中国同時代文学翻訳と私

投稿者: | 2024年2月15日

大久保 洋子

 

 何が何でも自分が日本に紹介しなければならない、と思えるような作品に出会うことはさほど多くない。そんな作品にめぐり会い、自分の訳を本の形にすることができたら、それは訳者にとって生涯の幸福と言えるだろう。

 コロナ禍でリモートワーク2年目の2021年夏、右手がマウスを持った形に固まる症状により、整体師からパソコン禁止令を出された。やむなく横になって、その頃翻訳を打診されていた若手作家の小説集を読んだ。冒頭の一篇からすでに魅力を感じ、収録作品9篇のうち3篇を読んだところで、あまりの才能に飛び起きた。頁を繰る手が止まらない。中国の伝統文化が現代の感覚の中に生きている。全篇が老成した人生観で貫かれ、清新なイメージに時折、茶目っ気が覗く。中国にこんな作家がいたとは。見慣れぬ名前を検索し、近年登場したばかりで文壇を沸かせた作家だと知った。続く6篇も夢中で読んだが、その時点ですでに、絶対に自分が訳すと決めていた。これが陳春成『夜の潜水艦』(1)との出会いだ。

 一般読者に向けて中国文学を翻訳するようになって9年になる。初めて書籍に収録されたのは郁達夫「還郷記」と豊子愷「おたまじゃくし」だった(2)。同時代文学で初めて訳したのは湖北省出身の作家・陳応松の中編小説《太平狗》で、「太平――神農架の犬の物語」という邦題で『中国現代文学』16号に発表した(3)。いずれも流通ベースに乗る刊行物で、自分の訳文が活字になることには感慨を覚えたが、内実は報酬どころか持ち出しで、これがデビューというような華々しい認識はなかった。

 翻訳に興味を抱いたのは学生時代に遡る。大学の中国語学習サークルの課題で朱自清の「背影」を訳読していたある夜半のことだ。辞書を引き、文法項目を調べ、構文を読み取っていくうちに、文字の羅列の中に秘められた意味が、作者の思考が浮かび上がってくる。それを適切な日本語にする作業をたまらなく楽しく感じ、一生続けていきたいと思った。夢ともいえない漠然とした願いを持ったものの、どうすればそれが仕事になるのかわからず、卒業後はさまざまな分野で働いた。中国語に関係のない仕事もした。北京での大学院留学中からアルバイトでニュース・産業翻訳を始め、帰国後も在宅で産業翻訳の仕事を続けた。文芸翻訳には憧れを持っていたが、そこに至る道筋は見当もつかなかった。のちに中国現代文学翻訳会に参加し、先述の《太平狗》を翻訳したことが大きな一歩となった。

 報酬をいただいて文芸翻訳をするようになったのは、現代中華SF短篇集『時のきざはし』(4)に声をかけていただいたことがきっかけだ。これ以降、名実ともに「仕事」として文芸翻訳をするようになった。

 文芸翻訳は産業翻訳に比べて自由度が高く、訳者の主観で訳文を左右できるように思われがちだが、実際にはそんなことはない。作者の書いた文脈に従い、その言葉の意味を読み取り、適切な日本語で表現することにおいて、両者に本質的な違いはないと私は考える。作者が書いていないことは訳してはならないし、書いてあることは作者の声のままに訳さなければならない。

 ただ、その声を読み取って日本語にする際に、産業翻訳にはない、文芸翻訳ならではの難しさ、面白さはたしかにある。翻訳者としてはまだまだ未熟だが、これまでの経験のいくつかを振り返りながら、中国同時代文学翻訳について考えてみたい。

■訳文の文体選び

 個人的見解だが、中国同時代文学の文体は、1970年代生まれを境にして、それ以前と以後で大きく異なっているように思う。特に80年代以降に生まれた作家の文章は論理的で意味が取りやすいことが多く、難解な表現はさほど見られない。日本語にも訳しやすい。新時期以後の言語教育の影響のほかに、外国の文学・文化コンテンツの翻訳・輸入が増加し、若者が成長過程でこれらを多く目にするようになったことが要因だろうか。中国語の規範化・平準化と、文学作品の表現様式の問題は関連しているように思う。50、60年代生まれの作家の文体は、個性が強く、慣用表現や俗語、ことわざ、歇後語(謎かけ言葉)など、中国語独自の表現を駆使して書かれており、容易に訳すことができない部分に行き当たることがしばしばだ。文体そのものが文化を担い、彼らが通過してきた時代の重さを表しているように思える。まさに「重厚」という表現がふさわしい。だがこの評価は、半面、文学に軽さや読みやすさを求める読者を遠ざける要因にもなってきた。

