発表の流儀

投稿者: | 2023年5月15日

西澤 治彦

 

■発表の失敗談

 大勢の人前で話をするというのは、慣れていても簡単なものではない。聴衆との関係や人数、こちらの準備状況と体調などによっても、大きく左右される。失敗も含め、こうした経験を繰り返してくると、それなりにやり方が分かってくる。ここでは私なりにそのコツを紹介したい。
 ここでいう発表とは、学会や研究会などでの研究発表を指しているが、学生の前で話せば講義となるし、シンポジウムや市民講座などで話せば講演となる。基本はどれも同じだ。
 人前で発表らしい発表をしたのは、大学院の演習が最初であったと思う。少人数であったので、それほど緊張した記憶はない。むしろ、つまらない内容だと居眠りを始める先生らを、どうやって眠らせないかに腐心した覚えがある。仲間内の研究会となると、持ち時間もたっぷりあるので、ついつい盛りだくさんになってしまう。途中休憩をとった際に、洗面所に行こうとしたら、中から「長いね」「まだ半分もいってないよ」と聞こえた時にはばつが悪かったものだ。聞く側の集中力が続くのもせいぜい60分がいいところで、あとは質疑応答で存分にやればよかったのだ。
 院生の時に、一度、国立民族学博物館の研究会で、そうそうたるメンバーの前で修論の発表をさせてもらう機会があった。自分としてはうまくできたつもりでいた。終わった後に、発表を案配してくれた熊倉功夫先生に聞いたところ、「君、一回、自分の発表を録音して、聞いてみるといいよ」と言われてしまった。相当のショックであったが、それ以降、恩師のアドバイス通り、発表の度に録音しては後で聞き返すようになった。内容もさることながら、問題は話し方そのものにあることに気づき、その点を意識しながら改善していった。今にして思えば、このひと言のお陰で、話もうまくなれたと思っている。
 大学に職を得てからは、それまでの研究発表の教訓を活かして、毎回の講義でも、それなりにうまくやっている自負はあった。ところが、就職後直ぐの公開講座で、生まれて初めて300人を前に講演をした時には、壇上に上がった瞬間、緊張のあまり足が震えてしまった。汗もかくし、声も震えているのが自分でも分かり、落ち着くまでの10分間は大変な思いだった。準備も万端で、話し慣れた内容だったのにだ。この時ばかりは、改めて人前で話をする難しさを思い知ったものだった。

■発表の準備

 極度のあがり症の人を別としたら、緊張は慣れでなんとかなる。もう一つ、その場でパニックになっても慌てないためには、十分な準備をしておくことだ。「備えあれば憂いなし」とはよく言ったもので、これが落ち着きにつながる。さらに発表の前日か当日に、一度、シミュレーションをやっておくとさらに安心だ。
 当日、レジュメを配るなら、自分用のレジュメの余白に、話すべきことを書き込んでおく。パワポが中心になるなら、印刷したパワポ画面の余白に同様に書き込んでおく。こうすると、頭にも入るし、言葉につまった時の助け船となる。
 アドリブが苦手な人の中には、発表原稿を書いておいて、それを読み上げる人もいる。その気持ちは分からないでもないが、聞いている方は、興醒めしてしまう。読み上げるぐらいなら、原稿を配布してくれてそれを黙読する方が時間の短縮にもなる。発表の醍醐味は、あくまでライブ感にある。思ったよりうまくいかないこともあれば、想像以上に盛り上がることもある。原稿の読み上げだと、最後まで低空飛行のままだ。
 偉い先生の中には、たいした準備もせず、いきあたりばったりの漫談になってしまう人もいる。最初のうちはいいが、すぐに準備してこなかったことを見破られてしまう。暇つぶしにわざわざ発表を聞きに来る人はいない。
 大学院の演習や仲間内の研究会での発表の場合、構想段階の話をして、アドバイスをもらう、ということがある。これは最初に断っておけばいいが、ある程度は煮詰まっていないと、アドバイスのしようもない。特に、講演などフォーマルな場合は、完成したものを話さなければならない。大学院生のとき、千葉徳爾先生に、「未完成のものなら、発表しないというのも一つの見識だ」と言われたことがある。これは聞きに来てくれた人に対して失礼であるだけでなく、一度でもつまらない発表をしてしまうと、それで印象づけられた評価を覆すのは難しくなるからだ。

