龍の横顔③ 知られざる篤学の研究・実践者──野崎誠近

投稿者: | 2024年4月15日

瀧本 弘之

 

 龍のことを調べるとき、大方の人が世話になる書物に『吉祥図案解題』というものがある。龍は吉祥(動)物の筆頭に数えられるべきものなので、吉祥物を調べようとして、その関係の書物を調べていくと、しぜんとそういうことになる。
 その分野では知る人ぞ知る有名な書で、著者は金沢出身の野崎誠近(「のぶちか」と読むらしい――石川県立図書館)という故人。戦前の著作だが、十五年ほど前に国内で復刻版が出ており、図書館にもあるところにはあるようだ。私がこの書物を購入したのは三十数年前のことだったが、そのときは稀覯本であり、たいへん高価だった(片手ほど)。しかもそれは昭和三年の初版本で、おまけに一部が破損していた線装本だった。帙はなかった。
 今でもネットでは出品があるようだが、初版が昭和三年(1928)天津・中国土産公司刊なのを「一九一四年」(大正三年)と誤認している古書店もあって驚く(そんなに古い本じゃない)。再版本は国内で平凡社が手がけ、昭和十五年に出ており、現在は国会図書館でデジタル化され、二冊本である。また平凡社版がY書房から復刻されている。これには原本にあったカラーページがどうなったか……。私は確認していない。平凡社版には、20点ほどカラーの貼り付けがあった。

図1 『吉祥図案解題』の巻頭緒言(国会図書館蔵)

 ちなみに80年代に中国で、また台湾でも翻訳が出たようだが、それ以前に図版だけ抜き出して北京の中国書店が売っていた。もちろん解説もなく、図だけの簡略本で、著者名などどこにもなかった。
 実物にどれほど詳細な記述があるかは、本書を手に取るのが一番早い。と言っても公共図書館ではほとんどなく、大学などに限られるだろうが。既述したように都内では、区立図書館で数か所見かけるが、東京以外の方には国会図書館のデジタル版が見やすいであろう。

 著者の野崎は、第一頁から「支那研究の必要は今更論ずる迄も無けれども、研究すべき材料にして未だ着手せられざるものは、その多きに勝へざらんとす。吾人支那に在る旣に二十年、日常目前の事々物々一として研究の資料ならざるは無し。而かも其研究は先づ支那人の國民性に向ふを以て本義と爲さヾる可からず。支那は今恰も舊殻を脱して新生に向ふ可く覺醒し、世態萬般一大變革を見んとする秋なり。この混亂せる塲合に在りて其の國民性を知らんとするは極めて至難の業たり」(原文のまま)とその覚悟を述べている。難しい表現だが、この変革の時代にこそ中国の国民性を知らなければいけない、という決意が読み取れる。
 吉祥図案という言葉は、野崎が創作したといってもよいようだ。「吉祥」という漢語は古くから仏教伝来などとともに、日本・中国で使われていたようだが、「図案」は日本から明治以降に伝わったらしい(民国はじめに東京美術学校の「図案科」に留学した浙江出身の陳子仏(1896-1962)が持ち帰りそれ以後広まったようだ)。野崎は、「吉祥」と「図案」を組み合わせてこの本に名付けた(この組み合わせが初めてだった)。野崎が『吉祥図案解題』の生みの親たるゆえんである。執筆の動機は、彼が実業家であったことに始まった。日本から中国に輸出品を送り出す際に、彼の地の風俗習慣に合わせなければ、商業的な成功はおぼつかない……こういう信念のもとに、中国に普遍的に通行する吉祥図案(併せて吉祥観念)を解説したのである。と言っても、中国人にとって当たり前のものを彼らが自ら説明する必要もなく、したがって中国には野崎のお手本になる書物もなかった。だからこそ野崎はその難問にぶつかって、日本人向きに中国世界にありふれた図案などの意味を探求したのである。ここに収集されたものは、その後の「吉祥図案」研究の大いなる基礎を固めたといえる。重要なことは彼が学者でなく、学者に匹敵また学者を凌駕するほどの高い見識・知識を兼ね備えた実業家であったことである。その前提として、彼は中国に留学して言葉を自由に操れ、また歴代の四書五経等を読みこなす漢文の教養をもっていた。だからこそ彼の著書の序や跋にしかるべき立場の文化人(後述)が名を連ね、文を綴っているわけだ。

