ガイ ホッブス
『楚辭』九歌に於ける大司命と少司命は運命の二神とされているが、どのような神なのであろうか。どういうふうに関係しあい、どんな特徴を持っているのであろうか。二神の内、本稿は大司命を主役としてとらえ、大司命篇を取り上げて、この詩に於けるこの神の表象を考察し明らかにしたい。原詩・書き下し文の他、漢学の国際性の観点から英訳も付す。英訳の詩文形式は、英文学の伝統的な韻文連句を採用して、2句ずつの連句となっている。なお、本稿の詩の英訳はすべて筆者の手による。
そもそも「司命」とはどのようなものか。『晋書』(巻十一)(天文志)には、「西のかた、文昌の近くに、二星を上台と曰い、司命と為し、寿を主る」(「西近文昌二星曰上台、為司命、主寿。」)とある。ここから「司命」は寿命を司る二つの星神として伝承されてきたことが分かる。
次に大司命と少司命の基本的な関係はどのようなものであろうか。鈴木虎雄は「此の篇の本文によれば、大司命は男性、少司命は女性に屬す。此の二篇亦互に相連關して問答體を為すこと[後略]」と記述している(1)。目加田誠(2)と星川清孝(3)はこの男女問答形式に概ね賛同している。また、それぞれの詩は各神による詠いであって、鈴木虎雄は大司命と少司命それぞれの「獨語」(4)、星川清孝は各神の「独白歌唱」(5)、石川三佐男は「獨白詩」(6)とする。大司命・少司命篇の内容とそれぞれの題名との一貫性を考慮すると、こうした問答詩形が合理的と考えるので、それに沿った和文説明と英訳を付した。
以下、大司命篇28句を2句ずつ考察していく。尚、原詩は『楚辭/(漢)王逸章句』(藝文印書館、1969)、書き下し文は前掲の星川清孝『楚辞』を引用する。
「大司命」Greater Fatemaster
(1-2)廣開兮天門、紛吾乘兮玄雲。
広く天門を開き、紛として吾玄雲に乗る。
The Gates of Heaven Open Wide, Wild Black Clouds I Ride
大司命篇の冒頭の場面設定は、天上にあって万物を司る上帝が住む「天門」である(「天門、上帝所居」朱熹撰『楚辭集注』「大司命」)。そこから、「吾」(「吾、謂大司命也」『楚辭/王逸章句』)は黒雲に乗る。英訳では、「天道」の通常の英訳である「The Way of Heaven」を参考に、「天門」を「The Gates of Heaven」とした。尚、この場合の「Heaven」は特定の宗教と関連性のあるものではなく、「地」を離れた、遥かに遠く高いところを示し、またこの詩に於いては「上帝」が居るところとなる。
(3-4)令飄風兮先驅、使凍雨兮灑塵。
飄風をして先駆せしめ、凍雨をして塵に灑がしむ。
Whirlwinds Take the Lead; Clearing Dust, Rainstorms Proceed
つむじ風に先駆けさせて、暴雨(「暴雨為凍雨」『楚辭/王逸章句』)に道を清めさせる(「灑塵、以清道也」『楚辭集注』)。冒頭と合わせて、大司命の力強さが勢い良く描写されている。
(5-6)君迴翔兮以下、踰空桑兮從女。
君迴翔して以って下れば、空桑を踰えて女に従はん。
You Spiral Down, Coming Through; I Cross Kongsang in Search of You
「君」(「少司命をさす」鈴木虎雄『支那文學研究』p.437)は駆け巡りながら下降し、大司命は空桑の山を越えて「女」(「女は汝…少司命をさす」星川清孝『楚辭』p.86)を追っていく。英訳では、「空桑」は山名で固有名詞なので拼音で表記した。
(7-8)紛總總兮九州、何壽夭兮在予。
紛として総総たる九州、何ぞ寿夭の予に在る。
Amidst All Things in These Lands, Why is Life’s Fate in My Hands?
