中国古版画散策 第八十五回

投稿者: | 2023年4月14日

麻姑のはなし(下)
――知られざる女仙『麻姑山丹霞洞天誌』瞥見

瀧本 弘之

 顔真卿といえば、力強い太い書体の「顔体」を思い浮かべる。……のが私などは習慣になっている。その出身(本貫)は山東省の琅邪郡臨沂県という。山東の臨沂といえば、すぐに諸葛亮を思い出すのは、三国志オタクでなくとも当たり前かもしれない。もっとも中国の臨沂市の観光名所を調べると王羲之故居・諸葛亮故里・顔真卿故里などが挙がるから、あながち不自然ではないだろう。むしろ王羲之までこの地の出身だったということで、王羲之といえば浙江方面の人とばかり思っていたのを訂正しなければならないか。観光ブームで山東にもガチョウの遊ぶ故居が必要になったのか。

図1 褚遂良「雁塔聖教序」東京国立博物館蔵本

 顔真卿には、その昔世話になり損ねた。思いついて書の稽古をしようと、手本を買い求める段になって褚遂良に鞍替えしたのである。あまりに自信たっぷりな顔氏の書風が煙たくなったのかもしれない。「雁塔聖教序」の最初の数行を練習した記憶がある。以後数十年ご無沙汰だ。今回、改めて「聖教序」を見直して、とても懐かしくまた好ましく、あたかも昔の恋人に出会ったような感懐をもったのである。
 前号では少し顔真卿と麻姑との関係について語った。時代を異にする歴史上の人物と仙人がどう絡んだのか。
 唐の時代は一口に言って300年とされるが、西暦換算で618年から907年になり290年だ。これだけ続いたためふつう漢・唐の王朝は中国史でも最も偉大な時代とされている。一般の印象では、唐代は三蔵法師(玄奘三蔵)の天竺取経を下敷きにした『西遊記』などの通俗小説の影響からか、ずっと仏教が盛んな時代のように思われているが、必ずしもそうではなく、国教としては道教がより強かったという。日本では、隋唐から仏教を移入して鎮護国家などと喜んでいたが、本家ではさにあらず仏教も安泰ではなかった。仏教と道教は互いに攻撃しあい、敵対関係にあったようだ。それに中国古来の儒教も絡んで、三教が覇を競っていた。
 仏教が受難した最も有名な事件は「会昌の廃仏」と呼ばれる。武宗の会昌五年(西暦845年)にはじまったため年号で呼ばれる。一時猖獗を極め、当時たまたま日本から留学して仏教を学んでいた円仁(のちの慈覚大師)が、運悪くこの被害にあった。その委細は『入唐求法巡礼行記』(東洋文庫・平凡社)に詳細に記録されている。多くの僧侶や尼僧が還俗させられ、仏寺は廃された。日本でも明治初めに廃仏毀釈ということが行われたが、大陸の廃仏ははるかに徹底していたようで、円仁らは中国を追われて朝鮮半島経由で帰国の羽目となった。
 なぜ道教が盛んだったのか。一つの理由として、唐王朝が老子と同姓で李氏であったことから、道教を大いに尊崇し、保護し利用したことがあるらしい。古いほどえらいということが常識として通る国だから、先祖がこんなに昔から偉かったのだと権威づけをしたかったのだろう。なるほど孔子様より老子が古いとされていたが、それは伝説に過ぎない。孔子が老子と会見したという場面も、後漢の画像石に描かれていたりするのだが……。

 顔氏は六十代のほぼ十年間を都から離れて、地方長官として撫州・湖州に赴任しここで政務を執った。撫州刺史も湖州刺史も、いずれも自ら望んで得たわけではなかったが、中央官界から遠く離れ、しかも温暖で美しい自然豊かな南の地で、文人生活を満喫できたらしい(吉川忠夫『顔真卿伝』法藏館 2019年)
 『麻姑仙壇記』には、当時の「図経」(地図や県志の類かと思われる)を元にして麻姑の賛辞を書き連ねている。これは実際に顔真卿が麻姑山を踏査してその結果を記述しているわけではないようだ。顔真卿には六朝人・謝霊運のような山水踏査癖はなかったらしい。また道教の仙人を奨揚する文言が書き連ねられているが、それは道教を崇拝する唐王朝の忠臣として当然のことだったろう。詳しくは同書の読み下しを提供する『新装書道藝術』第四巻(中央公論新社 平成十三年刊)などを参照されたい。

