが、果たして自分は先祖に対し胸を張れるのかはかなり心許なく、どうにも面目ない。
私は最後のタバコの煙を空に向かって吹いてみた。茶色から始まった私のワンダーランドの旅は紫色が青に溶けて終わった。
おしまい
(やました・てるやす 東方書店輸出部)
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