【新墨子論1】墨子と工――書家の源流を求めて

投稿者: | 2024年3月15日

松宮 貴之

 中国思想史に於いて、儒学がその中心潮流として、君臨してきた時代は長い。但し、戦国期に於いて儒墨と並称され、後に姿を消した墨家の淵源となる思想の意義をここでは検討したい。
 墨子は、従来「工人集団」から生じたとされるが、ではそもそもその工人とは古代、如何なる階層だったのか。そこから稿を起こすことにしよう。

■原初の工の役割

 『詩経』に於ける雅の諸篇は「夏」の仮借字による附名で、基本的に周王室や諸侯の宗廟や社で、巫によって歌舞された宗教仮面舞踊詩を起源とし、その目的は神霊や祖霊を讃え祀ることによって、それらに佑護を希求することにあったと言われている(家井眞説、『『詩經』の原義的研究』、研文出版、2004年)

『詩経』《小雅》《谷風之什》《楚茨》
 我孔熯矣、式礼莫愆。
 工祝致告、徂賚孝孫。
 苾芬孝祀、神嗜飲食。
 卜爾百福、如幾如式。
 既齊既稷、既匡既敕。
 永錫爾極、時萬時億。
 (大意)
 私、孝孫は、祭祀に尽くす。そして、祭礼の手順に誤りはない。工・祝は、お告げを祭主にもたらし、祖霊は孝孫に言葉を与えてくださる。その祖霊の意を伝える、工・祝のことばは、芳しく香る。祖霊の祭りに祖霊も飲食を喜ばれ、多くの福を与えてくださる。祭祀は法に合い、制度に合い、祖霊を敬い、祭祀の行為はすばやく、ただしく、整う。祖霊が長くあなたに福を賜うこと、限りない。

 ここに「工祝」とある。「工」も「祝」も巫祝のこと。神に仕える神官、高官である。甲骨文で工は「巫」に通ず。巫は工の略体を組み合わせたかたちで、後代には、呪術や祭祀に関連して用いられ、字源は儀礼用具と推定される。
 落合淳思氏に拠れば、甲骨文に於ける「工」についての用例は、職人を意味し、鑿の形からの引伸義だろうとされ、更に王に仕える職人集団は、多工や百工と称されると述べられている。
 また甲骨文に於いて、「工」の付く熟語に「工典」がある。この語については 、五祀周祭に先立って行われる儀礼で、祭祀儀礼を記した簡牘を作って祖先神に報告することだろうと『甲骨文字辞典』(朋友書店、2016年)では述べている。具体的には、「典」は竹簡の束である「冊」を両手で捧げる様子なので、祭祀の予定表を祖先神に捧げる儀礼であり、「工」については、鑿の象形なので、「冊を作ること」と落合氏は考えられている。
 これらから推せば、竹簡を作ることは、工(職人)の一つの役割であり祭祀の一環でもあったと考えられる。総じて、殷代の原初的な「工」の観念は、祭祀に纏わる工人であり、また巫祝の役割にあったと推察できる。

郭沫若 主編『甲骨文合集』中華書局、1983年より

■金文の百工と奴隷制

 さて、工の観念は、西周期に変化する。
 例えば、西周後期の伊では「王、令尹封をよびて伊に策命せしむ。併せて、康宮の王の臣妾・百工を官司せよ」とあり、「百工」が奴隷身分の「臣妾」と同様に扱われていることから、「百工」とは同じく奴隷身分であって、康宮と呼ばれる先王の廟に属する徒隷であろうと白川静は考えた。
 これに対して落合氏は、西周金文に見える臣妾は農奴身分なので、百工は「世襲の専門職人で移住や転職の自由がない」という程度だと考えられるが、もっとも、工業職人に関する詳しい記述はないので、確実な証明は現状では難しいとされる。

■墨子工人論

 さて、墨子をもと工人集団と考えたのが、渡辺卓であるとするならば、それを継いだ上に墨刑を受けた徒役者としたのは、白川静である。
 先ず渡辺は、

このように墨子は儒家に学びながらも独自な主張をうちだすに至ったが、この超克はなぜ可能であったのか。それは墨子が工匠の出身だったからであろう。当代の諸種工人の多くは官府や貴族に隷属し、城邑のなかの下級街に居住を指定され、一族ことごとくが世業に従事していた。彼らの技術は出土品などに見るように高い水準に達していたにもかかわらず、つねに特定の官吏に統轄され、創意や主体性を無視され、所有者の便宜によっては他国へ集団をなして贈与されることもあった。かく工人階層は居住・職業選択・創造などの自由を奪われ、永きにわたり圧迫され、商人とともに農民より下位にあるものとして蔑視されつづけてきた。したがって工人層の底流には冷遇にたいする不満が渦まき、しばしば反抗が突発した。(宇野精一 責任編集『講座東洋思想4 中国思想Ⅲ 墨家法家論理思想』東京大学出版会、1967年)

