香港本屋めぐり 第23回

投稿者: | 2023年9月5日

字字研究所(ジジインガウソー)

 

香港のほとんどの独立書店には、店主の個性・考え方が色濃く反映されている。今回取り上げる字字研究所も例外ではなく、店主の呂嘉俊(ロイ・ガージョン)さんが本屋に化身したような空間だ。

呂嘉俊さんと書店「字字研究所」

▼店主——呂嘉俊さんの経歴

字字研究所は、この連載の第2回で取り上げた鵠(アイゴッ)が入っているビル「富徳楼」の2階にある。ワンルームの書店のレイアウトは、香港に多く見られるスタイルで、壁にそって書架が並び、中央に平積みのための大きなテーブルが陣取っている。そこに並んでいる本をちらっと眺めるだけでこの書店の特徴がわかるだろう。それは「飲食」についての本がメインということだ。

書店内

呂さんは2005年、「蘋果日報」を発行していた香港の壹伝媒(ネクスト・メディア)の雑誌『飲食男女』編集部に就職し、2018年まで記者・編集者を務めた。
『飲食男女』はいわゆるグルメ系の雑誌で、当初は「どの店のどの料理がお勧め」というガイドブックのような内容だった。それが2007年頃から変わったと呂さんは言う。
「店の情報はネットで調べられるようになったので、紙の雑誌で同じことをしても意味がなくなってきました。ですので、店や料理・食材などの奥の、より深い情報を取材して載せるという方向になっていきました」。
そのような時に呂さんは多くの飲食店や料理・素材に関する人物・企業などを取材し、知識と人脈を広げていった。

雑誌『飲食男女』

『飲食男女』は2013年から紙の雑誌とネット記事を並行して進めたが、17年に雑誌は休刊し、ネットだけになる。呂さんはそれに馴染めないこともあり、翌18年に離職した。
その後はフリーランスとして、原稿執筆など様々な仕事をこなした後、2020年に出版社「字字研究所」を立ち上げた。同年11月、出版社として初めて出版した書籍——『香港人食香港菜』は、まさに飲食そのもの。著者は俳優にして料理人の梁祖堯氏。香港産の野菜を使ってのレシピ本だ。今では入手困難な人気の1冊となっている。

出版社「字字研究所」としての1冊目『香港人食香港菜』

▼書店の立ち上げ

2022年6月、呂さんは出版業を続ける他に本屋を開こうと決めた。
「僕は子供の頃から小説が好きで、新しい書店では文学はもちろん、特にジャンルにはこだわらず様々な本を売っていこうと考えました。そんな時、『七份一書店』の荘国棟さんから、あるアドバイスがあったのです。『飲食をテーマとした本屋にしてはどうだろうか。香港にそのような書店はないし、君はその分野には最も詳しいのだから』と」。そして同年9月、出版社と同名の書店「字字研究所」がオープンした。
店内には、香港・台湾などの他に日本の飲食関係の本も並ぶ。他には、最近出版された地元香港をテーマにしたものも多い。

 

▼書店にとってのイベント

書店のスペースを活かして、まだ回数は多くないがイベントも開催。例えば、香港の新界北部で昔ながらの、甕を陽光にさらしながら醤油作りを続けている「悦和醤園」の経営者を招いてのトークショー。なぜメイド・イン・ホンコンの醤油が必要なのかについて、経営者と参加者が語り合った。今、多くの独立書店で同様に開催されているトークショーや講座は有料のことが多い。これについて呂さんは語る。
「香港で大規模な社会運動が起きて以降、小規模な店舗で開催されるイベントに『金を払って参加する』人が増えています。イベントの開催自体、電気代もかかりますし、ゲストへの交通費・謝礼もあります。それを支えるために積極的に『課金』するという流れが定着しているように思います」。

一方、書店自体——本の販売での経営はどうなのだろうか。
「額が大きいわけではありませんが、今のところ毎月赤字です。現在、香港では各出版社の経営も大変で、書店はさらに厳しい状況です。僕の書店だけではなく、イベントの収入で書籍販売の赤字を補っているところも少なくありません」。

 

▼執筆・出版活動で香港の「味」を伝える

字字研究所が入居している富徳楼は、そのビル自体が文化的プロジェクトともいえ、若いアーティストやスタートアップに安価な家賃で物件を提供している。但し期限があり、基本は3年だ。その期限を迎えた時、字字研究所はどうするのだろうか。
「もしも他に移転するとしたら、イベント開催に必要な面積が確保できるかどうか、家賃のレベルはどうか、様々なことを考慮しなければなりません。香港経済自体も先行きは不透明ですし、来年どうなるかもわからない状況ですね。とにかく今できることを全力でやっていくだけです」。