図2 『吉祥図案解題』より(国会図書館蔵)

 さて、彼の龍についての記述は、どんなものか。
 本文を見ていくと、形式的には漢籍の体裁を守っているので、やや分かりにくい。図3に示すように、この本では先に文字があり図はその後ということになっている。したがって、龍などの説明文があって、次に図が来るのだが、文章を機械的に分離できないことが多い。だからある程度まとめた文章と、図を少しずつ散らす形になってしまう。これは漢籍では文字と図をひとつのページに混在させられないという不文律?があるからで、今日の我々から見ると不思議に感じるかもしれない。図2は見開き画面に「蒼龍教子」と「五子登科」が並列されている。「五子登科」の解説はその前のページにあり、「蒼龍教子」の図については後の頁を見なくてはならない。

図3 『吉祥図案解題』の龍の解説の一部(同上、以下同)

 次の頁に行くと、見開き全部が文字でうめられている。そしてこの文字部分が次の見開きにも続き、一段落すると続いて図版が羅列される形式なのだ。だから、この形式を理解していないと戸惑う。絵だけで説明がないと思い込む。初めに文字が数ページ連続したのちに、連続する図版がつながる。それを示そう(図3・図4)

図4 龍の図版各種(一部)

 図版はまだあるが、一部のみを掲載し、残りはデジタル資料などで確認していただきたい。
 説明文は、すべて簡略に切り詰めた文語で「大小の龍二頭天に昇る圖」と図柄を説明し、さらに内容を「魚龍門に登れば化して龍となるより、士子殿試に及第するを龍門に跳ると稱し、所謂父望子成龍の古諺の親心を描き表らはしたるものなり。蒼龍は春の龍にして龍は春分天に昇り、秋分に淵に入るとなす。大小二頭は父子二人を寓意す。」とする。次いで、「應用」として「畫稿、建築、家具、什器、文具等に。」と応用すべき個所を示す。画稿は、いわゆる絵にかくもの、「建築、家具、什器、文具」はこうしたものに文様として利用できるという説明だ。その後で、「附記」として、内容説明がある。「龍は神靈の精、四霊の長にして俗には鱗あるを蛟龍、翼あるを應龍、角あるを虯龍、角なきを螭龍……」という調子で二頁以上続くのである。
 そして、以下に一頁に一図の割合で、贔屓、龍生九子、金吾、螭吻、蒲牢、狴犴、饕餮、蚣、睚眦、狻猊、椒図の図が続いている。「龍生九子」とは龍の九匹のこどものことで、贔屓、螭吻、蒲牢、狴犴、饕餮、蚣、睚眦、狻猊、椒図がそれだが(読み方は各人が調べてほしい)金吾も加えることがあるらしい。これ以外にも、龍関連の図版として、三〇図が並んでいる。壮観というべきだろう。
 これらの解説をするだけで一冊の本が出来そうだが、漢字の組版に読み仮名付けだけでも大変だ。現在は、すべてパソコン上に表現できるようになったが、かつては第二水準のフォントは、別のフロッピーに格納されていて、これを読み込んでという時代もあった。隔世の感がある。野崎の時代は昭和初期であり、文選工が手でひとつずつ活字を拾っていたのだから、その労力だけでも気が遠くなりそうだ。原稿自体も手書きで行われていたのだ。それにもまして、本書の特色は一見してすぐ理解できるような、明快な図版が大きく掲載されていることで、これこそそれまでなかった解説書の限界を突破したものだろう。その図版の価値を認めたからこそ、(無断で)図版だけの小型本を1980年代の中国で出版していたのだろう。これを手にしたとき、なぜ何の説明も著者名もないのか大いに戸惑った記憶がある。
 この多数の絵を描いた人物の情報はない。民間画工として腕のいい人物だったろうが、痕跡を残していないのは惜しまれる。

