エッセーの流儀

投稿者: | 2023年7月14日

西澤 治彦

 

■研究者とエッセー

 資料をベースに書く論文と違って、エッセーというのは、自らの体験をベースに、心の内や頭の中にあることを文章化するものだ。従って、それなりの体験をして、人並みの感性と文章力があれば、面白いか否かは別として、誰にでも書けるものだ。そのためか、研究者の中には、エッセーなど全く書かない人もいる。自分の文章力を自覚して、書かない人もいようが、文才があっても、雑文を書く暇があれば、論文執筆に貴重な時間を割くべきだ、と考える人もいる。確かに、自称「エッセイスト」が論文を書けるかというと、難しい。しかし、論文とエッセーは同列に並べて優劣を競うようなものではない。
 振り返れば、私も若い頃は、備忘録的な散文はいろいろと書いたものだが、人に読んでもらうことを前提としたエッセーは書いたことがなかった。エッセーを書くには、経験が不足していたのだろう。どうでもいいようなことを、レトリックで読ませる文章にしたところで、それは単なる言葉遊びだ。
 旅行記の類は、若い時に書いたことがある。これは体験に基づくので、若くても書くことができた。しかし、今からみれば、後世に残すようなものでもない。映画評論の類も若い時から少しは書いていたが、この場合は論じる対象としての作品があるので、基本的には書評とさほど変わらない。エッセーぽい文体で書いたとしても、厳密な意味ではエッセーではない。旅行記や映画評論などは、素人でも書きやすいという点で、文芸世界への登竜門ともいえよう。最近では、「食べ歩記」もこれに加わっている。若い時は、文筆業で食っていけるのなら、と思っていたが、結局、研究者の道に入る事になった。 
 そして専ら専門的な論文を書いてきたわけであるが、今にして思うと、若いころに旅行記などを書いていたのも無駄ではなかった。というのも、文章で何かを人に伝える、という行為は、散文も論文も同じであるからだ。そして、ある程度の年齢になってから、再び散文を書くようになった。特にエッセーらしいエッセーを書くようになったのは、近年のことだ。ここでは、研究者にとってのエッセーに的を絞って、思うことを書きとめておきたい。

■論文とエッセーの間

 私が年を取って、エッセーを書きたいなと思うようになったのは、論文を書き尽くしたからではない。むしろ、やり残している仕事の方が多い。それでも貴重な時間をエッセーに使いたいと思ったのは、論文というある種の枠から飛び出したくなったのだと思う。論文には論文の流儀がある。研究者の世界で生きようと思ったら、それに従わなければならない。しかし、いいアイデアなのだけど、実証せねばならぬ論文という形式では書けない、ということがしばしばある。研究ノートという一段、低いステータスを受け入れる手もあるが、これもあまり気が乗らない。そんな時、エッセーなら自由に書けるではないか、と気がついたわけだ。この自由さを味わってしまったら、なんで長年、論文という狭い世界に閉じこもっていたのだろう、とさえ思うことがある。
 私がエッセーを書くことにさほど抵抗がないのは、若い頃から愛読していた研究者らの影響もあると思う。例えば、日本の東洋学の基礎をつくった内藤湖南や宮崎市定なども、多くのエッセーを書いている。湖南は新聞記者だったので文章に幅があるのは当然としても、宮崎市定のような実証的な研究者でも、時事問題を含めていろいろなテーマで書いている。文学はもともと幅が広いとはいえ、青木正児なども読み応えのある散文をたくさん書いている。正直、これら碩学の論文は全て読破していないが、エッセーの類はほぼ読んだと思う。それは面白かったからだ。楽しみながら自然と、学術的なエッセーというのもいいなと思うようになっていった。
 論文とエッセーの両方を読み込んでいくと、実はその境が思っていたよりも曖昧であることに気がつく。日本語で随筆というと、日々の生活を綴った情緒的な散文をイメージしがちである。おそらく、清少納言の『枕草子』や吉田兼好の『徒然草』などがイメージされるからであろう。日本ではすでに平安中期から存在している文学のジャンルと言える。
 欧州でも、内省的な文学のジャンルとしてのエッセーの起源は、モンテーニュの『エセー』(1588)まで遡ると言われている。フランス語のessaiの原義は「試み」であり、英語のessayもtrialの意味合いが強く、「試論」と訳されることもある。実際、essayは挑戦的なテーマに取り組んだ論文も含め、学術論文一般を指して使われることがある。ところが日本でこれを「エッセー」と表記すると、随筆、随想というイメージが強くなり、本来の語義が薄められてしまう。
 職業としての学問が制度化していくと、「論文のための論文」が量産されるようになるのは当然の流れであるが、反面、その分野の研究者しか読まなくなってしまった。こうした背景には、「論文」と「試論」との乖離が根底にあるからかも知れない。おそらく、内藤湖南を始めとする学者らは、こうした区別をあまり意識せず、自分が面白いと思ったこと、書きたいと思ったことを書いていたのではないかと思う。

