藤井省三著
出版社:東方書店
出版年:2024年4月
価格 2,200円
まえがき
中国は長大な時間と巨大な空間、そして厖大な人々から成り立ちます。
そして日中両国間の交流は、一九七二年の国交回復以後、半世紀余りの間、拡大し続けてきました。二〇二〇年代初頭にコロナ禍による三年ほどの縮小期間が生じたものの、二三年に至り再開しております。中国は政治経済文化の各方面において、常に大きな話題となっておりますが、それでも現代中国人の情念や論理を理解するのは、容易ではありません。
私は魯迅(ルーシュン、ろじん、一八八一~一九三六)から張愛玲(チャン・アイリン、ちょうあいれい、一九二〇~九五)、そして莫言(モーイエン、ばくげん、一九五五~)までの現代中国文学を長らく学んできまして、綺羅星のごとく輝く魅力的な人々―作家とその作品の登場人物―に出会いましたが、彼らの思いを星座図として描こうとすると、キーボードを打つ指がしばしばフリーズしてしまうのです。
そのような時に中国映画を見ると、星座が一目瞭然に浮かび上がることも少なくなく、私は中国訪問時には暇を見ては映画館に出掛け、中国映画の日本公開時には映画祭や上映館に通ってきました。論文執筆中でも新聞・雑誌から映画評依頼を受け、配給会社からパンフレット用解説を頼まれれば、可能なかぎり引き受けてきました。このように今世紀に私が書いてきた映画評など二五本から構成されているのが、本書『21世紀の中国映画』なのです。
中国映画評論家の井上俊彦氏によりますと、コロナ禍以前の二〇一九年には興行収入が「642億元、日本円にすると約1兆円を記録。2011年に日本に並びかけた中国の映画市場は、すでに日本の4倍の市場規模に成長して」おり、コロナ禍中の二〇二一年だけでも「国産映画は740部」と大量製作されているとのことです(「2019年の中国映画を振り返る」「2021年の中国映画事情」共に中国映画ファンのメーリングリストで二〇二〇年一月および翌年一月に発表)。
急速拡大してきた中国映画市場において、本書収録の二十数作は、厖大な氷山の一角にすぎません。それでもこれら名作の数々は、同時代中国の人々の情念と論理を夜空に展開する星座の如く、私たちの眼前に表してくれることでしょう。
本書は七つの視点から21世紀の中国映画に迫ります。
「第一章 プロローグ――中華民国の終わりと人民共和国の始まり」では、まずは陳凱歌(チェン・カイコー、ちんがいか、一九五二~)監督の代表作とされる『さらば、わが愛/覇王別姫』を取り上げます。同作は一九九三年の製作ですが、二〇二三年七月に4K版としてカムバックしました。北京京劇界の人々の中華民国から中華人民共和国までの愛と憎、そして経済的・政治的苦難の歴史を描く作品です。
続けて二一世紀初頭に製作された四作を通覧しながら、文化大革命(一九六六~七六)収束から天安門事件(一九八九)、その後の高度経済成長の明暗に至るまでを概観します。
「第二章 天安門事件から暗黒の不動産開発まで」では鬼才の監督婁燁(ロウ・イエ、ろうよう、一九六五~)の『天安門、恋人たち』を通して、ヒロインの愛情多角関係と天安門事件という政治的大事件との関わりを考察します。同じく婁燁監督『シャドウプレイ』は大手不動産開発会社の中国恒大集団の経営危機を予言するようなミステリアスな物語です。続けて〝黒色電影(フィルム・ノワール)〟『鵞鳥湖の夜』(刁亦男監督)では〝城中村〟すなわち大都武漢市中の旧農村部スラム街を舞台として展開する〝黒社会〟の裏切りと情愛を考察します。
第三章はジャ・ジャンクー(賈樟柯、かしょうか、一九七〇~)監督特集。『青の稲妻』『世界』『長江哀歌』『四川のうた』『罪の手ざわり』『帰れない二人』の六作による中国〝底層叙述〟を通して、貧困層や没落中産階級の悲哀と希望を熟考しましょう。
「第四章 改革開放経済の明暗」は高度経済成長に伴う映画館の興廃、前衛詩人の没落、国営企業労働者たちの家族愛と友情を描く名作を紹介します。また秦の始皇帝映画の中でも特に著名な張芸謀(チャン・イーモウ、ちょうげいぼう、一九五〇~)監督『英雄』のイデオロギー問題、さらには清朝紫禁城の〝大奥〟を描いたテレビ大河ドラマの傑作が抱える女性問題も議論します。
硬い話題の後には、癒やし系の傑作映画を取り上げて江南水郷の古都にご案内しましょう。
第五章では〝反右派〟闘争(一九五七)から文化大革命(一九六六~七六)の傷痕を描く中国と日本のドキュメンタリー映画三作をご紹介します。
第六章は日中戦争の記憶を描く戦争映画二作を考察した後、現代シンガポールに飛んで「病める家」について考えましょう。
第七章「エピローグ」では〝小さき麦〟を植える農民の愛の詩を紹介し、満映の大スター李香蘭こと山口淑子(一九二〇~二〇一四)のアイデンティティに思いを馳せます。
本書が読者各位の良き現代中国映画ガイドとなることを願っております。
なお前世紀の中国映画に関しては、拙著『中国映画 百年を描く、百年を読む』(岩波書店、二〇〇二年)をご参照ください。
本書の人名・地名のカタカナ表記は、中国語研究者の池田巧氏が監修をされ、中国文学研究者・批評家の福嶋亮大氏が作成された「中国語音節表記ガイドライン〔メディア用〕Ver.1」を基準としましたが、「ジャ・ジャンクー(賈樟柯)」など広く通用しているものは例外としております。
藤井省三
二〇二四年春 東京多摩市にて