 これまでは、そうした中国文学につきもののイメージを覆したい思いがあり、読みやすくリズムのある文章を心がけて翻訳をおこなってきた。だが近頃は、読みやすいがために捨象される何かがあるのではないか、ごつごつとした手触りの、引っかかる部分のある訳文でこそ、伝わるものがあるのではないか、とも考えるようになった。もちろん、どのような文体で訳すかは、翻訳者が勝手に決められるものではなく、原文に即していなければならない。どのような文体であっても、原文の特徴や作品の良さを伝える文章を自在に扱えるようになることは、私の目標の一つである。

 訳文の文体に悩んだ作品の一つが、SF作家・宝樹の中編小説「時の祝福」(5)だ。これは、「祝福」をはじめとする魯迅の小説を下敷きに、H・G・ウェルズのSF小説「タイムマシン」を絡めて書かれた作品である。一読するとわかるように、この小説の出だしは魯迅「祝福」の冒頭そのままである。読み始めるなり、作者の遊び心に思わず笑いが漏れてしまう。だが物語は進むにつれて予想外の展開を見せる。時間SFの名手・宝樹ならではの技巧が光る作品なのだが、原作を読んで感じたのは、「これを自分が訳していいのか」という不安だった。「祝福」はこれまで錚々たる中国現代文学者によって翻訳されてきた、いわば中国現代文学の“経典”である。二次創作とはいえ、「僕」と祥林嫂の物語に「酒楼にて」の人物である呂緯甫が登場したり、呂緯甫が若き日の祥林嫂と恋仲になったり、「僕」と呂緯甫の会話に孔乙己が顔を覗かせたりするような話の展開は、専門家から見れば悪ふざけで、下手をすれば失笑されて終わってしまうのではないか。まじめに訳せば訳すほど、文章は説得力の欠けた空々しいものになった。訳者である自分の中で、魯迅の作品世界と宝樹の世界がつながらないのである。

 アイデアが浮かんだのは、祥林嫂を見殺しにした呂緯甫の告白を訳していた時だった。どこかで見たような二人の恋と破局の顛末を訳しているうちに、文体が講談調になっていったのである。

 「時の祝福」は、中国近代における知識人の問題をえぐり取った魯迅の作品を本歌とし、SF的な仕掛けによって、そのメッセージを全人類に共通する現代的な問題へと書き換え、より強いメッセージとして提示した作品である。魯迅の文章から始まり、SF物語を経て、再び魯迅の文章へ戻ってゆく。作品自体が魯迅の世界という枠に入っているのだ。ならばいっそのこと、枠を感じさせる作り物らしい文体にしてはどうか。考えを決めてからは順調に訳が進んだ。大正時代の文学青年の語りをイメージして、あえて時代がかった言葉を遣った。自分ではかなり冒険をしたつもりで、お叱りを受けることを覚悟していたが、幸い訳文に対する批判はまだ頂戴していない。

■長編の壁

 文芸翻訳の仕事はありがたいことに次第に増えていったが、時間をかけて修正を重ねる癖がついていた上に、翻訳会で訳稿が真っ赤になるほどのダメ出しをくらうことに慣れており、他人からコメントをもらえなければ不安になる学生のような意識が染みついていた。

 それが仇になったのは、初めて訳した長編小説、郝景芳『流浪蒼穹』(6)である。まず長い。共訳で、私が担当させていただいたのは全体の3分の1ほどだったが、それでも一般的な単行本1冊分の12万字だ。3万字の中編小説にして4篇分だが、3万字を4篇訳すのと12万字を1篇訳すのとでは、まったく勝手が違った。短編や中編であれば、今訳している文章が作品全体の中でどのような役割を果たしているのかをつかみやすく、その上で訳を考えることができる。文体にしても訳語にしても、前後の統一を図りやすい。だが長編ではそれが難しく、終始、自分の居場所が見えないまま、霧の中を手探りで進むような感覚があった。