■いい発表とは

 面白い発表であったか否かは、聞く側が決めるものだ。その際の要素には、中身とパフォーマンスの両面がある。研究発表なら、話のうまい下手よりも内容の方が重要だし、講演なら、話し方がうまくないと内容の面白さがかすんでしまう。滔々と語るには、テンションもあげる必要があるが、その小道具となるのが、お気に入りのファッションだ。前列に座る人は、案外、男性講師のネクタイの柄など、その日の服装にも目をやるものだ。
 講義の場合は、学生の顔を見てから最初のひと言を発するが、講演などでは、二つぐらいの出だしを準備しておいて、その場の空気で決める。語り始めが簡潔で要領を得ていると、聞く方も期待感が高まるし、集中力も増す。理想は、マイクを握ってすぐに笑いを取れれば、空気も和らぐし、話す方もリラックスできて実力を発揮できる。こればかりは準備していてできるものではないが、前の講演者や司会のことばを受けて、笑いのネタがひらめくことが多い。
 ライブは常に一期一会の真剣勝負だ。何度も話している十八番の話をしても、その都度、受け具合は違うものだ。この即興性が適度の緊張感を生みだす訳であるが、話がうまくなってくると、この緊張感を楽しめるようになる。
 研究会などで、初めて発表する内容の場合、芸人で言えば初演のようなもので、自然と熱が入るものだ。それだけに疲労感もあるが、うまくいけば達成感も大きい。ある先生に、研究発表の裏技として、自信のないところはたっぷりと述べ、自信のあるところは控え目にするといい、とアドバイスされたことがある。発表後の質疑応答で、避けて話したところに質問が殺到するので、「待ってました」とばかり詳細に答えてみせる、という訳だ。何度か試してみたけれど、その先生の言った通りの展開となった。しかし、これでは自分の株は上がっても、勉強にならないので、その後はやっていない。
 発表を聞く側からみて、下手だなと思うのは、時間配分がまったくできない人だ。話慣れた人ほど「引き出し」が多く、余談ばかりで話が進まない人もいる。内容が薄いほど、時間余りになる怖さもある。逆に、盛りだくさんすぎて、時間が足りなくなってしまう人も多い。最後は駆け足になり、慌ただしく結論を述べて終わり、という発表も聞きづらい。もっとひどいのは、司会に促されても時間を平気でオーバーする人だ。
 かといって、早めに終わるのもよくない。ある時、簡潔に話したら、時間が余ってしまった。質疑応答の時間に回せばいいと思って切り上げたら、質問が盛り上がらない。手を抜いた発表をしたつもりはないのに、聞く側はそうは思わない。やはり時間一杯まで、話し切るのがいいようだ。
 毎週続く講義と違って、講演の場合は一回限りなので、結論までいって欲しいものだ。ところが、あるシンポジウムで、「時間がきたので、ここで止めます」と言って、突然、話の途中で止めた先生がいた。場内は大爆笑となった。そういう終わり方もあるのかと、新鮮ではあったが、年配の先生だから許されるやり方だ。いつか自分も真似てみたいと思ったものだが、まだやる勇気がない。

■発表をする意義

 研究者によっては、人前での発表が苦手な人もいる。そうでなくても、好きではないという人もいる。研究者は書いたもので勝負すればいいと。確かに残るのは、口頭発表ではなく論文だ。たった1時間の発表のために準備にかける時間や、当日の緊張を考えたら、割に合わないようにも思える。講演で相応の謝礼をもらってもだ。では、それでも発表する意義はどこにあるのか。
 依頼者に与えられたテーマであれ、自らの構想段階のテーマであれ、発表の日にちが決まっていれば、いやでも準備しなければならない。そして当日、研究発表ならいいコメントをもらえる可能性もあるし、講演でも思いもよらぬ質問が出たりするものだ。これらをベースに、文章化していくというのも論文の一つの書き方だ。一度でも発表しておくと、論の組み立て方もより整ってくる。振り返れば、私自身もこうやって新しいテーマの論文をいくつも書いてきた。依頼がなければ、一生、書くこともなかったであろうテーマも多く、発表によって自らの世界を広げてもらったと思っている。こうした経験から、依頼を受けたら可能な限り断らないことにしてきた。
 いろいろな所で発表をしてみると、たとえ素晴らしい内容であっても、それを限られた時間内に人にうまく伝えるというのは、別な次元の話であるということに気がつく。古典落語の名作でも、噺家が下手だと、別物となるのと同じだ。自信作であればあるほど、誰しも内容をうまく伝えたいと思う。そして回数をこなしていくうちに、自然と発表の技術も磨かれていくものだ。
 しかしそれは副次的なものだと思う。人間社会を対象とする社会科学を研究する限り、常に社会における自分自身の立ち位置を確認しておく必要がある。人文学の研究は基本的に一人でするものだが、他者の存在なしには成立しないものだ。口頭発表は、そうした他者と直に交流できる貴重な機会だ。市民講座などの講演会の場合だと、自分が面白いと考えるものが、どう受け止められるのか、というのを確認できる機会となる。さらに、海外で開催されるシンポジウムでの発表を経験すると、研究には国境がないことを実感できる。論文を書いても、どこの誰が読んでくれたのか、どんな反応なのかは分からない。本なら書評が出るかも知れないが、それでも数本がいいところだ。
 さらに言えば、発表や質疑応答そのものよりも、その後の二次会での議論が面白いものだ。互いに認め合い、一時でも議論を通して面白さを共有した研究者とは、ずっと関係が続くものだ。こうした人との出会いにこそ、人々が集う意味がある。発表はそのための呼び水みたいなものだ。あるいは、パーティー会場の料理みたいなものかも知れない。料理がおいしくなければ、会合も盛り上がりに欠けてしまう。発表者が、聞きに来てくれた人のために全力を出さなければならない理由はここにある。
 誰かに発表の機会を設けるということは、自分自身も発表を聞く側にまわらなければならない。人の発表を聞くというのも、新しい知見を得るというメリットに加えて、その人なりの発表の工夫を見ることができて参考になる。いいと思うところは自分でも取り入れる。文章の上達と同じで、うまい発表をする人は、いい見本をたくさん聞いているものだ。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

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