中国の天下の万物である「九州」(星川清孝『楚辞』p.86)に於いて、大司命である「予」(同p.86)が何故人々の寿命を司るのか、と問う。ここに大司命の役割が初めて述べられる。英訳では、「九州」は天下の万物であるので、その広大さを表す「All Things in These Lands」とした。
(9-10)高飛兮安翔、乘清氣兮御陰陽。
高く飛び、安らかに翔り、清気に乗りて陰陽に御す。
Flying High and Peacefully, On Pure Air with Yin & Yang My Sovereignty
高く飛び安らかに翔りながら、万民の生死の命を御する(「御持萬民死生之命也」『楚辭/王逸章句』)。前2句に続き、大司命の寿命(陰陽)を司る役目が紹介される。英訳では、「御」を決定する権利を有する意味の「Sovereignty」とした。
(11-12)吾與君兮齋速、導帝之兮九坑。
吾と君と斉速に、帝を導いて九坑に之かん。
Moving Quickly with You We Glide, Across Jiukang the Creator We Guide
吾と君(「吾は大司命、君は少司命」星川清孝『楚辞』p.87)は速やかに天帝(「帝、天帝也」『楚辭集注』)を九坑の山へ導く。英訳では、「帝」は「天帝」を指すので、天地万物を支配する造物主の意味合いを持つ「Creator」にした。
(13-14)靈衣兮披披、玉佩兮陸離。
霊衣は被被たり、玉佩は陸離たり。
Divine Robes Flutter, Jade Pendants Glitter
大司命は神霊の衣服のすそをひるがえし、美しく輝かしい(「陸離」の意、星川清孝『楚辞』p.87)飾り玉を身に付ける。尚、原詩の「披披」は「ひらく・ひろげる」の意味で、「被被」と同じ(「被与披同」洪興祖『楚辭補注』「大司命」)。
(15-16)壹陰兮壹陽、衆莫知兮余所為。
壱陰、壱陽、衆余が為す所を知る莫し。
Sometimes Yin, Sometimes Yang, Moving; No One Knows it is My Doing
尽きることの無い変化と循環(「変化循環無有窮已也」『楚辭集注』)である一陰一陽の動きが、「余」(即ち大司命、星川清孝『楚辞』p.87)の行いであることは誰も知らない。
(17-18)折疏麻兮瑤華、將以遺兮離居。
疏麻の瑤華を折り、将に以って離れ居るものに遺らんとす。
Picking Divine Hemp Spray, To Give to You So Far Away
「疏麻」(神麻) の「瑤華」(玉華)(『楚辭/王逸章句』)を折って、遠く離れている少司命(鈴木虎雄『支那文學研究』p.438)に贈る。この芳しい花を食べれば長寿を得られる(「此花香、服食可致長寿」『楚辭補注』)。英訳では、「疏麻」を「神麻」の意味を持つ「Divine Hemp」とし、「瑤華」(玉華)は、花を付けた可愛い小枝を意味する「Spray」にした。
(19-20)老冉冉兮既極、不寖近兮愈疏。
老冉冉として既に極まるに、寖く近づかずして愈々疏る。
And When Age Presses to Impose, Whilst Seeming Closer Distance Only Grows
老いは大司命にだんだんと迫ってきているが、少司命には近づかずにかえって遠ざかっているようだ。人間的な老いに対する感覚とも言える。
(21-22)乘龍兮轔轔、高駝兮沖天。
龍に乗りて轔轔と、高く駝せて天に沖し。
Riding the Dragon Carriage as the Wheels Roar, To the Heavens the Dragons Soar
轟く(「轔轔車聲」『楚辭/王逸章句』)龍車に乗って、高く飛び上がる大司命(星川清孝『楚辞』p.87)は天に向かって翔る。
(23-24)結桂枝兮延竚、羌愈思兮愁人。
桂枝を結んで延佇すれど、羌愈々思ひて人をして愁へしむ。
Standing with Cinnamon Sprays in View, Sadness Deepens the More I Long for You
