タイトルの流儀

投稿者: | 2023年9月15日

西澤 治彦

 

■名付けの意味

 「名は体を表わす」とはよく言ったもので、同じことは我々が書く文章にも言える。論文にしろ本にしろ、タイトルは文章を読む側にとっても、そして書く側にとっても大事なものだ。そもそも文章にタイトルを付けるのは、誰かに読んでもらうためだ。そのためには、どんな内容が書いてあるのかを、短文で伝えなければならない。啓蒙時代の本の中には、タイトルが数行に及ぶものもあるが、タイトルを読むだけでもういい、となってしまうものだ。クラシック音楽のタイトルも、長いと言えば長いし、これに作品番号まで加わる。逆にポップスや歌謡曲は短いものばかりだ。ポップスの場合、曲を聴いて気に入ったら、タイトルを調べることをよくするが、読者が能動的に読み進めなければならない文章の場合、そうはいかない。タイトルで読者の目を引くことがなければ、せっかく書いても読まれることはない。
 タイトルは書く側にとっても大切な役割がある。人に読まれることを前提としない文章の場合でも、何らかのタイトルを付けることが多い。これは自分自身が後で読み返す時に、インデックスとして必要となるからだ。日記の場合は日付がインデックスの役割を果たしている。だが、タイトルの役割はそれだけでない。論文の執筆にとりかかる前の段階で、書きたいと思っている内容をピタリと反映したいいタイトルが思いつくと、そのタイトルに引っ張られるようにして、思い描いた通りの論文が書けるものだ。逆に、すでに書き進めているのにタイトルが決まらないと、内容も散漫なものになりがちだ。
 もっとも、名付けのタイミングは、文章の長さによって一律とはいかないものだ。思うに、文章の場合、短いものほどタイトルが先に思い浮かぶことが多いようだ。実際、イメージしていたものが早く結実するので、名付けのタイミングも早くなる。詩歌やエッセーがそうだ。論文の場合も、たとえ書き始める前に決定していなくても、少なくとも複数の候補があるものだ。論文と違って、本の場合は、自分でも仕上がるまで全貌は見えないので、確定までに時間がかかって当然だ。特に大部の本だと出版社側の意向もあり、初校があがる段階で最終的に確定することが多くなる。私の博士論文のタイトルは、平凡すぎる『中国の食事方法――歴史人類学的考察』であったが、公開出版に際し、『中国食事文化の研究――食をめぐる家族と社会の歴史人類学』という素敵なタイトルを考えてくれたのは、恩師の熊倉功夫先生であった。 

■タイトルとサブタイトル

 このように、現在の論文や本には、タイトルに加えて、サブタイトルがつけられることが多い。一体、いつから、このサブタイトルなるものが付けられるようになったのだろうか。思うに、近代以前の名著と呼ばれる本には、洋の東西を問わず、サブタイトルなどない。古典の場合、時代を遡るに従って、後世になって書名が確定することが多く、一概には言えないが、『水滸伝』や『源氏物語』を挙げるまでもなく、小説には今もサブタイトルはない。しかし、それ以外のジャンルでも、サブタイトルという発想はなかったのではないかと思う。
 どうやら、「サブタイトル」という名称からして、欧文で書かれたものが始まりかも知れない。日本でも論文や本にサブタイトルがつけられるようになったのは、意外と新しく、戦後のことではないかなと思う。確かに、タイトルをつける側から言うと、メインタイトルとサブタイトルの二つあると便利である。メインタイトルを包括的なもの、あるいは詩的なものにしても、サブタイトルで具体的な中身が分かるようにすれば、内容をかなり詳細に反映させることができる。自分の書いてきた論文を振り返ってみても、特に若い頃に書いた論文ほど、サブタイトルがつけられている。こうすると、いかにも学術論文らしく見えるが、本ならいざ知らず、論文としては説明過多で野暮だったかも知れない。とはいえ、若手研究者が論文を学会誌に投稿する際、短くて詩的なタイトルをつけられる空気ではなくなっているようだ。
 自分が過去につけてきたタイトルにはいろいろな思いがあるが、中にはまんざらでもないものもある。例えば、「意志の向こうにあるもの――映画『古井戸』小論」とか、「エネルギーの行方――映画『紅い高梁』と現代中国」、「封印された歴史――台湾映画『非情城市』を読み解く」などは、自分でも気に入っているタイトルだ。これらは映画評論だからできたささやかな冒険であった。なお、これらの評論をまとめた『中国映画の文化人類学』(1999)は、風響社の石井さんがつけてくれたタイトルである。
 学術論文で最も冒険をしたのが、『僑郷 華南――華僑・華人研究の現在』(1996)に寄稿した、「村を出る人・残る人、村に戻る人・戻らぬ人――漢族の移動に関する諸問題」だ。これは詩的と言うよりは、内容の説明に近いが、それでも論文のタイトルとしては型破りな方だと思う。これは私としては例外的に、論文を書き終えた後に付けたタイトルであったが、これを受け入れてくれた編者の可児弘明先生の寛容さに今でも感謝している。
 本のタイトルで私が唯一、詩的なものにしたのに、論集の『大地は生きている――中国風水の思想と実践』(2000)がある。これは宮崎市定の論文名を拝借したもので、これ以上のタイトルはないと思ったが、あまり売れなかった。メインタイトルだけでは、中国の風水の本だとは誰も思わなかったのであろう。