 平凡社の復刻本でまず目立つのは先頭にある「入國問俗」とある段祺瑞の題字だ。言い直せば「入郷問俗」とでもなるか。段祺瑞は中華民国の歴史に登場する非常に名高い政治家だ(安徽軍閥の親玉的な人物とされる)。次いで鄭孝胥の「具徴淹雅」という題字。鄭氏は満洲国の初代国務院総理(首相)。次いで王揖唐(漢奸として処刑された)の序。王氏は日本に学んだが、金沢にいたことがあるので、そこで接触があったかもしれない。次に天津王賢賓竹林(この人は知らない。天津実業界の実力者らしい)と書いた人物で、最後に闞鐸の序。闞鐸は松崎鶴雄や橋川時雄ら日本の文人と交友があった。ここまでが中華民国と満洲国の関係者、次いで日本語で正木直彦、最後に野崎の自序がある。その後に再版に際してという文が、序を寄せた人々の紹介と感謝、最後に恩師たる岡井慎吾への感謝の言葉をもって結んでいる(岡井慎吾は初版で懇切な跋文を寄せていたと記憶する)。筆者が民国の高級文化人や、その精神を継承した満洲国の高級文化人との深い紐帯で結ばれていることが理解できる。また日本の文化人の代表として正木直彦が登場するが、この人は東京美術学校の校長を30年以上にわたって務めた美術考古界の大立者である。その膨大な日記『十三松堂日記』は、美術を超えた歴史資料の価値を持っている。

 21世紀のY社復刻本では、宣伝パンフレット上で著者の経歴を掲載した書物の標題を『中国紳士録』と勝手に変更したため、調査に手間取ってしまった。そんな本はないのだ。正しくは『満洲紳士録』であり、私は同書の第三版を確認したので不足している部分を補強したい。Y社復刻本では、著者の学歴が「早大政経科修」とあったものなどを削除している。その他にもいろいろ抜けているのは、著者が満洲国と深い関係を持っていたことを隠そうとしたのだろうが、これは今時の常識からかけ離れている。存在しない架空の書名をつくるということは、ちょっと有り得ない。
 野崎誠近は『満洲紳士錄』第三版(昭和15年、国会図書館蔵)で、
 「明治三十八年六月渡支陸軍武備學堂總辦馮國璋天津直隸考工廠に留學生として入り支那語及支那事情を硏究後髙島屋飯田合名天津支店義大洋行を經て大正五年九月天津晉信洋行に轉じ其業務を總攬す同十年三月日支合辦中國土産公司を創立總理に就任在職多年其間安徽督辦兼省長王揖唐の顧問典察政府政務委員等たり尙今次事變突發と共に軍特務部に入り次で興亞院華北連絡部に勤務今日に及ぶ……」(原文のまま)と記されている。
 以下、「昭和十四年八月現職に就き爾來日支株主間の斡旋に努む傍ら北支開發會社嘱託東亞經濟懇談會華北本部理事天津共立學校理事天津圖書館評議員佛教同願會顧問中國佛教學院董事等の諸職に就く【特記】「吉祥圖案解題」を著述し天覧を賜はる【趣味】讀書支那事情研究【宗教】曹洞宗【家族】妻品子(明三四)長男光明(大一一外一男【住所】天津宮島街二九ノ一二電二九-〇三五七)」とある。句読点は付いていないのでそのままにした。これ以外には、郷土の人物として石川県立図書館に資料があるようだが、閲覧していない。没年その他は不明だ。

 龍のことを調べるうち、わき道に入って人物紹介になってしまったようだ。その一方で、よく知らなかった謎の人物・野崎の経歴の一端にわずかな光をあてられたようだ。次回は、龍と仙人というテーマで、幅広く図像を追いかけていきたい。

(たきもと・ひろゆき 著述家、中国版画研究家)

掲載記事の無断転載をお断りいたします。

LINEで送る
Pocket