『中国俗文学史』解説

投稿者: | 2023年9月19日

中国俗文学史
東方学術翻訳叢書

鄭振鐸著/高津孝・李光貞監訳
出版社:東方書店
出版年:2023年10月
価格 13,200円

 

 

中国俗文学史   全体解説/高津孝

 鄭振鐸(てい・しんたく、一八九八〜一九五八)は、中国近代の文学者、文学研究者である。本籍は福建長楽であるが、浙江温州に生まれた。北京鉄路管理学校在学中に瞿秋白らと雑誌『新社会』を創刊、一九二一年に茅盾らと文学研究会を結成し、同年、商務印書館に入社、『文学旬刊』等の雑誌を編集した。その後、燕京大学、清華大学、曁南大学教授となり、中華人民共和国成立後は中国科学院考古研究所所長、文化部副部長を歴任、最後は海外訪問の途中、飛行機事故で亡くなった。

 二〇一三年に商務印書館から出版された中華現代学術名著叢書『中国俗文学史』には、巻末に「鄭振鐸先生学術年表」と陳福康「鄭振鐸と『中国俗文学史』」が添付されている。陳福康先生は鄭振鐸研究の専門家で、すでに『鄭振鐸論』(商務印書館、一九九一年)、『鄭振鐸伝』(北京十月文芸出版社、一九九四年)の著書があり、解説者としては最適の人物である。以下、現在の中国における本書評価の代表として、陳福康解説から重要な点を抜き出してみよう。

 中国新文学運動において、最初に完備した中国文学史の必要性を主張したのは鄭振鐸である(「私的一個要求」『文学旬刊』一九二二年九月)。その後、鄭振鐸は一九二〇年代、三〇年代に四つの文学史を出版する。『文学大綱』(商務印書館、一九二七年、世界文学全体を歴史的に紹介、約四分の一が中国文学の章)、『中国文学史』(商務印書館、一九三〇年、中世巻第三篇上、断代史で詞を担当)、『挿図本中国文学史』(北京樸社出版部、一九三二年、通史)、『中国俗文学史』(商務印書館、一九三八年、分類史)。最後の『中国俗文学史』二分冊は、日中戦争の激化する中、一九三八年八月に商務印書館より長沙で出版された。前文、跋文もなく、鄭振鐸の著作に特徴的な挿図もない出版で、本書に対する書評も多くなかった。一九五四年に作家出版社から再版が出るが、鄭振鐸自身一九五八年十月に亡くなり、一九五八年十二月に本書は激しい批判にさらされて、以後長期間顧みられることはなかった。本書の執筆は、『挿図本中国文学史』出版後、北平で開始され、同書と観点、見解に大きな差異はない。修訂の意向はあったようであるが、戦火が迫り急ぎ出版することとなった。

 本書は「俗文学」について概念上の問題を有する。鄭振鐸は俗文学(通俗文学)、民間文学、大衆文学を同じものとしているが、この三者には共有する部分もあるが完全には一致しない。鄭振鐸の「俗文学」は、①狭義の民間文学(労働する人々の口頭創作、ゴーリキーの言葉)に、②市民文学(瞿秋白の言葉)、③抄本、刻本の通俗作品、を加えたもので、広義の民間文学として、廟堂文学、正統文学、雅文学と呼ぶ伝統的古典文学に対立するものとして定義されている。

 本書に先行するものとして、洪亮『中国民俗文学史略』(上海、群衆図書公司、一九三四年)があるが、鄭振鐸『挿図本中国文学史』や鄭振鐸の既発表の文章を参考にして執筆され、オリジナリティに乏しい小冊子であることから、知られることなく終わった。鄭振鐸の没後、一九五八年十二月に『中国民間文学史(初稿)』二冊(北京師範大学五十五級学生編、人民文学出版社)が出版される。これは「大躍進」の産物で、百余名の研究者を動員し一か月で五十六万余字の著作を完成させたものである。本書は階級闘争を極端に強調し、民間文学を階級闘争の道具としたもので、導言および本文中で鄭振鐸『中国俗文学史』を激しく批判した。しかし、鄭著は民間文学を扱った類書中傑出した作品で、長期間これに替わるものは現れなかった。新しい研究の出現は一九九〇年代末期になり、①王文宝『中国俗文学発展史』(北京燕山出版社、一九九七年)、②祈連休・程薔『中華民間文学史』(河北教育出版社、一九九九年)、③高有鵬『挿図本中国民間文学史』(河南大学出版社、二〇〇一年)がある(一)

 本書の功績は、第一に研究の空白を埋めた点が挙げられる。中国における民間文学の研究は、五四運動期の民歌収集に始まり、三〇年代までは現代が中心で、俗文学史全体に着目するものは少なかった。したがって、鄭振鐸の俗文学史研究は資料の収集から始めなければならなった。その意味で本書は開拓者としての意義を有する。本書第一章から第四章までは、古書から作品を選択する作業となっているが、第五章唐代以降は、我々がこれまで見たこともない資料の提示であり、鄭振鐸自身が収集した資料を惜しげもなく開陳してくれている。