 さらに、文体が難解そのものだった。芸術的ともいえる。ある程度スピードに乗って訳せる部分もあったが、描写になると意表を突く修辞や造語が多く、古典に登場するような古めかしい形容詞が登場するかと思えば、文法規則を飛び越えた言葉の組み合わせもある。下訳に時間がかかり、推敲が不十分なまま初校に突入し、苦心惨憺して校了を迎えた。訳文は繊細にして重厚と評価していただいたが、これはそのまま作者の文体への称賛と言っていい。仕事の出来について自分なりに納得はしたものの、この経験で、それまでのやり方の限界を痛感した。

 共訳だったのは幸いで、一人でこの本を担っているわけではないという思いに救われ、自分の仕事を待っている人がいる事実に励まされた。共訳の及川茜氏や、編集者、校閲者のお仕事を間近で拝見し、思い切りや洞察力、効率の良さに感銘を受けて我が身を顧みた。他人にダメ出ししてもらって安心する性質も改める必要があった。もちろん訳文には責任を負うのだが、それまではアンソロジーの複数の訳者の一人として、どこか気楽さがあった。ひとつの作品の訳者として読者の前に立つという自覚や覚悟が確かなものになったのは、『流浪蒼穹』が最初だったように思う。

 とある作家のエッセイで、マラソンは走っている最中は苦しくてやめたくて仕方がないが、終わってみると次々と改善点が浮かび、また走りたくなる、という趣旨の文章を読んだことがある。『流浪蒼穹』は私にとってまさにそのような仕事で、終わった今となっては、もっとうまく進められたのではないかという気がしてならない。あの文章ともう一度格闘してみたい、次こそはと思うのだ。

 最初のアウトプットから完成形に近い訳文を出せるようになろう、と決めたものの、いざ実践するとなると難しい。陳春成『夜の潜水艦』でも、一気呵成に下訳を仕上げてから修正を繰り返すという元の癖が改まらず、編集者には大変迷惑をかけた。

 少しずつ目標に近づいてきたのは最近のことである。下訳の段階で手順をいくつか追加して、早期に訳文を確定できるようにした。スピードも上がった。今でもゲラに赤字は多いが、以前に比べて減ってきてはいる。

■中国同時代文学翻訳における課題

 元々、中華民国期の文学、特に郁達夫という作家を中心に研究をしてきたが、翻訳の仕事に関しては専門分野にこだわらず、優れた作品、日本で必ず紹介すべきと思う作品を訳すことにしている。これまで、純文学からSF、ファンタジー、ミステリと、様々なジャンルの作品を翻訳してきたのは、一つには翻訳が好きで、あらゆる優れた文学作品を訳してみたい気持ちがあるためだ。多くの作家、作品に挑戦することで、翻訳者として力を伸ばし続けたい。

 もう一つには、中国同時代文学の読者をもっと増やしたいからだ。日本における中国同時代文学、とりわけ純文学領域の翻訳は、研究者を中心とした大きな蓄積がある。莫言や余華、閻連科、残雪といった世界的に著名な作家はすでに多くの作品が邦訳刊行されており、『季刊中国現代小説』や『火鍋子』、『灯火』といった翻訳誌では、数々の中・短編が訳されてきた(7)。だがこれらの成果の中には、現在では入手しづらくなってしまったものもある。大学図書館に蔵書があっても、ふつう、一般読者の目には触れない。中国同時代文学をより多くの方に身近に感じてもらうために、作り手の側からできることがあるのではないだろうか。

 近年は、日本における華文SFや華文ミステリの躍進に牽引される形で、邦訳の機会が少なかった若手作家にも目が向けられるようになってきた。こうした中で、自分の訳を読んで中国文学に興味を持ってくれた読者の方に、別のジャンルや作家の作品も手に取ってもらえたら、中国同時代文学の普及に少しは貢献できるかもしれない。様々なジャンルの作品を訳しているのは、そんな単純で淡い期待を持っているからでもある。