■エッセーの本質

 エッセーには論文にない自由さがあると書いたが、気の向くまま書いた散文がそのままエッセーになるわけではない。また、エッセーが内省的になるのは、結果であって、条件ではない。人生経験を積むと、心や頭の中にいろいろなものが蓄積されていく。それらを振り返りながら書いていけば、自ずと内省的になる。
 一般に、エッセーというのは紙面が限られている、と思われがちだ。実際、現在の日本では、エッセーというと、コラムよりは長めの散文というイメージがある。しかし、本来の随筆や、試論としてのエッセーには、枚数制限などない。一冊の本でも、英語ではessayと呼ぶ。だから「エッセー集」というのは形容矛盾であり、本来は「短編エッセー集」とすべきであろう。従って、essayを「小論」と訳すのも、必ずしも正確ではない。枚数制限がある故に、余計なものをそぎ落とした簡潔な文章、というイメージがエッセーにはあるが、これとて、本来、全ての文章に求められることだ。
 では、エッセーの本質はどこにあるか。最初に、資料に基づく論文と、体験に基づくエッセーという区別をした。この大まかな区別はそれほど間違ってはいないと思う。エッセーでも、試論的な論文となると、資料に基づいて書くこともあるではないか、と言われそうだ。しかし、文献を読むというのも、ある意味、個人的な体験だ。その内容が頭に入っているのであれば、資料に基づいて書く論文でも、自分の頭を経由して書いているので、エッセーの範疇に入ってもおかしくはない。
 しかし、これはエッセーの表面的な区別であって、内面の区別ではない。では、エッセーをエッセーたらしめているのは何か。それはやはり、「試み」にあると思う。実証はできないかも知れないが、ひらめいたアイデアや思索を自由に書く。これがエッセーの真髄だと思う。緻密なデータを積み上げて書く論文の場合、議論が緻密であればあるほど、結論まで読むと、説得されてそれで終わりとなる。対して、エッセーは、必ずしも実証する必要はないので、大胆なことが言える。だから面白いのだ。反面、常に未完成さがつきまとう。しかし、これがまたエッセーがもつ余韻と広がりを生み出している。

■研究者の存在意義

 研究者が書いたエッセーを読んだり、自分でも書いたりしてみると、逆に研究者の存在意義というものが見えてくる。
 エッセーの中には時事評論というものもなくはないが、基本的にこれは評論家やジャーナリストが書くものだ。ニュース(news)は新しいほど値打ちがある。媒体も日刊、週刊、月刊、年刊と、時間が経つほど、新しさは消えていくが、それだけ対象が相対化、客観化できる。この時間を桁違いに経過させて、物事を考えるのが歴史家の仕事だ。ブローデルの言葉に「人間は近視眼である」というのがある。物事の本質は、対象から距離や時間をおいてはじめて見えてくるものである。レヴィ=ストロースも、「人類学者は人類社会の天文学者になるべき」という趣旨の発言をしている。ところが、今やネット上ではニュースの更新は毎時間になされるので、翌朝の新聞はもう誰でも知っているニュースしか載っていない時代となってしまった。
 こういう時代だからこそ、対象と一定の距離をとって、物事を冷静に分析していく研究者の仕事にはより大きな意味があると思う。これをさらに突き詰めていくと、一見、役に立ちそうに見えない基礎研究こそ、研究者の本来の仕事であると思う。これは理系に限らず、文系にも言えると思う。目立たないところで、何らかの形で人の役にたっていればそれでいいのである。
 とはいえ、研究対象や文章にするテーマには、自らから制約を課す必要はない。基礎研究の傍らでも、さまざまなアイデアや気づきがあるものだ。実証できないからといって、それらをメモで終わらせておくのはもったいない。エッセーという形で、それを文章化しておくと、自分自身、もやもやしたものが整理されるし、さらに新たな発見もある。そして、いつかそれが研究にフィードバックされることもある。この際、文章のうまい下手は重要ではない。問題は中身だ。特に、学術にかかわるエッセーというのは、研究者でなければ書けない。
 研究者がエッセーを書くメリットは他にもある。自分はエッセーを書いている、という自覚をもちながら文章を書いていくと、基礎研究としての論文との距離感が自分でも再確認できる。世の中に溢れている論文には、限りなく評論的な論文というのがある。特にテキストを扱う文系の学問だと、そうした論文が量産される傾向が強い。あくまでオリジナルなデータをもとに論じる理系からみたら、評論とどこが違うのか、と言われてしまうのも分からないでもない。
 評論的な論文が好ましくないと言っているのではない。文系から言わせてもらえば、オリジナルなデータではないにしても、解釈に新しさがあれば、それは論文に値するからだ。要は、文系の場合、基礎研究的な論文から、萌芽的な研究ノート、さらに評論的な論文、そして試論的なエッセーと幅があり、そのどれにも意味があるということだ。そして、基礎研究とエッセーはその両極にある。この両極の幅を広げることは、研究者としての懐の広さに繋がるはずだ。
 但し、全てに共通しているのは、研究者である限り、何か新しいことに挑戦していなければならないことだ。エッセーの語源から言えば、全ての研究者は本来、「エッセイスト」と称する資格があることになる。
 もちろん、研究者といえども、個人的で内省的な随筆を書くこともある。こればかりは経験の少ない若い時は書けないものだ。逆に言うと、そうしたエッセーが書きたくなった時というのは、ある程度の年齢に達したということだ。物事を極めたというよりは、人生の終盤にさしかかったということを意味している。だからこそ、説得力も増すし、味わい深いものになるのであろう。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

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