 第二に俗文学を理論的に位置づけた点がある。鄭振鐸によれば、俗文学は中国文学史の中心である。なぜなら、既存の「正統文学」の範囲はあまりに狭く、詩と散文に限定されている。そのため、中国文学史の主要な部分(小説、戯曲、民歌)は俗文学に占領されざるをえない。また、いわゆる「正統文学」の発展は、俗文学の発展と密接に関連しており、「正統文学」の多くのジャンルは俗文学が昇格したものである(『詩経』の大部分は民歌であり、五言詩、楽府、詞、曲は民間に起源がある)。また、鄭振鐸は俗文学の特徴を六つ挙げている。①大衆的であること。民間に生まれ、民衆のために創作され、民衆が好んだ。②無名の作家による集団的創作であること。③口伝であり、流動性に富むこと。随時改変される可能性があり、写本となってはじめて定型となること。④新鮮であり、常に粗野であること。⑤奔放な想像力を有し、気迫がこもっていること。⑥外来の事物、外来の文体を含む新しい要素を果敢に取り入れること。

 第三に俗文学を公平に評価した点である。封建社会の文人は俗文学を全面的に否定し、一方、新中国成立以降の人々は俗文学を全面的に肯定したが、鄭振鐸は俗文学を肯定するとともに、その否定的側面も指摘している。俗文学の中には、民間の習慣や伝統的観念がしばしば強固に付随しており、伝統的文学よりも封建的で、それは民衆の保守性を示しているとする。

 第四に俗文学を詳細に分類した点である。鄭振鐸は五分類を提示している。①詩歌(民歌、民謡、初期詞曲等)、②小説(話本、短篇説話、長篇講史等)、③戯曲(初期戯文、雑劇、地方戯等)、④説唱文学(変文、諸宮調、宝巻、弾詞、鼓詞等)、⑤遊戯文章。現代の視点から見ると、古代神話、民間故事、笑話、諺語、寓言、謎語が未収録である。

 第五に創見に富む点である。一つは学説の進展で、『挿図本中国文学史』においては、『詩経』について、乱世の悲歌と民間の恋歌を感動的文学作品の双璧としたが、本書では、恋歌を重視するも、とりわけ重要なものとして農歌の社飲・禱神・収穫の歌を不朽の名作とする。次に、詞の起源として、『挿図本中国文学史』では「胡夷の曲」「里巷の曲」が詞に発展したとするが、本書では、詞は民間に起こるとし、「里巷の曲」を第一に置く。また、比較文学的手法を採用し俗文学を分析した点が挙げられる。漢代「十五従軍征」を米国のアービング「リップ・ヴァン・ウィンクル」と比較し、唐代「韓朋賦」の別離のシーンをインドのカーリダーサ「シャクンタラー」と比較し、唐代「燕子賦」の風刺の側面をイソップ寓話、フランスの『狐物語』と比較している。さらに、物語類型論に基づく比較分析も、唐代「董永行孝」、「韓朋賦」について行っている。

 本書は俗文学を対象としたきわめて初期の研究であり、欠点と錯誤をまぬかれない。以下、四点を指摘する。①インド文学の影響への過大評価。②小説、戯曲を欠いていること。③不適切な例示、資料の列挙(研究者には好評)と議論の欠如。④俗文学と民間文学(狭義)の境界が曖昧な点。口頭文芸への記述が不十分な点。たとえば、牛郎織女、梁山伯と祝英台、白蛇伝への言及がない。本書は、不十分な点はあるが疑いもなく価値ある学術書である。本書と王国維『宋元戯曲考』(藝文印書館、一九一二年)、魯迅『中国小説史略』(上下、北京大学第一院新潮社、一九二三〜二四年)とは相互に補完する三つの柱であり、中国文学史を研究する上で必読の基本典籍である。

 

 本書をあらためて読んで感ずることは、その初々しさである。これから新しい観点、新しく収集された資料に基づいて、これまで無かった新しい文学史が生まれるのだという著者の気持ちが行間に溢れている。初期の研究として後世から見れば問題点も多いとは思うが、新しいものを切り開くのだという気持ちの躍動が感じられる作品である。筆者は今回全くの偶然から本書の翻訳に関わることになったが、よき協力者を得て翻訳が完成したことは誠に喜ばしい。意外であったのは、本書所収のおそらく八割の作品が初訳であることである。著名な作品ながら日本語訳されていないものも多く、翻訳担当者は相当に苦労されたと思う。本書は中国の文学を、民間文学も含めた全体として理解しようとする読者への賜物である。

 急な依頼に快く応じ、優れた翻訳原稿をご提供いただいた翻訳担当者の方々には感謝に堪えない。また、すべての原稿に対し詳細かつ的確なアドバイスをいただいた東方書店編集担当の家本奈都さんには感謝したい。

 

【注】

(一)②は、その後、程薔・祈連休・呂微『中国民間文学史』(河北教育出版社、二〇〇八年)となり、中国社会科学院文学研究所と協力した国家重点出版物「十三五」規画による『中国民間文学史』八冊(河北教育出版社、二〇一九年)となっている。八冊の内訳は、故事巻(上中下)、神話巻、叙事詩巻、伝説巻、諺語巻、歌謡巻である。③は個人で、高有鵬『中国民間文学発展史』十冊(線装書局、二〇一五年)を出版している。

 

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原書
中国俗文学史 (中華現代学術名著)
商務印書館 価格7,920円
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