校正の流儀

投稿者: | 2023年11月15日

西澤 治彦

 

■校正と校閲

 論文にしろ、著書にしろ、推敲の済んだ原稿を学会や出版元に提出するだけで、そのまま自動的に印刷にまわる訳ではない。その前にある最後の過程が、校正だ。校正は著者本人もするが、学会などの編集委員や出版社の編集者もする。初校のゲラが組まれると、編集者のコメントなど赤字が入ったものが送られて来る。これを著者が吟味し、修正するところは修正して、編集者に返す。これを再校、三校と繰り返す訳であるが、校正作業をどれだけ丁寧にやるかは、学会や個々の編集委員、あるいは出版社や編集者によっても同じではない。誤字脱字など最低限の指摘に留まることもあれば、徹底的にチェックが入る場合もある。大手の出版社や新聞社だと、編集者とは別に校閲を専門とする部署があることもある。
 厳密に言うと、校正と校閲は異なる。校正とは、元の原稿と照らし合わせながら、誤植や誤字脱字などがないかをチェックする。対して校閲は、これに加えて、表記の揺れ、事実関係の誤り、理論構成や表現上の矛盾、引用文献の確認など、著者でさえ気がつかないような間違いを見つけ出し、指摘していく作業である。それだけに、文章力のほかに、幅広い知識と教養も必要とされる仕事である。従って、校正について語るに際しては、編集作業一般を行なう編集者と、校正を担当する者、さらに校閲者とを分けておく必要がある。しかし、実際には、編集者が校正を担当することが多いし、校正と校閲の境も、必ずしも明確に分けられる訳ではなく、有能な編集者となると、校閲に近い領域までこなしてしまう。実際、文字もデジタル情報から印刷される現在、文字化けを除いたら、「元の原稿と照らし合わせる」作業はなくなっているので、校正の力点は校閲の方に傾いている。そこで、ここでは便宜上、校正と校閲を区別せず、その担当者も総称して編集者と呼ぶことにする。論集の編者も校正を行なうことがあるので、この中には編者も含まれる。
 著者として納得のいく論文なり本なりにしたければ、他人の力も借りつつも、本人もしっかりと校正をする必要がある。初めて本を出す人の中には、印刷ミスの責任がどちら側にあるのか、よく理解していない人もいるようだ。編集者は出版社のブランドを維持するためにも、ミスのない本を出そうと努力はするものの、最終的な責任はあくまで著者にある。実際、校正終了を意味する「校了」を伝えるのは著者である。校了にあたって、部分的に残った訂正個所を念のために見る校正刷りを「念校」と言う。一方、この作業を略して、編集者に訂正の責任を負ってもらう形で校了にすることを「責了」(責任校了)という。初校でも直しがほとんどない場合や、逆に直しが多く三校を超えてしまった場合など、双方の手間を省くために責了を申し入れることがよくある。いずれにせよ、著者が校了を宣言しない限り、出版社は原稿を印刷にまわすことはない。

■校正の今昔

 ワープロが普及する以前は、原稿は原稿用紙に手書きであった。これを出版社に提出すると、編集者がいろいろな指示を書き加えたうえで、印刷所にまわす。そこで植字工が一字一字、棒状になっている鉛の活字を選び出して、指定された大きさのサイズの木型に組んでいった。活版印刷というやつで、当時は原稿用紙が印刷物になることを「活字にする」と言ったものだ。活版印刷は、印刷される際の活字の圧力で紙の文字がほんの少しへこむのが、何とも言えない味わいであった。しかし、文字サイズや字体の選別、句読点やルビなど、今から考えると、信じられない作業量だ。何十万字もある原稿だと、当然、拾う活字にミスがでる。これが印刷された際の「誤植」となる。これをチェックするのが校正の大きな仕事であった。
 印刷された紙媒体のゲラに、誤植や脱字なども含め、修正すべき個所を赤ペンで書き込んだことから、編集や校正をすることを「赤を入れる」と言った。もはやほぼ全員がワープロで文章を書いている現在、「誤植」と言うよりも、ワープロの入力ミスや誤変換(というより変換後の確認の怠り)と言った方がいいようだ。紙媒体で校正する限り、「赤を入れる」は残るかも知れないが、今では、PDF上での修正が増えてきている。短いものならPDF上でもいいが、私は紙媒体が好きだ。なによりも実際に印刷された雰囲気を実感できるからだ。今は、併存している情況だが、いずれ、紙媒体での校正は消えていくであろう。公表の場がウェブのみとなると、紙媒体での校正などしたくてもできない情況となってしまう。こうした変化が、校正という行為そのものに何らかの変化を引き起こすことも考えられるが、ここでは「赤を入れる」古き良き時代の話を中心に語りたい。

