『津阪東陽『杜律詳解』全釈』評 大橋賢一

投稿者: | 2024年7月16日
『津阪東陽『杜律詳解』全釈』

津阪東陽『杜律詳解』全釈
[上中下巻3冊セット]


二宮俊博 著
出版社:二宮印刷工房
出版年:2023年11月
価格 13,200円

畢生の大著──二宮俊博『津阪東陽『杜律詳解』全釈』

 

 人生をかけてやり遂げたいこと、いわゆるライフワークというものは、誰もがもっているものではあるまい。また、ライフワークをもっていたとしても、必ずしもやり遂げられないこともあるのが人生であろう。
 ここにとりあげる二宮俊博『津阪東陽『杜律詳解』全釈』は、ライフワークと呼ぶのに相応しい、否、ライフワークとしか呼べない研究書である。そして、これは著者の遺著でもある。
 本書は、津阪東陽『杜律詳解』上中下3巻所収の、杜甫の七言律詩138首全てにわたり漢文で記された津阪東陽の解説に、詳細な補注を加えた上で、明解な日本語に訳したものである。上巻の巻頭には、下定雅弘「序」、著者による「はじめに」、石川之褧「『杜律詳解』序」、津阪東陽「詩聖杜文貞公伝」の訳注をおき、以降、杜甫「題張氏隠居」を含む40首を配列する。中巻は、「厳中丞枉駕見過」を含む52首を載せる。下巻には、「秋興八首」以降の46首の詩を載せ、巻末に津阪東陽『寿壙誌銘』、津阪達『杜律詳解』跋、小谷薫『東陽先生杜律詳解』後序の訳注、竹村則行「校正メモ」、二宮幸夫「あとがき」、松浦崇「索引」をおく。なお、収録される詩には全て通し番号が記されており、かつその下には下定雅弘・松原朗編『杜甫全詩訳注』全4冊(講談社学術文庫、2016年)に記された杜甫全詩の通し番号も附されており検索に便利である。なお、この『杜甫全詩訳注』には、第3巻の分担著者として著者も加わっている。
 本書は『二宮俊博 遺稿 津阪東陽『杜律詳解』全釈』(私家版、2020年)を増補改訂したものである。これはもともと、著者が生前勤めていた椙山女学園大学の紀要に、2001年以降14年間かけて連載し続けた16篇の訳注稿がもととなっている。ただ残念なことに、著者は校正途中、病により道半ばで逝去された。『二宮俊博 遺稿 津阪東陽『杜律詳解』全釈』は著者が校正した「江村」(030)までを収めるが、本書は、「江村」以降のものを、著者と大学時代の学友であられた竹村氏が校正作業を務めて成ったものである。本書の印刷・製本には、堂弟の二宮幸夫氏があたられた。二人の強い思いがなければ、本書は成り立っていなかったろう。なお、本書の成立過程については、竹村「校正メモ」、二宮「あとがき」に詳しい。一読、胸が締め付けられる文章である。
 津阪東陽、及び『杜律詳解』については、同書上巻所収の著者による「はじめに」に詳しい。以下、この「はじめに」に基づき、東陽及び『杜律詳解』について簡単に紹介しておこう。
 東陽は、1757年(宝暦7)、伊勢国三重郡平尾村(現四日市市平尾町)に郷士の子として生まれ、20歳の頃、京都に出向き独学で古学をきわめた後、藩校有造館創設に尽力して、その初代督学となった学者であった。その生涯については、津坂治男『生誕250年 津坂東陽の生涯』(竹林館、2007年)にも詳細にまとめられている。
 『杜律詳解』は、明・邵傅『杜工部七言律集解』を底本とし、同書が収める138首(『杜詩詳注』によれば、杜甫の七律は151首ある)に幅広く諸書を参照しながら、東陽が注釈を施したもので、1835年(天保6)に有造館から刊行されたものである。『杜律詳解』は、台湾大通書局の「杜詩叢刊」第4輯(1974年)にも収められており、また国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能である。
 「はじめに」にはまた『杜律詳解』の学術的な価値についても言及されている。例えば、黒川洋一「日本における杜詩」(『杜甫の研究』創文社、1977年)にみえる「その鑑賞のきめ細やかさにおいて、唐土の注釈書にはない独特の味わいを備え」ているという評語や、鄭慶篤編著『杜集書目提要』(斉魯書社、1986年)にみえる「詩末の考辨は、前人の誤謬を駁し、まま新見がある」、また「この本は海外で作られたものだが、援引している注や評はとても豊富で、趙次公・邵宝・胡応麟・仇兆鰲・顧宸・袁枚といった人々の語には、どれもきちんと基づくところがある」という評語などを引くことで、その価値を裏付けている。
 竹村則行「津阪東陽『杜律詳解』に見る清・胡以梅『唐詩貫珠』の襲用──二宮俊博『津阪東陽《杜律詳解》全釈』の追究」(『杜甫研究年報』7号、2024年)が、「筆者は、著者の生涯をかけた『全釈』が中国古典注釈史の伝統を継承し、現代の杜甫研究の新鮮な成果であると評価する」というように、本書は今後、必ずや杜甫の研究を進める上で必見の研究書になることは疑いなかろう。
 竹村論文並びに、本書巻頭の下定「序」の二篇は、書評という体裁こそとってはいないが、本書の価値を充分に解説するものである。また、『日本漢文学研究』16号(二松学舎大学、2021年)には、本書のもととなった『二宮俊博 遺稿 津阪東陽『杜律詳解』全釈』に対する杉下元明氏の書評が掲載されている。それだけに、改めてここに書評を記すのは屋下に屋を架すことになりかねないが、以下、これら3篇にはない観点から本書の特色について私見を記してみたい。
 鄭慶篤編著『杜集書目提要』が、「援引している注や評はとても豊富で、趙次公・邵宝・胡応麟・仇兆鰲・顧宸・袁枚といった人々の語には、どれもきちんと基づくところがある」と指摘しているように、『杜律詳解』にはこれらの杜甫注釈者の評語が多くとられているが、評者は以前に「清・顧宸『辟疆園杜詩註解』について」(『杜甫研究年報』2号、2019年)を記したことがあっただけに、これらのうちとりわけ顧宸注に目を引かれた。著者の注(上巻、34頁注110)によれば、顧宸(1607〜1674)、字は修遠は、清初の江蘇省無錫の文人である。その著『辟疆園杜詩註解』17巻(1663年刊行)は、日本でも1693年(元禄6)に刊行されている。また、顧宸注は、宇都宮遯菴による鼇頭増注本『杜律集解』(1696年刊)及び『杜律集解詳説』(1697年刊)に引用されている。
 著者は東陽が引用する顧宸の注について逐一その出典をたどり注記している。その注釈数は優に200条を越えるもので、東陽が顧宸注を重視していたことを裏付ける。例えば、東陽「詩聖杜文貞公伝」は、杜甫の死去した時期について次のように述べている。