 前回紹介しかけたオークションサイトでの情報だが、国家図書館の李致忠氏によると『麻姑山丹霞洞天ママ(おそらく国家図書館[北京図書館]のもの)は、「首有麻姑仙壇図、丹霞洞天聖境図、麻姑山七夕会宴図、従姑図等連幅形勝版画五幀,并麻姑仙像一幀,雕鐫精美,為明代版画上乗之作」という。明の古版画の上乗の作ということは間違いないと断定されている。私も同意見だ。
 一方、我が国立公文書館のものは、由緒ある佐伯藩毛利高標献上本である。
 『麻姑山丹霞洞天誌』は四冊本(国家図書館のものは冊数が多いようだ)で十七巻(鄔鳴雷・陸鍵 明万暦四十一年[西暦1613年]序刊)、挿絵は第一巻にのみある。目録によると、挿絵の最も位の高いものは、麻姑の肖像(姑仙聖像図)で「本尊」だから当然だ(前回紹介済み)。これに続いて麻姑山総図、麻姑山仙壇図、丹霞洞天勝境図、三谷雲門図、従姑山図一、従姑山図二、そして最後に七夕羣仙宴会図とあるが、この羣仙図は内閣文庫の実物では見当たらない。
 二巻から七巻までは、それほど注目すべきことはないが、二巻には麻姑の伝記を載せている。それには「麻姑古宣城人也。今寧国路有麻坊。其地挙皆麻氏」とある。宣城は安徽南部の地域で、当時の宣城の寧国路には麻坊とよばれる坊があって住民は皆麻氏だったという。それに続いて麻姑の伝記は概略を記録しているが、みな故老の相伝に過ぎない。八巻以降は歴代の詩文を収録していて、そこにはよく知られた唐代詩人をはじめ、明に至るまでの著名人の名前と詩作が羅列される。
 初めの一冊の図版を並べてみる。
 版本の状態では、全体像が分からなかったが、こうして繋げてみると俯瞰的に麻姑山が理解できる。「片観音」になった折り込み頁を繋ぎ合わせるのには苦労したが、結果はどうにか満足できるものになった。どの図版も縦の長さは同じで、本の縦の大きさは26センチメートルほど、版面は縦19.5センチ程度だ。図2から図7までは、みな縦19.5センチだ。

図2 麻姑山総図 国立公文書館蔵。以下すべて同じ
図3 麻姑山仙壇図
図4 丹霞洞天勝境図 右上端に表題が小さく出ている。
図5 三谷雲門図? 図の中に表題の記載はない。

 縦長の版本の半面に、横長のパノラマ的な広がりを詰め込むのには、造本上に厳しいものがあったろうが、「片観音」の形式を複数並べてどうにか実現している。紙の表裏に印刷しているものもあるようだ。そうした複雑な構造のものを切り貼りしてともかくみられる形に戻すのは、結構大変な作業だった。当時の読者は、これらの錯綜した画面を頭の中で組み立て直して理解していたのだろうか。
 前から順に、
 ①麻姑山総図、②麻姑山仙壇図、③丹霞洞天勝境図、④三谷雲門図、⑤従姑山図一、⑥従姑山図二、
となるはずだが ⑦七夕羣仙宴会図は捜しても見つからない。オークション出品のものは図版が一部だけしか公開されていないので、詳細は不明だ。また4番目の図版には図中に表題がないが、これがおそらく「三谷雲門図」なのだろう。七夕羣仙宴会図は刊行時に初めからなかったかもわからないが、李氏の跋には名前が挙がっている。但し李到忠氏が図を見ずに、版本の目録にたよって跋を書いたこともあるかもしれない。前回に掲載した麻姑仙人像を入れれば全部で八図があったはずで、そのほうが数字的には相応しい。

図6 従姑図一

 この仙境の図を図2「麻姑山総図」から順に見ていくと、これが地図なのか絵なのか判然としなくなるが、それこそが中国の民間絵画なのであると考えたい。よく見ると手前には結構な幅の川が流れていて、「麻姑山総図」の左前側には不思議な岩のような形の構築物もある。
 普段、乾隆時代の殿版(避暑山荘図、南巡盛典図)などばかり見ていると、そこに整然と彫られた刀跡には感心するが、遺憾ながらまったく人間の姿が出てこない。鳥も動物もいないのはなぜか。これは皇帝の所有物である風景を汚すのはご法度――という厳しい「不文律」からなのだろうが、そういう「約束」は、なまぬるい(親しみやすい)日本の風景に慣れ親しんだわたくしのような俗人には、受け入れがたい冷酷さを感じさせる。ところが、混乱を極めていた明の万暦から天啓年間のこうした民間の版本には、いたるところに憩い集う人物が登場するのでほほえましい。皇帝版画か民間版画か、どちらが優れていてどちらが劣っているというものではなく、それはそういうことなのだ……と悟るばかりだ。

図7 従姑図二
図8 反転部分図(三谷雲門図の左下部分の天地を反転拡大)

 図3麻姑山仙壇図の川中にある大きな石のうえでは、向かい合って何やら話に興じている仙人のような人々が見受けられる。図5三谷雲門図などの手前には、豊かな水をたたえた川の流れがあり、帆を挙げた舟や釣り糸を垂れる人々も見られる。薪を担いで往来する人物は随所に歩いている。そして川を挟んで対岸にもいろいろな施設がつくられている。興味深いのは、三谷雲門図の対岸に続けて並んだ構築物だ。場所を示す文字も、天地が逆に彫られている。もっともこうしたことは、古典の地図などでは特に異とすべきことではなく、我が国の江戸時代の版本・地図などと同じで、よくみられる。
 反転した図版から読み取れるのが、「麻源三谷、唐宋名人古▢(篆?)詩、紫薇郷、白雲▢▢、源口雲豊、酒家」で、人間味を感じるのは「酒家」があるからだといえば納得いただけるだろう。図では一番右に位置する数件の建物「酒家」はいうまでもなく、飲み屋である。川の向こうは仙境で、こちらは酒境である。そして川を境に図の文字が反転・逆立ちしているのも、何やら意味があるように感じてしまう。

 以上が私のささやかな麻姑仙境レポートである。最近、ネット上には現在の麻姑山にまつわる多様な情報があるようだが、あえてそういうものは目にしないで、太古の桃源郷をイメージしながら、こまごまとした何枚もの図をご覧になるほうがいいと思う。

(たきもと・ひろゆき 著述家、中国版画研究家)

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