■編集者との相性

 自分の書いた文章の誤字(誤変換)や脱字、文章表現のおかしな点などは、何度も自分で読み返しても、見つけ出すのに限界がある。自分で書いただけに、文章がすでに頭の中に入っているので、目がどんどん先にいって、細かいところに気がつかないからであろう。この限界をカバーする一番いい方法は、他の人に読んでもらうことである。同業の研究仲間もいいが、プロの編集者はさすがに間違いを見つけるのがうまい。「編集者」という独立した仕事として認知されているだけのことはある。
 長い付き合いの編集者もいれば、初めて一緒に仕事をするという編集者もいる。いろいろな編集者と仕事をしてくると、相性のようなものがあるな、と思うようになった。明らかな誤字脱字、同じ語句の繰り返し、文法的な間違いの指摘などをしてくれる分にはありがたいが、日本語として豊かな表現の可能性を追求したものまで、ありきたりの表現に直されたりすると、腹立たしくなってくる。特に意図的にその表現をしている場合なら、なおさらだ。表現の矛盾点ならいいが、文体にまで手を入れられるのはあまり心地よくない。どこまで指摘するか、そのさじ加減の絶妙なところが、相性の善し悪しとなっていくようだ。あと、文章のおかしい所をただ指摘するだけでなく、代案を出してくれると、なるほどと納得しやすい。指摘の仕方も、「○○としては如何でしょうか?」というソフトな表現がいい。時には、その理由も簡単に付け加えてくれると、すんなりと受け入れやすい。
 相性のいい編集者だと、著者の校正作業も気持ちよく、スムーズに進む。自分の書いた文章が編集者の指摘によってさらにいいものに仕上がっていくのを実感でき、感謝の気持ちすら浮かぶ。ところが、相性が合わず、編集者に文体にまで手を入れられると、いちいち反論したくなるし、ストレスも溜まるので、校正どころでは無くなってしまう。出来上がったものにも、妙な不快感が残ってしまう。まあ、編集者の側から見ても、指摘を素直に受け入れてくれないなど、相性の合わない著者だと思う場合もあるだろう。しかし、文章を書くのはあくまで著者であり、公表した文章に責任を負うのは、著者本人である。

■木を見て森を見ず

 著者も学べる編集者のテクニックを一言で言い表すなら、「木を見て森を見ず」となろう。スーっと読んでいって、違和感のあるところ、引っかかるところをチェックするのは、著者も編集者も同じだ。ただ、編集者はその作業をじっくりと時間をかけて行なう。その密度が著者とは違う。換言すると、持てるエネルギーの全てを、森ではなく、木やその枝葉に注ぎ込むことに集中している。敢えて森を見ないというよりは、結果として森が見えなくなるのだ。従って、企画段階の編集者は別として、校正担当者に論文なり著書全体の感想を聞くのは、聞くだけ野暮というものだ。いや、むしろそれには答えられないというのが、校正者としての職業倫理であり、矜持であろう。実際、論評ばかりで間違いを見落としていては、校正者の意味がない。
 とある編集者に伺うと、文章は、基本的に頭の中で音読しているという。特にひっかかる文章は、実際に音読してみると、あるべき読点の位置や文章のリズムの善し悪しが体感出来るという。表記揺れなどは、編集者もPDFファイルを活用するが、別な用紙に統一表記をリストアップしながら作業を進めると見落としがなくなる。漢数字や旧漢字などの漢字の字体、引用文献の書式も同様である。これ以外にも、編集者なりのコツというか、目の付け所というのがあるようだ。こうなってくると、経験がものを言う、職人芸の世界になる。文章を書く人間だけでなく、編集者にとっても、やはり経験の蓄積が不可欠のようだ。

■文章の部分と全体

 「木を見て森を見ず」という比喩は、文章を読むとはどういう行為なのか、また文章を書くというのはどういう行為なのか、という点で多くの示唆を与えてくれそうだ。文章の書き手は、文字通り、一字一句、木から積み上げて、大きな森を作りあげていくしかない。しかし、読み手は、もう少し大きな塊で文章を読んでいくし、最終的な目的は、著者の描いた森を見ることにある。もし読者の意識が木や枝葉に行くとしたら、それは読んでいてひっかかるところ、ということになる。従って、理想的な文章とは、読者に木の存在を感じさせることがないものと言える。言い換えると、木は単なる全体を構成している部分であるだけでは不十分で、その姿を消してしまうほど周りと「調和」してこそ、本来の存在意義が出てくるものなのだ。
 ところで、校正という作業は、森ではなく、木や枝葉を見ていく作業だ。その意味では、校正をする者は読者とは真逆の読み方をする。こう考えると、読者とも著者とも違う、第三の立ち位置にいる、不思議な職業でもある。しかも、書き手にアドバイスをするという点では、著者よりも優位な立場にいる。但し、校正段階においては、もはや森を見ることはしないので、元の文章の全体のレベルを大きく上げることはできない。というか、それが仕事ではない。こうした仕事柄、編集者は個人的な読書をしていても、ついつい木に目がいってしまい、文章表現が気になってしまうことがあるという。同様のことは文章の書き手にもあることはあるが、これは編集者としての一種の職業病かも知れない。
 著者はというと、木を積み上げながらも、見ているのはその先の森だ。しかし、校正段階となると、著者も木を見なければならない。ここで初めて書き手は編集者と同じ視点で自分の書いた文章を読むことになる。とりわけ翻訳の場合、訳文の校正をしていくと、校正者の深度よりさらに深く降りていくことがある。というのも、訳文は原文に忠実でなければならないという制約があるため、文章表現の自由度も狭まり、限られた幅の中で最適なものをひねり出さなければならないからだ。こうなると、木だけでなく、さらにその枝葉にまで目が行くようになる。制限があるからこそ深度も増すという訳だ。翻訳に真剣に取り組むと、日本語力が磨かれる訳はここにある。こうした経験を経ると、文章の書き手として、木と森の両方をしっかりと見る力が養われていくような気がする。これは、森を見る読者も、木を見る編集者も、普通には体験できない世界である。
 部分と全体との関係というのは、人体をはじめとして、あらゆるものごとの永遠の命題でもある。「美は細部に宿る」というのは、こと文章においても言える。おそらく美術の世界においても、実際には、細部に美が宿っていると言うよりは、その細部に目が行くことがないくらいに、全体の調和が取れている、ということであろう。文章の場合、その調和を限りなく見事なものにしていく手助けをしてくれるのが、編集者である。こう考えると、美しい文章というのは、著者と編集者との共同作業の結果、生まれるものである。著者にとって、よき編集者との出会いが人生の財産となる所以である。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

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