深刻な話が続いたが、明るい話題もある。今年——2023年の夏、「香港ブックフェアー」に合わせるタイミングで呂さんの2冊の著書が発刊となった。1冊は『好好吃飯』(蜂鳥出版)、もう1冊は『味縁香港』(CUP出版)だ。

前者は、香港の出版社「蜂鳥出版」の依頼を受けて執筆。呂さん自身が香港での出版業の苦境を知っているだけに、当初は「知名度のない僕のような者に執筆依頼とは、なんと大胆な賭けだろう」と思ったそうだ。
後者は、2022年初頭からのネット上での連載コラム「味字慢」から数十篇をピックアップし、単行本に仕上げたものだ。連載を引き受けた当初は1か月に2篇。「僕がネットに書くものをどれだけの人が読むのだろうか?」と危惧していたが、編集部から「とても人気がある。回数を増やしてほしい」と話があり、現在は1週間に1回書いている。
「以前は『週刊誌』に携わっていたので、僕に合っているサイクルです」と呂さん。なお、「味字慢」というタイトルは、日本語の「味自慢」から借用し、その一字を「字」に置き換えたものということだ。

呂さんの連載「味字慢」
https://www.cup.com.hk/author/column-luikachun/

この2冊には通底しているものがある。それは「香港菜」——香港料理だ。
「台湾菜(台湾料理)はすでに一般名詞化していますし、さらに『マカオ料理』という呼称も存在します。それに対して『香港菜』(香港料理)はどうでしょう? 香港の料理はその大部分が外来のものです。近くは広東料理、遠くはアメリカ・ヨーロッパ。
神戸や長崎・横浜・ニューオリンズ同様、港である香港では飲食文化が大いに発展してきました。各地から多くのものを取り入れ、独自のものを作り上げています。例えばエッグタルト、香港式ミルクティー、車仔麵(多くのトッピングから客が自分でいくつかを選んで注文するタイプの麺)など。外国人にも好評を博している料理もあります。また、今は世界各国に広がった『茶餐廳』というタイプの飲食店も香港が発祥です。『香港料理』という名称はともかく、香港人が日常的に食べている料理や飲食店の起源や歴史は、何もしなければそのうち忘れ去られてしまうかもしれない。僕はそれを記録に留めておきたいのです」。

書店と出版社の経営、そして作家という「三刀流」を続ける呂嘉俊さん。飲食は文化。その香港文化が書店というプラットフォームの上でも長く守られ、伝えられていくよう期待したい。

(取材日:2023年8月17日)

 

▼呂さんの著書

 『好好吃飯』

出版社:蜂鳥出版
初版:2023年7月
ISBN:9789887638865

 

「食べる」ということを切り口に社会での出来事を見る。食べ物を通して世界を見る。呂さん個人のこれまでの来し方や家族のことなども含め、食をテーマに綴ったエッセイ集。今日の香港のレストランで供される食品から17世紀のアメリカ大陸での蔗糖生産まで、幅広い場所と時代の出来事が取り上げられている。
この本の文章の多くは日本を旅行中に尾道で書かれたとのこと。

 

『味縁香港』

 出版社:CUP出版
初版:2023年7月
ISBN:9789887970088

 

確立された「香港菜」(香港料理)というものはないかもしれないが、香港には実に様々な世界の料理が集まっている。その一方、特に現在、閉店を余儀なくされる飲食店も少なくない。そうした店の味が再現されることは難しいだろう。しかし文字で記録しておくことはできる。将来、誰かがそれを再現しようと試みるかもしれない。
著者がこれまでの取材などを通して知り得た店・料理についてだけではなく、歴史・経済・各地の気候風土、物流や文化などまでを綴った連載エッセイの集大成。

 

▼書店情報

字字研究所

住所:香港島 軒尼詩道365-367號 富德樓1樓(日本的には2階)
ホームページ
https://wordbywordcollective.com/
Facebook
https://www.facebook.com/wordbywordcollective/
Instagram
https://www.instagram.com/wordbyword_bookstore/

 

Google Map 香港本屋めぐりMAP

 

写真:大久保健

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大久保健(おおくぼ・たけし) 1959年北海道生まれ。香港中文大学日本学及び日本語教育学修士課程修了、学位取得。 深圳・香港での企業内翻訳業務を経て、フリーランスの翻訳者。 日本語読者に紹介するべき良書はないかと香港の地元書籍に目配。

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