と述べ、さらに白川は、

墨子の学が、このような制作者の集団から起こったものであることは、『墨子』七十一篇、いま存する五十三篇の内容からも、容易に推察することができる。『墨子』の記述には、一般に機械・兵器の制作にふれるものが多く、…
また墨子の教説中には、宮室や舟車器具、あるいは規矩や運鈞(ろくろ)などを例にするものが多い。(白川静『孔子伝』中公文庫、1991年)

と述べている。
 以上の説を肯定する立場に立って、さらに墨子の仕事の内実を見ていきたい。

■墨子の仕事と青銅の彫琢論

 『墨子』の中で、青銅器、金石に関する語として「琢」と「鏤」が現れる。この「琢」と「鏤」は、『説文』では「彫は琢文なり」とあり、「琢」にきざむ意があり、「鏤」は、「剛鐡なり。以て刻鏤すべし」とあって、紋様を施した鉄の意がある、と説明されている。
 『墨子』兼愛下篇の中で、先王の書として、

書於竹帛、鏤於金石、琢於槃盂、傳遺後世子孫者知之。
(竹帛に書し、金石にきざみ、槃や盂(青銅器)にきざみ、後世の子孫に伝え知らしむ。)

とあり、「鏤」は辞過篇に

女工作文采、男工作刻鏤、以為身服。
(女工は、綾模様の反物を織り、男工は彫刻したり、金に鏤んだりするが、君主はその結晶を一人で身に付ける。)

とある。このように、工人の仕事は、金工一般だけでなく、文字を青銅器や石に刻む仕事であったことが、『墨子』の記述や『説文』の「琢」「鏤」の字義から分かる。

 ところで、これらの青銅器に「琢」「鏤」を施して鋳込まれた金文が、いかなる工程で作られたか。このテーマについて最新の知見を提出されているのは、山本堯氏を中心とする研究者たちに他ならない。
 先ず大まかに言えば、青銅器は外型と内型(中子)を組合せ、その隙間に溶解した青銅を流し込んで作られる。金文部分は、筆で反転文字を書き起こし、その反転文字に沿って泥土で盛り上げた文字プレート(泥漿プレート法)を内型に填め込んでから、全体に青銅を注湯する、とする説を提出している。

文字プレート(山本堯氏提供)

 『墨子』にある「鏤」「琢」には、さまざまな方策があったと考えるべきだろうが、複数人による、このような複雑な工程などが含まれていることに留意すべきであろう。
 また、昭襄王三十七年青銅戈の内の部分には「卅七年、上郡守の慶の造、桼黍工の、丞の秦、工の城旦の貴」と記されている。卅七年は昭襄王の三七(前二七〇)年で、慶は上郡の郡守、桼黍工とは漆垣県の工師(鋳造工房の長)のことで、はその職にあった。城旦とは辺境において築城を課せられる受刑者であり、当時の秦では受刑者も兵器の製造にあたっていたことが分かる。
 白川静は、受刑者と工人について、

童、妾とは、墨の受刑者である。百工も起源的にはそのような受刑者が多く、神の徒隷とされたものである。百工とは、器物の制作者であり、生産者を言う。…(白川静『孔子伝』中公文庫、1991年)

と述べるが、先の『詩経』でみたように、工の中には巫祝としての指導的な立場と、神への犠牲として苦役に服する奴隷的な立場があったものと推察できる。『墨子』においては神に奉仕する宗教者(天志篇)と天罰の償い(明鬼篇)として労役に携わるものに分化されており、指導者は宗教的な階層(上層部)であったろうし、労役に携わるものは奴隷として扱われていた。
 例えば『墨子』尚賢下篇に

古者聖王既審尚賢欲以為政、故書之竹帛、琢之槃盂、傳以遺後世子孫。於先王之書呂刑之書然、王曰『於!來!有國有土、告女訟刑、在今而安百姓、女何擇言人、何敬不刑、何度不及。』能擇人而敬為刑、堯、舜、禹、湯、文、武之道可及也。是何也?則以尚賢及之、於先王之書豎年之言然。 曰『晞夫聖、武、知人,以屏輔而身。』此言先王之治天下也、必選択賢者以為其群属輔佐。
(古代の聖王は賢者を優遇することを良く理解していて、それにより政治を行うことを願い、それでこのありさまを竹簡や帛布に書き残し、槃盂に刻み、伝えて後世の子孫に残した。先の時代の王の書、『呂刑』の書にあってもそのようであって、王が言うには、『ああ、来たれ。国土や領土を持つ諸侯、お前たちに訴訟と刑罰の決まりを告げよう。』と。今、この時にあって百姓の民生を安定させるには、お前たちは何を選んで人々に言うのか、何を敬うことが刑ではないのか、何かを考慮するが、なお不足とするのか。適切に人を選んで敬って刑を行えば、堯王、舜王、禹王、湯王、文王、武王の政道に及ぶことが出来よう。これはどういうことだろうか。それは、賢者を優遇することで古代の聖王の政道に匹敵し、先の時代の王の書、『豎年』に載る言葉においてそうであるように、『かの聖人、武勇、智人の士を見出し、その人をもってお前の身の助けとせよ。』と。これは、先の時代の王が天下を治めるには、必ず賢者を選択し臣下や補佐をさせたことを言っているのだ。)