■論文と本のタイトル

 論文と本の両方にサブタイトルがつけられるようになると、タイトルを見ただけでは、論文なのか本なのか分からなくなってきている。しかしながら、タイトルのもつ意味は、論文と本とでは、本質的に異なるものだ。
 論文の場合、書いたものの内容をそのまま説明すればタイトルになる。だいたい論文はワンテーマなので、タイトルを決めるのに苦労する人はいない。ましてやサブタイトルも使うとなると、候補の幅も広がる。対して、本の場合には、内容を説明しただけではいいタイトルになるとは限らない。むしろ、つまらないタイトルになってしまうことが多い。ここにこそ、論文と本の決定的な違いが隠されている。本は、一つの命題について論じているのではなく、一つの命題をテコにして、もっと別なことを幾重にも論じているからだ。したがって、本の場合には、いくつもの意味を重ね持っているようなタイトルを付ける必要がある。それは単に読者を引きつけるための戦略ではなくて、本が本来もっているインプリケーションを示すためである。一例を挙げれば、費孝通の代表作である『郷土中国』(1948)は、同時期に刊行された『郷土重建』と併せ読むと、「郷土性を持った中国」の意味に、「我が故郷、中国」の意味をダブらせており、このシンプルな書名に、中国に対する費孝通の思いが込められているのだ。
 ここで、私の専門である人類学の本を例に、タイトルの妙味を考えてみたい。古典的な民族誌には、意外と詩的なタイトルがつけられていることに気がつく。古くは、フレーザーの名著であるThe Golden Bough:A Study in Magic and Religion(1890)(邦訳は『金枝篇』)が思いつくが、現代人類学を築いたマリノフスキーの出世作である、Argonauts of the Western Pacific:An Account of Native Enterprise and Adventure in the Archipelagoes of Melanesian New Guinea(1922)(邦訳は『西太平洋の遠洋航海者』)もロマン溢れるタイトルだ。ラドクリフ=ブラウンのThe Andaman Islanders(1922)、レイモンド・ファースのWe, the Tikopia:Kinship in Primitive Polynesia(1936)、マーガレット・ミードのComing of Age in Samoa:A Psychological Study of Primitive Youth for Western Civilization(1928)(邦訳は『サモアの思春期』)なども、何が書いてあるのだろうと思わせるタイトルを付けている。ミードにはAnd Keep Your Powder Dry:An Anthropologist Looks at America(1942)という本もあるが、これはかなり大胆なタイトルで、さすがにイギリスで出版された際には The American Characterと改題された。本書の邦訳は『火薬をしめらせるな』で、これでは何の本か分からないだろうからと、「文化人類学者のアメリカ論」というサブタイトルも訳出された。それでも、タイトルが影響したのか、日本ではあまり話題にならなかったようである。対して、ルース・ベネディクトの The Chrysanthemum and the Sword:Patterns of Japanese Culture (1946)はタイトルのうまさも手伝って、日本では広く知られた本であるが、邦訳に際しては、『菊と刀』に「日本文化の型」というサブタイトルも訳出されている。
 他にも、マーシャル・サーリンズのIslands of History(1985)(邦訳は『歴史の島々』)や、シドニー・ミンツのSweetness and Power:The Place of sugar in Modern History(1985)(邦訳は『甘さと権力――砂糖が語る近代史』)なども印象的だし、ジャック・グディーのCooking, Cuisine and Class:A Study in Comparative Sociology(1982)も韻を踏んだタイトルとなっている。しかし何と言っても極めつけは、レヴィ=ストロースの本だ。どのタイトルも格好いいが、特にTristes tropiques(1955)は韻も踏んでいて、美しい。La Pensée sauvage(1962)もいろいろなものが凝縮されたタイトルで、邦訳しても前者が『悲しき熱帯』、後者が『野生の思考』とさまになる。Anthropologie structurale(1958)(邦訳は『構造人類学』)は、書名がそのまま、構造主義人類学の名を世界に広めるものとなった。しかも、どれも説明的なサブタイトルなどなく、タイトルだけで人類学を連想させる見事なタイトルだ。我々の世代が人類学の世界に入ったのは、レヴィ=ストロースからなので、当初から人類学の著作のタイトルはこういうものだと思っていた。
 こうしてみると、詩的なタイトルならサブタイトルをつけてもいいが、理想はメインタイトルだけで勝負することであろう。自分が今までにつけてきた論文や本のタイトルを振り返ると、もっと遊び心があってもよかったのではないかと思う。日本で出版されてきた人類学の本も概して硬かったと思うが、中には詩的なものもなくはない。近年の例でいえば、瀬川昌久氏の『連続性への希求――族譜を通じてみた「家族」の歴史人類学』(2021)などもその部類に入ろう。

