『漢俳』評 下定雅弘

投稿者: | 2023年10月13日
『漢俳 五・七・五の中国国民詩』

漢俳
五・七・五の中国国民詩


今田述 著
出版社:東方書店
出版年:2023年7月
価格 1,980円

「漢俳」の生き証人が語る中日共有の詩情

 

 いまのぶる氏は一九二九年生まれ。「葛飾吟社」(後述)の代表理事。「かんぱい」とは俳句の五七五に倣った中国の短詩である。中国で四十数年前に誕生し、国民詩と言ってよいほどに発展し普及している。本書は日本で初めて出された漢俳の懇切な解説であり、漢俳を通じての日中文化交流の実録である。本書のポイントを評者なりに記す。

 一、漢俳誕生の歴史的背景。文化大革命の収束後、詩壇復興の動きが出てきたが、その際、詩人が社会の一部に限定されている現状から、もっと多数の市井人が参加出来るようにする手立てが求められた。その時、知日派の詩人たちから日本の民衆文芸である俳句の話が持ち上がった。かくして日本の俳人へ訪中の打診が届き、大野りんを団長とする俳人訪中団の北京訪問が実現した(「一、漢俳誕生に到る背景」「二、中国人の俳句への接近」「三、詩詞の変遷」「四、人の世は好い短詩が要る」「六、和風漢俳を起こす」)

 二、「漢俳」の誕生。一九八〇年五月三十日、北京の中央詩壇の有志が日本の俳人訪中団を招いて、北海公園にある宮廷料理の店「仿ほうぜん」で交流会を開いた。ホスト側の主要メンバーは曽て日本に留学して俳句にも親しみを覚えていたしょうけいぶん(民族学者、一九八三年、民俗学会理事長)りんりん(対外友好協会副会長、日本文学研究会会長)、それにちょうぼくしょ(中国仏教協会会長)。この席上、趙樸初が折から降り出した五月雨さみだれを即興で詠じて、次の一首を開陳した。「贈日本俳人訪華団其三(日本俳人訪華団に贈るその三)」「緑陰今雨来/山花枝接海花開/和風起漢俳(緑陰今雨来る/山花の枝海花に接ぎて開き/和風漢俳を起こさん)」。この「漢俳」の語から、五・七・五の短い新短詩を「漢俳」と呼ぶことになった(「六」に詳しい)

 三、漢俳の発展。一九八三年、金子兜太が現代俳句協会の会長に就任。金子は直ちに協会の総力を挙げて漢俳の普及に協力する。それは一九九三年・一九九七年の『現代俳句・漢俳作品選集』の出版として結実。序文は二度とも金子兜太と林林が書いている。二人が協力して漢俳の普及発展に尽くしたこと、「七、林林と兜太・肝胆相照らす」に詳しい。
 ・一九九〇年、日本航空が国際俳句コンクールを催す。上海と北京だけで一万近い漢俳作品の応募あり。
 ・一九九三年九月、『現代俳句・漢俳作品選集』が刊行される。
 ・一九九七年。五月、漢俳初のアンソロジーりんしゅう編纂『漢俳しゅせん集』刊行。九月、日中国交正常化二十五周年記念の催しとして、「中山栄造新短詩研討会」(中山栄造は「葛飾吟社」の創設者)を北京協商会議所で開催。日本から参加したのは中山栄造、小畑節朗、今田述ら十名。同月、『現代俳句・漢俳作品選集』第二集刊行。
 ・二〇〇五年二月、長沙のだんらくさんの漢俳詩選『詩朋有約』で、彼が雪中で手機(携帯)を操作する写真が表紙になっている。携帯の普及が漢俳を飛躍的に発展させた(「十、モバイルの発達と漢俳」)
 ・二〇〇五年三月、中国政府は、詩詞の統括機関「中国詩詞学会」から分離して、「中国漢俳学会」を成立させた。初代会長はりゅうとくゆう、副会長は林岫女史。(「十二、中国漢俳学会の成立」)
 ・二〇〇六年十一月、劉徳有、国際俳句交流協会の招きで来日。同会主催の俳句大会で講演(本書「附録」に講演の全文を掲載)
 ・二〇一三年十二月、林岫女史主編『中国漢俳百家詩選』が刊行される。「あとがき」に、中国の漢俳作者がネットに登録されただけで十万人に迫ると記されている。

 四、漢俳の中国詩詞の歴史における系譜。中国古典詩は、「詩」(四言、五・七言の律詩、古詩等)と「(「はい」という曲調に合わせて詠じる。一句の文字数は不定。「長短句」「てん」とも)に分かれるが、漢俳はいずれの系譜に属するのか。
 二〇〇〇年九月、北京で開かれた「迎接新世紀中日短詩交流会」での林林の発言。「漢俳は現在格律体と自由体(散体)の二つに分かれていて、趙樸初老は格律体を、えんよう、林岫先生等は基本的には格律体だが、時と場合によっては自由体を作っている。鍾敬文先生は口語体を用い大変面白い。私は口語体を主張したが、ここしばらくは静かにしている」(「八、林林の日本への愛憎」)。今田氏は、林岫女史が漢俳を「詩」と見て、「詞」とは見ていないことに疑義を呈している。氏自身は、漢俳は「詞」の現代版「小詞」と見るのが自然、との立場である。(「十一、林岫女史の漢俳解説講演会」末尾)
 「五、鄧麗君(テレサ・テン)の執念」は、詞の魅力を知るにはとうれいくんの「淡淡幽情」を聴けと勧めている(評者、すぐに注文した)。これは詞の名作十二首を選んで曲をつけて歌ったもの。うち、南唐・いく「独上西楼」と宋・李之儀「思君(卜算子)」を紹介。「思君」の第二句から第四句「君住長江尾/日日思君不見君/共飲長江水(君は長江の尾に住む/日日君を思えど君を見ず/共に飲まん長江の水)」を挙げて言う、この三行がすでに「漢俳」である。

