『東アジアは「儒教社会」か?』評 板橋暁子

投稿者: | 2023年5月15日
『東アジアは「儒教社会」か?』

東アジアは「儒教社会」か?
アジア家族の変容


小浜正子,落合恵美子 編
出版社:京都大学学術出版会
出版年:2022年12月
価格 3,300円

本書の裏表紙には、書名を忠実に訳した英語タイトル「Is East Asia a “Confucian” society? : Asian Families in Transformation」が記載されている。一方、カバーを外してみると、表紙には「I wonder how later generations practiced my teachings?」という文言があり、さらに裏表紙には「Did my Jiali (Family Rituals) transform East Asian families?」とある。前者は表紙画像のモデルである孔子が「後人たちは我が教えをいかに実践したのだろうか」、後者は裏表紙画像のモデルである朱熹が「我が『家礼』は東アジアの家族を変容させたのだろうか」とつぶやいている……ことを仄めかすような、いわば遊び心の込められた文言である。むろん彼らの基本的な世界観が「中華とそれ以外」である以上、中国とその東方諸国の同質性・連続性を重視する「東アジア」という概念自体、おそらく受け入れがたいものであろう(孔子は九夷=東方への移住を望んだともいわれるが)。だが、逆説的あるいは皮肉なことに、現代のわれわれが一定の地域を「東アジア」としてグループ化するその根拠の一部は、「歴史的に中国文明の影響を強く受けている≒儒教文化圏である」という点にあることも事実であり、いわば儒教の伝播・浸透が、中国文明の発祥地としての中国の優越性・中心性を希釈する方向へ働いたといえる。それはたとえば、明清交替を目の当たりにした朝鮮や日本が自らを中華と位置づけるに至った歴史的事象にも如実に表れている。孔子と朱熹が弟子たちとともに生前たびたび逆境や弾圧に晒されながらも守り抜いた信念と教説は、広範な儒教文化圏の形成という後世の現実によって、普遍的・持続的な価値を証明したのである。
 だが、儒教とりわけ朱子学が各地の当局による保護・推奨のもとで正統の地位を占めるに至ったことは、それぞれの社会のさまざまな層でその規範が(均一に、そして原型を保ったまま)浸透していったことを意味しない。それはとりわけ、上からの介入を徹底させづらい領域、すなわち社会の末端の単位であり個々の人間にとって最も基本的なコミュニティである「家族」というレベルにおいて顕著であることが予想される。本書は、その「家族」を軸として、「東アジアは(歴史的に、そしていま現在)儒教社会なのか?」という問いに正面から取り組んだ論文集である。中国語圏のほか、ベトナム・朝鮮半島・琉球・日本といった、古くから儒教を受容してきた各地域の専門家が欠けることなく揃い、すべての論文が「儒教と家族」というテーマを共有していることが、まずもって画期的であると思われる。
 本書の編者のひとり小浜正子氏は、近年、単著『一人っ子政策と中国社会』(京都大学学術出版会、2020年)や共編著『アジアの出産と家族計画:「産む・産まない・産めない」身体をめぐる政治』(勉誠出版、2014年)等によって中国ほか現代アジア各国のリプロダクションを焦点とした重要な成果を発信しつづけるとともに、歴史学者としての立場から、共編著『中国ジェンダー史研究入門』(京都大学学術出版会、2018年)、編著『ジェンダーの中国史(アジア遊学191)(勉誠出版、2015年)等を通じて、中国史研究におけるジェンダー主流化――階級・階層や民族・エスニシティなどと同様に中国史を規定する要因のひとつとしてジェンダーを位置づけ、研究に取り込むこと――を推進し、ジェンダー秩序の解明こそをこれからの中国史研究における重要な課題として提起してこられた。なかでも、歴史的に盤石だったと観念されやすい中国の父系制は果たして古来より一貫して強固なものだったのかという問いは、本書の出発点と少なからず重なるものである。
 本書のもうひとりの編者である落合恵美子氏は、家族社会学・歴史社会学を専門とする立場から、近代家族論の先駆的著作『近代家族とフェミニズム』(勁草書房、1989年)を始めとして、近年では単著『親密圏と公共圏の社会学:ケアの20世紀体制を超えて』(有斐閣、2023年)、編著『親密圏と公共圏の再編成:アジア近代からの問い』(京都大学学術出版会、2013年)等を通じて、とくに近代の展開に重心を置きながら、アジアにおける「家族」のありかたを絶えず問い続けてこられた。とりわけ共編著『リーディングス:アジアの家族と親密圏』全3巻(有斐閣、2022年)は、近世から近現代が中心でありつつ非儒教文化圏のアジア諸国をめぐる論考を多く収めることが本書との相違である。その第3巻『セクシュアリティとジェンダー』所収の落合氏による「序論 アジアの重層的多様性:セクシュアリティとジェンダーから見る」は、父系的なアジア主要文明圏が形成された前近代から擬父系的ともいうべき近代にかけてのアジア社会の変容を巨視的に捉え、「双系的アジア」と「父系的アジア」という区分を本書に先立って提示しており、併せての読書をお勧めしたい。
 本体の紹介に入るまでが長くなったが、本書の主旨は、小浜氏による序章で述べられるように、「21世紀の東アジア社会について理解するためには、その大きな特徴と考えられている「家族主義」の形成に強く影響した「儒教社会」について検討する必要がある」(本書3頁)という問題意識から、東アジア各地「儒教社会」の実態と変化の諸相を近世から現代まで探ることを通じ、現在の東アジア社会に対する理解を深めることにある。なぜ、起点は近世なのか。それについては後述するように本書の序章・終章で示されている。
 本書全体の構成は以下のとおりである。