■理系と文系

 こうしてみると、人類学者の書いた本のタイトルには詩的なものが多いような気がする。少なくとも人類学にはそうした伝統があり、強い縛りがない。なぜだろうか。学問である以上、人類学も帰納的なアプローチをとるが、人類学者が得るフィールド・データは、職人芸的な感性や洞察でもって集めたものが多く、議論の基礎となるエビデンスの内容からして、理系とは異なるのだ。こうしたデータをどのようなストーリーにまとめ上げるかは、人類学者個人の力量による。当然、タイトルもその延長線上につけられる。人類学が輝いていた時代というのは、多くの人を魅了する本の書き手が、輩出された時代でもあった。
 人類学のこうした特徴は、理系の学問とは対極にあるものと言えよう。というのも、そもそも現在の理系の研究成果は、本ではなく、論文として発表されるからだ。ここで詩的なタイトルなど、つけようがない。
 もちろん、理系の人が書く本のタイトルにも詩的というか、人の目を引くものもあることはある。リチャード・ドーキンスのThe Selfish Gene(2016)(邦訳は『利己的な遺伝子』)などはその好例だ。多田富雄の『生命の意味論』(1997)はどちらかというと正統派だが、福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』(2007)は、内容をかみ砕いたものではあるが、気にかかるタイトルだ。私もそれに引かれて購入した一人であったが、タイトルの妙味を別としても、どれも文系の人間にとっては哲学的な問題を喚起させられる面白い生命科学論であった。しかしこれは理系の人間にとっては、啓蒙的な著作に過ぎず、研究者としての評価の対象はあくまで論文であるようだ。
 理系の人にとっての本と違い、文系の場合は、啓蒙的であろうが専門書であろうが、評価の対象となるのは、本の方なのである。そうであるならばなおさら、文系の人間としては本のタイトルに凝りたいものだ。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

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