瀧本 弘之
龍のことを調べるとき、大方の人が世話になる書物に『吉祥図案解題』というものがある。龍は吉祥(動)物の筆頭に数えられるべきものなので、吉祥物を調べようとして、その関係の書物を調べていくと、しぜんとそういうことになる。
その分野では知る人ぞ知る有名な書で、著者は金沢出身の野崎誠近(「のぶちか」と読むらしい――石川県立図書館)という故人。戦前の著作だが、十五年ほど前に国内で復刻版が出ており、図書館にもあるところにはあるようだ。私がこの書物を購入したのは三十数年前のことだったが、そのときは稀覯本であり、たいへん高価だった(片手ほど)。しかもそれは昭和三年の初版本で、おまけに一部が破損していた線装本だった。帙はなかった。
今でもネットでは出品があるようだが、初版が昭和三年(1928)天津・中国土産公司刊なのを「一九一四年」(大正三年)と誤認している古書店もあって驚く(そんなに古い本じゃない)。再版本は国内で平凡社が手がけ、昭和十五年に出ており、現在は国会図書館でデジタル化され、二冊本である。また平凡社版がY書房から復刻されている。これには原本にあったカラーページがどうなったか……。私は確認していない。平凡社版には、20点ほどカラーの貼り付けがあった。
ちなみに80年代に中国で、また台湾でも翻訳が出たようだが、それ以前に図版だけ抜き出して北京の中国書店が売っていた。もちろん解説もなく、図だけの簡略本で、著者名などどこにもなかった。
実物にどれほど詳細な記述があるかは、本書を手に取るのが一番早い。と言っても公共図書館ではほとんどなく、大学などに限られるだろうが。既述したように都内では、区立図書館で数か所見かけるが、東京以外の方には国会図書館のデジタル版が見やすいであろう。
著者の野崎は、第一頁から「支那研究の必要は今更論ずる迄も無けれども、研究すべき材料にして未だ着手せられざるものは、その多きに勝へざらんとす。吾人支那に在る旣に二十年、日常目前の事々物々一として研究の資料ならざるは無し。而かも其研究は先づ支那人の國民性に向ふを以て本義と爲さヾる可からず。支那は今恰も舊殻を脱して新生に向ふ可く覺醒し、世態萬般一大變革を見んとする秋なり。この混亂せる塲合に在りて其の國民性を知らんとするは極めて至難の業たり」(原文のまま)とその覚悟を述べている。難しい表現だが、この変革の時代にこそ中国の国民性を知らなければいけない、という決意が読み取れる。
吉祥図案という言葉は、野崎が創作したといってもよいようだ。「吉祥」という漢語は古くから仏教伝来などとともに、日本・中国で使われていたようだが、「図案」は日本から明治以降に伝わったらしい(民国はじめに東京美術学校の「図案科」に留学した浙江出身の陳子仏(1896-1962)が持ち帰りそれ以後広まったようだ)。野崎は、「吉祥」と「図案」を組み合わせてこの本に名付けた(この組み合わせが初めてだった)。野崎が『吉祥図案解題』の生みの親たるゆえんである。執筆の動機は、彼が実業家であったことに始まった。日本から中国に輸出品を送り出す際に、彼の地の風俗習慣に合わせなければ、商業的な成功はおぼつかない……こういう信念のもとに、中国に普遍的に通行する吉祥図案(併せて吉祥観念)を解説したのである。と言っても、中国人にとって当たり前のものを彼らが自ら説明する必要もなく、したがって中国には野崎のお手本になる書物もなかった。だからこそ野崎はその難問にぶつかって、日本人向きに中国世界にありふれた図案などの意味を探求したのである。ここに収集されたものは、その後の「吉祥図案」研究の大いなる基礎を固めたといえる。重要なことは彼が学者でなく、学者に匹敵また学者を凌駕するほどの高い見識・知識を兼ね備えた実業家であったことである。その前提として、彼は中国に留学して言葉を自由に操れ、また歴代の四書五経等を読みこなす漢文の教養をもっていた。だからこそ彼の著書の序や跋にしかるべき立場の文化人(後述)が名を連ね、文を綴っているわけだ。
さて、彼の龍についての記述は、どんなものか。
本文を見ていくと、形式的には漢籍の体裁を守っているので、やや分かりにくい。図3に示すように、この本では先に文字があり図はその後ということになっている。したがって、龍などの説明文があって、次に図が来るのだが、文章を機械的に分離できないことが多い。だからある程度まとめた文章と、図を少しずつ散らす形になってしまう。これは漢籍では文字と図をひとつのページに混在させられないという不文律?があるからで、今日の我々から見ると不思議に感じるかもしれない。図2は見開き画面に「蒼龍教子」と「五子登科」が並列されている。「五子登科」の解説はその前のページにあり、「蒼龍教子」の図については後の頁を見なくてはならない。