と出土物(青銅器の金文等)と先王言説をすり合わせた解説があり、類似した文言が『墨子』上には散見される。
 つまり、上記の『墨子』尚賢下篇引用から、木簡や金石、そして青銅器の銘文が、先王の書の思想基盤とされており、経書に於ける根源的な中国の歴史認識が隠されていることが分かる。
 また、神の罪人として科される「刑(罰)」を根幹として、道徳や倫理に展開した蓋然性についてもここで触れておきたい。天罰としての労働(神への犠牲)でもあった青銅器の製作を通じて、罰の緩和論、秩序化として「道徳」が生じたのではなかろうか。

■話し手と書き手と

 さて、松丸道雄氏は、甲骨刻辞はいわゆる貞人たちによって刻成されたのではなく、貞人とは別個に存在した契刻の専門家によって、作られたものと推測され、甲骨文に塗り込まれた朱色や茶褐色の塗料は、契刻の練習をするものが、お手本の筆画を明瞭にする目的で行ったと出説されている。甲骨文の書美には、干支表刻辞や四方風刻辞、家譜刻辞等の法刻(手本)があって、いまの書家のような習字の練習をしていたルーツを明らかにしようとされている。
 ここで重要なのは、古代、話し手と書き手は、違う集団が担っていたことであろう。そしてそれは、いわば職人的な存在、「工」のカテゴリーであり、先に見た甲骨文の「工典」の内容とも重なる可能性が高い。そういう神に仕える「工(書字)」と「祝(口頭)」の部隊がいたのではなかろうか。
 例えば、西周中期の冊命形式金文になると、「内史」「内史尹」「作冊尹」等と刻されており、高島敏夫氏によると、「内史」「内史尹」は王命を記した冊書を朗誦する任務を司ったものと、その長官。「作冊尹」は、冊書作成を司る長官と解されている。高島氏の述べる、かれらが共同任務であったかという問題はさておき、もともと職掌が分化されていたのだろうし、更に、作業の流れからも明瞭なように木簡に書したのは、発話者自身でなく戦国期には、「刀筆の吏」と呼ばれた賤吏、下級役人であった。
 因みに高野義弘氏によると、殷代で甲骨文の史に書記官としての職掌を読み取ることは難しく、読み取れるのは早くとも西周半ば以降とされ、佐藤信弥氏も近著で史の原義の再考の余地を指摘されている。ともあれそれが、司馬遷のような史官に春秋期を経て統合されるのだろうが、その古代の工史二分の構造は、書道史を包む骨格構造として存続し、工のカテゴリーの文化として、やや日陰(工・罰思想・主体性の問題)で継承されてきたと考えるべきであろう。
 つまり、論語にしろ、諸子百家にしろ、「曰く」の当事者である発話者、話し手と書き手は違う役割であり、話し手が貴く、書き手は影武者というように、主体性の有無によって、ヒエラルキー化されていたのではなかろうか。そして特に周以後、身分を落とした無名の賤民が、その書き手を務めていたと考えられる。
 総じて墨書行為とは、罰としての「工」の過程に過ぎず、その結果として物(金石や金文)が生み出されたのであろう。
 恐らくは、下書きするものと、清書するものとがいたのであろうが、ゆくゆくはその下書き、つまり草稿に価値が見出されていくのが、書道史の趨勢でもある点にも言及しておきたい。そしてその書を担う立場にあるものは、後の祐筆、筆録者たる書家がそうであったように文字が分かる程度のやや知的な工人、加工者であり、それが書人の主要なルーツと推せるのではなかろうか。
 やはり、書は元々、言語活動とは違う領域の触覚的(工的)精神活動からスタートし、後に言葉と合流し、その触(工)の世界に言葉を逆に取り込んでいったのであろう。例えば王羲之の黄庭経が象徴するように、書の工人達は写本、つまりお手本を模倣(触)するのが仕事であり、それは「臨書」という工(触)の名に変わり、書人達に継承されていった。
 また想像を逞しくすれば、巫祝は当時、系と(サイ)系の役割、象徴的に言えば「(左右)(字中のに注意されたし)、つまり前者が冊等の物作り、後者が発話者(精神)のように分離され、後に立場(力関係)を入れ替えながら「墨」と「儒」の思想に漂流したものと思われるのである。

(まつみや・たかゆき 国際日本文化研究センター共同研究員)

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