 五、葛飾吟社の役割。俳人は中国詩詞に関する知識を十分には具えておらず、漢詩人は七絶以外の詩詞の形式に手を出さなかった。その結果、日本では漢俳は理解されず、四十年の歳月を空しく過ごしてきた。こんな中で日本にも全ての詩型を詠みこなし、中国詩壇と交流を続けてきた詩社がある。それが葛飾吟社である。
 一九九七年九月、「中山栄造新短詩研討会」を北京で開催(上述)。二〇〇二年十一月、林岫女史が成城大学で漢俳解説の講演を行う。(「十一、林岫女史の漢俳解説講演会」に講演の全てを転記)。二〇〇四年十一月、「中日短詩研討会」を北京で開催。二〇二二年十月、葛飾吟社機関誌『梨雲』一七九号日中国交正常化五〇周年特集に、劉徳有、漢俳六首を贈る。

 六、漢俳の作品味読。「九、林岫主編『漢俳首選集』」に三十三名の漢俳を一首ずつ紹介している。林林の作「風雨声」。「秋風秋雨声/千枝万葉如含泪/難言受苦情(秋風秋雨の声/千枝万葉泪を含むが如く/言い難し苦を受けし情を)」。これは金子兜太に郷里秩父を案内され、明治十七年に起きた農民一揆秩父事件の墓地で民衆の悲惨さを詠んだもの。
 「秋風秋雨」と言えば、秋瑾の絶命詞と伝えられる「秋風秋雨人を愁殺す」を思うが、晩唐・李群玉の「金塘路中」にも「黄葉黄花古城路、秋風秋雨別家人(黄葉黄花古城の路、秋風秋雨家人に別る)」と見える。これは「詩」を受け継ぐものと見ていい。
 呉ずいきん(一九四三年生)「痩西湖」「莫道西湖痩/淮左名都景如繡/千古可銷愁う莫れ西湖痩せしと/わいの左に名都景は繡の如し/千古愁いをす可きや)」。呉瑞鈞は女性。評者は、一九九〇年八月、学生を引率して揚州のこの痩西湖に行った。読んだ瞬間に学生と歩いたあの情景が甦った。
 「十三、『中国漢俳百家詩選』の刊行」では、「九、林岫主編『漢俳首選集』」で取り上げた作者は除き、残り六十七名の作品を一首ずつ紹介している。二、三の作を見よう。
 可夫(一九四四年生)「听雨(雨を聴く)」「人生皆是縁/落花流水意闌珊/听雨沅江畔(人生は皆是れ縁/落花流水の意らんさんたり/雨を聴くげんこうほとり」。思い出す、大学に入ってしばらくの頃、よく李煜の「ろうとうしゃれい」をつぶやきながら、教養部のグランドの芝生を歩いていたのを。「簾外雨潺潺/春意闌珊/……別時容易見時難/流水落花春去也/天上人間れんがいに雨はせんせんたり/春意らんさんたり/……わかるる時は容易たやすきにまみゆる時は難し/流るる水りゆく花はるりゆきぬ、天上じんかん」。
 楊平(一九五六年生)「不夜秦淮河(不夜のしんわい河)」。「秦淮岸上灯/笑対銀河無数星/金陵夜最明(秦淮岸上の灯/笑いて対す銀河無数の星/金陵の夜は最も明るし)」。これには杜牧「泊秦淮(秦淮に泊す)」「煙籠寒水月籠沙、夜泊秦淮近酒家もや寒水をめ月沙を籠む、よる秦淮に泊してしゅ近し)」を思い浮かべた。
 丁丁(一九八八年生)「夜帰(夜の帰り)」「你披着星光/走在安静的街上/蟋蟀軽声唱(星の雫に濡れながら、あなたは静かな町を歩いている/蟋蟀はやさしく鳴いて)」。丁丁は女性。『百家詩選』収録の最年少。口語による漢俳である。夜の町を歩く心情がしみじみ伝わる。

 まとめに代えて。「作品の紹介に重点を置いた」(「はじめに」)と言うとおり、本書は様々な漢俳の作品を楽しませてくれる。のみならず、終章「十四、漢俳を作ってみる」で「漢俳には、五・七・五以外ルールが無いことを考えると、絶句や律詩を詠むことよりはずっと容易だ」と言われてみると、よし! 作ってみようと思ってしまう。
 本書によって、漢俳の娯しみを共有する人が増え、漢俳が日本でも盛んとなることを願ってやまない。

(しもさだ・まさひろ 岡山大学名誉教授)

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