原詩の「竚」は「佇」の異体字。意味は「たたずむ」。天に向かって翔て行った大司命は、肉桂の枝を結び持ってしばらく立ち止まるが、離れてしまった少司命のことを思えば思うほど悲しみが増す。肉桂を持つのは、自分の望みを持ち続けようとするためであり(「猶結桂枝以延望」『楚辭補注』)、その望みとは少司命に再会することであろう。英訳では、「桂枝」に関して、「肉桂の枝」(7)の解釈の合理性に賛同し、また『楚辞』には香草の登場回数が多いことから、「Cinnamon Sprays」とした。
(25-26)愁人兮奈何、願若今兮無虧。
人を愁へしむるを奈何せん。願はくは今の虧くる無きが若くならんことを。
Such Sadness If Only I Could Amend, Wishing Only that Things Don’t End
この悲しみをどうしようかと惑い、今のままの状態が続くことを願う。
(27-28)固人命兮有當、孰離合兮可為。
固より人の命には当たること有り、孰か離合を為す可けん。
From the Start Life is Bound by Fate, No One Can Decide the Meeting or Parting Date
人々は命を受けて生まれる(「人受命而生」『楚辭/王逸章句』)、誰が人生の出会いと別れを自由にできるだろうか。「貴いと賤しきには当たる有り、富と貧しきもの、是れ天禄なり」「貴賤有当富貧者是天禄也」(同上)が示唆するように、離合を定めるのは天、即ち大司命(藤野岩友『楚辭』p.90)である。英訳では、「Date」はある特定の日ではなく、出会いと別れの時を示す。
おわりに
大司命篇には、大司命の生命と運命を司る特徴がはっきり表現されている。例えば、人々の寿命は大司命の定めによること(7-8句)や継続的な変化と循環である一陰一陽を御すること(9-10、15-16句)。しかし、そうした超人的な力がある一方、人間らしい感情も大司命にはあるようだ。例えば、「老い」という人間に起こる現象とそれに対する人間的な感覚が現れる(19-20句)。また、長寿への希望を込めて花を少司命に贈ること(17-18句)、大切な望みを持ち続けようとする心(23-24句)、善き事が終わらずに続いていくように期待する気持ち(25-26句)も人間的な感情である。こうした大司命の超人性と人間性の両面を反映して、最後の2句で、大司命が運命による離合の有り様を人間全般に対して言明するのは、自分自身の命を受け止めるためでもあるといえる。
興味深いのは、第8句に於ける大司命の自分自身の役割に対する懐疑的な問い(「何ぞ寿夭の予に在る」)である。疑問を持つことも極めて人間的な行動といえる。大司命篇では、その疑問を解消するような答えはないが、大司命篇の対詩である少司命篇の最後の句にその返答がみられる。そこでは、大司命の疑問を受け止め、またその疑問を払拭しようとするかのように、少司命は大司命を優しく「荃獨宜兮為民正」(「大司命様、貴方こそが人々の公正を為すに相応しい」)と言う。少司命の答えは大司命を誉めたたえ、天下に偉大なる善意をもたらす為政者の出現をも願っているかのようだ。
【注】
(1)鈴木虎雄『支那文學研究』(京都:弘文堂書房、大正十四年(1925)、p.437)。
(2)目加田誠『詩経・楚辞』(中国古典文学大系、第15巻)(東京:平凡社、1969、p.324-326)。
(3)星川清孝『楚辞』(新釈漢文大系、第34巻)(東京:明治書院、1970、p.83-91)。
(4)前掲:鈴木虎雄『支那文學研究』p.437-438。
(5)前掲:星川清孝『楚辞』p.84。
(6)石川三佐男「『楚辭』九歌の大司命篇と少司命篇の主題について―諸説粉起の原因と本義―」(『東方宗教』第83號、東京:日本道教學會、1994、p.16-32)。
(7)藤野岩友『楚辭』(漢詩大系、第三巻)(東京:集英社、1967、p.90)。
(Guy Hobbs 大阪大学博士後期課程)
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