 顧修遠の説を見るに、次のように言う、「公の〈長沙にて李銜を送る〉詩に、〈子と地を南(西)康州に避け、洞庭に相逢ふ十二秋〉とあり、末尾に〈朔雲寒菊離憂を倍す〉という。公は乾元己亥(二年)に同谷に避難し、大暦庚戌(五年)まで実に〈十二秋〉である。公は、この歳に卒した。〈朔雲寒菊〉というのは、きっとこの年の秋の末か冬の初めかであろう。公の卒した月は、比定することができないが、この詩に拠れば、冬に亡くなったに違いない」と。これは、詩から判断していて、最も確実である。

 〈長沙にて李銜を送る〉詩は、本書の最末尾に掲載されている杜詩であり、確かに顧宸はこのような注釈を記している。杜詩本篇においてもほぼ全てにわたり、東陽は顧宸注を踏まえて解釈しているが、興味深いのは、二宮注がほとんどの顧宸注に対して、宇都宮遯菴による鼇頭増注本『杜律集解』及び『杜律集解詳説』にも当該の顧宸注がみえる、と指摘していることである。つまり、二宮注によれば、東陽は直接『辟疆園杜詩註解』から引用したのではなく、鼇頭増注本『杜律集解』あるいは、『杜律集解詳説』から顧宸注を引用した可能性が高いと言えそうだ。
 また、例えば巻頭におかれた詩「題張氏隠居」の「石門斜日到林邶」に附された東陽の「石門或は以て山の名と爲す。其の㵎道と對を爲すを見れは、必しも實に其地を指さず(原文は訓点文)」という評語について、二宮注は「愚謂へらく石門は㵎道と対を為す。必ずしも実に其の地を指さず」という顧宸注を引き、東陽の評語が顧注を踏まえていることを示唆する。先に挙げた、竹村則行「津阪東陽『杜律詳解』に見る清・胡以梅『唐詩貫珠』の襲用」が指摘するように、東陽は『唐詩貫珠』の評語を出典を明らかにすることなく襲用しているが、このことは『唐詩貫珠』にとどまらず、顧宸注についても同様の指摘ができそうである。当初から、東陽の評語がどのように成り立っているのかを解明しようとする意図が、著者にあったかどうかについては、今は確認する術がないが、東陽の注釈態度を明確にする上で、二宮注が大きな役割を果たしていることは間違いないだろう。
 このような、時に無断で引用をする東陽の注釈態度は、現代からすれば不誠実に感じられるかもしれない。ただ、江戸時代においては、むしろ従来の評語を適切に取捨選択できる能力として評価されていたのではなかろうか。現代はとかく独創性が強調される嫌いがあるが、当時は現代と考え方が異なっていることを念頭におきつつ、江戸時代、また古典の注釈を受け入れる姿勢を維持しなくてはならないだろう。
 こうした考察ができるのも、やはり著者が『杜律詳解』に詳細な注釈を附したことによっている。全138首全てに同様の注釈を続けるにあたっては、相当の忍耐力が必要なことであったろう。この努力を結晶を目の当たりにすれば、だれもが自然と頭が下がると思う。
 ところで、顧宸注について、著者は061の詩に附された注16に、

顧宸『註解』に王阮亭の語を引いて…(中略)…。なお、ふつう阮亭と言えば、清朝を代表する詩人として名高い漁洋山人王士禎(一六三四〜一七一一)の号として知られるが、『註解』は康熙二年(一六六三)に刊行されており、この王阮亭は王士禎とは別人であろう。

と記している。ただ、『辟疆園杜詩註解』五言律詩・巻6の巻頭には、「新城王士禛貽上甫」とみえている。「新城」は山東省に位置する王士禎の故郷に該当し、「貽上」はその字であることを踏まえると、顧宸注が王士禎の評語を引用したのは、記述の上では事実と考えられる。この著者の注については、補正していかなくてはならないだろう。
 今後、我々は、この大著を手にしながら杜詩の解読を進めると同時に、生前著者が願って止まなかった補正・補訂作業を進めていくことが、著者に対する何よりの供養となるであろう。

(おおはし・けんいち 北海道教育大学旭川校)

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