 個人としては幸いなことに仕事の依頼が続いているが、同時に業界を取り巻く課題にも直面している。中国文学翻訳者の数は英米文学に比べればわずかで、そのため一部の翻訳者は常にオーバーワークの状態だ。私自身を含め、翻訳報酬だけでは生活を維持できず、本業を別に持ち、その合間に翻訳をおこなっている人が少なくない。人材と仕事量と報酬のバランスがとれていないのだが、人材に関して言えば、特に、長編小説を翻訳できる力と、訳すべき作品を選ぶ力の両方が求められていることを強く感じている。

 文芸翻訳を志す中国語学習者の中には、かつての私のように目標への道筋が見えず、五里霧中という人も少なくないだろう。一方、文芸翻訳者を求めている出版社からは、そうした人の存在が見えにくい。学習者が翻訳技術を身につけ、訳文を発表できるような場があれば、両者を結ぶ一つのきっかけになるのではないだろうか。現在、日本における中国同時代文学専門の翻訳誌は『中国現代文学』と『小説導熱体』(8)の二つがある。前者には私も参加しており、大いに鍛えられている。翻訳論は世にあふれているが、自分を鍛え、仕事に結びつけるために最も肝要なのは、一行でも多く自分で訳し、厳しいチェックを受け、発表することだと思う。学習者には、それができる場所を積極的に探すことを勧めたい。

 文芸翻訳には、翻訳をする者だけでなく、その国の文学シーンに通じた優れた紹介者も必要だ。しばしば誤解されるのだが、私がこれまで訳した作品は、『中国現代文学』に掲載されたものを除き、すべてアンソロジーの編者や出版社が選んだもので、私が版元に持ち込んだものではない。これらの作品が日本語で読めるのは、訳者だけではなく、編者や版元の功労あってのことだ。作品が邦訳されるにあたって、こうした紹介者が担う役割は大きい。むろん、商業である以上、採算のとれる作品が優先される面は当然あるが、新しい作家が常に求められてもいる。私自身も、多くの新しい書き手の作品を読み、彼らの文学の価値を伝えていけるよう、努力を重ねたい。

 翻訳という仕事は生活の糧とするには足りず、研究業績にも数えられない。翻訳者の報酬をもっと引き上げるべきだ、業績にカウントすべきだ、という声はかねてから聞く。今後、業界をあげて解決していかなければならない大きな課題だろう。私自身にとって翻訳は内在的な営みであるとともに、世の中とつながり、人と人を結びつける営みでもあり、その価値は金銭や業績とは異なる場所にあるが、翻訳という労働に正当な対価が与えられず、翻訳者が尊重されないような動きには強く反対する。今後、翻訳をめぐる環境が改善され、この営みがより安定した形で続けられるようになることを願ってやまない。

【注】

(1)陳春成『夜の潜水艦』、アストラハウス、2023年

(2)郁達夫「還郷記」;豊子愷「おたまじゃくし」、中国一九三〇年代文学研究会編『中国現代散文傑作選1920-1940:戦争・革命の時代と民衆の姿』、勉誠出版、2016年

(3)陳応松「太平――神農架の犬の物語」『中国現代文学』16号、ひつじ書房、2016年

(4)立原透耶編『時のきざはし 現代中華SF傑作選』、新紀元社、2020年

(5)宝樹「時の祝福」、大恵和実編『移動迷宮 中国史SF短篇集』、中央公論新社、2021年

(6)郝景芳『流浪蒼穹』、早川書房、2022年

(7)いずれも停刊。『季刊中国現代小説』第Ⅰ巻第1号~第Ⅱ巻第36号、通巻72号、蒼蒼社、1987~2005年。『火鍋子』1~81号、翠書房、1991~2014年。『灯火』全5巻、(北京)外文出版社、2015~2019年。

(8)中国現代文学翻訳会編『中国現代文学』、ひつじ書房。2008年創刊、現在までに24号を刊行。中国同時代小説翻訳会編『小説導熱体』、白帝社。2018年創刊、現在までに5号と特別号1巻を刊行。後者は中国近代文学や関連情報も扱う。

 

(おおくぼ・ひろこ 中国近現代文学研究者、翻訳者)

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