序章 東アジアの家族主義を歴史化する(小浜正子)
 【第Ⅰ部 多様な儒教化――東アジアの近世】
 第1章 家にかかわる儒教の教義について(小島毅)
 第2章 儒教の「普及」と近世中国社会――家族倫理と家礼の変容(佐々木愛)
 第3章 朝鮮の親族制度に対する儒教の影響――マルティナ・ドイヒラーによる再考察(マルティナ・ドイヒラー/岩坂彰[訳])
 第4章 近世日本の刑法と武士道儒教――忠孝を中心に(牧田勲)
 第5章 儒教思想の日本的受容と職分観念――性別役割に注目して(吉田ゆり子)
 第6章 姓の継承・創設――近世琉球の士の制度と、近代沖縄のシジタダシ(武井基晃)
 第7章 「儒教」の重層、「近世」の重層――近世北部ベトナムにおける親族集団と村落社会(桃木至朗)
 第8章 東アジアの養子縁組文書の比較――儒教的宗族原理の矛盾(官文娜)
 【第Ⅱ部 脱/再構築される儒教――近現代アジアの家族の変容】
 第9章 日本の民俗慣行と儒教――支配・村・家の変化(森本一彦)
 第10章 朝鮮大家族論を再考する――朝鮮時代における戸の構成と家長権を通じた考察(鄭智泳/姜民護[訳])
 第11章 娘たちがつくった祠堂――現代ベトナム村落における儒教と逸脱(加藤敦典)
 第12章 娘たちの反乱――現代韓国社会における女性と宗中財産(文玉杓/伊藤理子訳)
 第13章 墓のない故郷へ――現代中国における「家」の機能(王小林)
 終章 親族構造・文明化・近代化――世界的視野における「儒教社会」(落合恵美子)

ここでは、本書の総括といえる序章・終章の議論を見てゆきたい。
 序章では、近年の岸本美緒氏の議論をふまえ、東アジア世界の共時的な変化――明清交替期を挟んだ社会の流動化と安定、経済活動の活発化など――が進行した16~18世紀を本書の近世と規定する。近世とは、旧来の秩序が解体され新しい秩序の構築が模索される中で、現代へと連なる国家の地理的・民族的枠組みが創出され、現代の我々が「伝統」と呼ぶ様式が編成された時代であり、東アジア各地の社会に儒教的規範が浸透し家族制度の儒教化が進行したのもまた近世であると提示される。そして19世紀後半以降、東アジア各地は西洋と本格的に接触する中で、半植民地化、植民地化、列強への加入といったさまざまな「近代」を経験することになるが、国内を画一的に統治する近代的機構のもとで家父長制が強化されるという共通の傾向が立ち現れる。現代の東アジア各地では儒教が「ナショナルな伝統」としてしばしば資源化されているという指摘は、「国民」の創出と養成を目指す近代国家起源の家父長制が、現代では時に「儒教社会(あるいは近世以来)の伝統」として装われる問題をも想起させる。
 終章では、本書の企画に際しての出発点となったふたつの問いが、そしてそれぞれへの答えが示される。ひとつめの問い、「東アジアは本当に「儒教社会」なのか」に対しては、東アジアは儒教という文明のみによって定義しうる地域ではなく、基層的な「親族構造」の形成、その上に「儒教化」などの「文明化」の波及、さらにその上に「近代化」の到来という重層的な変化が作用し合うことで東アジア各地の個性が形成されてきたものとする。東アジアの中でも周縁的な地域は、家族制度の儒教化が進行した近世を通じてなお双系的親族構造を少なからず維持したという点で、「広義の東南アジア」に位置づけられる。ふたつめの問い、「ジェンダー史において「近代」はどれほど決定的だったのか」に対しては、近代家族型ジェンダー秩序の導入の影響は「広義の東南アジア」においてとくに大きかったと結論づける。日本も含む「広義の東南アジア」では、近世を通じて女性の社会的活動が比較的認められ貞節規範の束縛も相対的に小さかっただけに、「近代化」の到来、すなわち儒教的父系制に一見近似しながらも異なる論理に支えられた疑似父系的な「近代化」のインパクトが、家庭や個人においてより深刻に表出したと見ることができる。
 中国本土における儒教の発展と周縁地域への伝播は、律令制以前からの長い歴史をもつ。だが本書は、東アジア全域における儒教を扱いながらも通史的アプローチはとらず、近世と近現代という二部構成で論じたことにより、当該時期に高まっていく東アジア世界の共時性そして重層性を明確に浮かび上がらせたと言えよう。第I部では主に親族結合の形成、第Ⅱ部では主に祖先祭祀の実践に関する諸問題が基本テーマとして設定されたことで、各社会の相違点と相似性が対照的に提示される。他方、家族制度の儒教化が進んだ近世(のとくに後期)という時代が、現代において「伝統社会」と認識され、「伝統的な家族像」がしばしばその中に見出され理想化されている背景には、東アジア各地の事情があると考えられるが、それらのメカニズムについても今後考察が俟たれる。
 東アジアという地域概念を語る上で儒教を切り離すことはできず、儒教を語る上で家族・親族秩序の問題は切り離すことができない。単純に見えて複雑なこれらの関係性をより高い解像度で理解するために、本書は豊かな手がかりを与えてくれるものである。

(いたはし・あきこ 東京大学)

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