ノートの流儀

投稿者: | 2022年9月15日

西澤 治彦

 

■ノートをとる人

 人がノートをとるのは、忘れないように、あるいは忘れてもいいように、記録に残すためである。ここでいうノートとは、メモや伝言、日記、レシピ、講義ノート、備忘録、カルテ、議事録など、広義の意味での文字による記録を指す。前者ほど個人的なもので、後者になると、公的なものとなる。どれであれ、記録に残そうと思うのは、そうする価値があると考えるものに限られる。だが、取捨選択したとしても、人は全てのことを覚えておくことなどできない。そこでノートの出番となる。
 人が成長して文字を覚え、本格的なノートを取り始めるのは、日記などを別にしたら、学校教育の場であろう。しかし、現実には、学生は板書されたものを書き写していることが多く、必ずしもノートのとり方の訓練を受けているわけでもない。そういう授業を受けてきた学生の中には、大学に入っても、ノートのとりかたが下手というか、よく分からない人もいる。人の話から重要なところ、自分が面白いと感じたところを選びだし、メモする力が弱い。話す情報量は板書の十倍以上はあろう。それだけ密度の濃い話をしているのに、もったいない話である。
 ノートのとり方というのも一つの技術である。技術は磨けば磨くほど向上する。ここでは私なりに、ノートのとり方を振り返りながら、ノートにまつわるさまざまなことを考えてみたい。

■メモとノートの間

 一口にノートといっても、いろいろなとり方があるし、媒体もさまざまだ。今でも基本は、「ノート」の語源であるnotebook、つまり綴じられた真っさらの紙の冊子だ。ノートにも大小あるが、小さくなると、手帳となってくる。ノートの良さは、頁めくりができるので、日誌などには最適だ。フィールドワーカーも、ポケットに入る大きさのノートを、フィールドノートとして持ち歩く。書ききっても、冊数を増やしていけばいい。
 但し、ノートには、頁の順番を変えられないという欠点がある。そこで登場したのが、ルーズリーフだ。大きめのカードも同様だ。短文用には、一枚ずつ剥がせるタイプのメモ帳というのもある。これらは、後でシャッフルできるので、便利といえば便利だけど、年月を経るとバラバラになってしまい、保存という点ではノートには及ばない。
 ノートの話なのにメモを加えるのは、実はメモとノートの間には明確な境がなく、シームレスであるからだ。さらに言えば、ノートと文章化されたものとの間もシームレスだ。手紙などの短文を別にすれば、文章というのは、メモやノートを見ながら、組み立てていくものだ。特に長い文章となると、大量のノート類が必要となる。換言すると、よく練られた文章にはいいノートがあり、そのノートの前には、大量のメモがあるのだ。これらは単なる入れ子の関係ではなく、小さなものの質が大きなものの質を高めていく関係にある。従って、文章のうまい人はノートのとり方がうまいし、ノートのとり方がうまい人は、メモのとり方がうまい。
 いいアイデアというのは、文章を書きながら出てくることもなくはないが、ふとした瞬間に思いつくことの方が多い。そのため、断片的なものとなる。これらを忘れないうちに、メモという形で残しておく。それらを後日、ノートにまとめ、さらにそれを元に文章化していく。この断片的なメモの数々を、意味あるものに繫ぎ合せるにはどうしたらいいか。昔から、天才肌の人は、それを頭の中だけでやっていた。普通の人でもこれをする方法がある。それは、メモを書いた用紙を並び替えることだ。バラバラにできるメモ用紙の利点は、このシャッフルできる点にある。断片的な事象やアイデアを有機的に繫げるには、個別のメモをあれこれと並べ替えて、脳内のシナプスが連結するのを視覚的に補助するというわけだ。
 実は、これは私が考えた方法ではなく、文化人類学者の川喜田二郎が1960年代に提唱したやり方だ。イニシャルをとって、KJ法と呼ばれる。晩年の先生の講義を大学院で聴いたことがあるが、あまりKJ法の話はしていなかったように記憶している。温厚ながらも飄々とした翁という感じで、好きな先生であった。また、同時期、エドワード・デボノが「水平思考」というのを提唱した。一つの物事を掘り下げていく従来のやり方を「垂直思考」と呼び、斬新なアイデアを生み出すには、一見、関連がないような要素が並んでいる水平面に視点を移動させる必要がある、というものだ。両者は、細部の方法は異なるにせよ、発想としては近いものがある。大学院生の時に、こうした発想法に触れることができたのは好運であったと思う。
 こう考えると、メモやノートをとるという行為は、文字を作りだした人間が、自分の脳の限界を補おうとする行為でもある。別段、ノートなどとらなくても、一生を送ることはできる。しかしノートをとることにより、こうした脳の機能を、ほぼ無限に拡張できる方法を手に入れたと言ってもよかろう。

■私なりのノートのとり方

 大学院生以来、私なりに試行錯誤をしてきたが、今は古典的なノートと、メモ代わりの紙とを使い分けるようになった。メモ用の紙は、いつしかA4のコピー紙に落ち着いた。A4用紙を使い始めたのは、ミスプリントしたりした反故紙が溜まっていたからであった。小さな文字が苦手な私には、このサイズが丁度いい。字の大きさも自由だし、上下左右すら問わない。カードほど厚みもないので、畳んでポケットに入れることもできる。数行の走り書きをするには、ノートはもったいない。
 A4サイズは、KJ法で使う紙と比べたらだいぶ大きいが、そう使いたければ切ればいい。裏に糊がないので、ホワイトボードに貼り付けることはできないが、机の上に並べれば事足りる。その一方で、頁番号を右上につけておけば、後で順番を揃えることも簡単だし、ホチキスで綴じるなり、ファイルに入れればノートにもなる。この利便性がA4サイズにはある。
 ノートの代用以外にも、A4の用紙は、講演で話す際のメモや、講演に対する質問やコメントの下書きなど、何でも使える。ノートの頁をめくりながらコメントするよりは、時間と相談しながらコメントに優先順位をつけ、それを書いた紙を机の一番上に置いて話す方がスマートだ。
 これ以外にも、ふと推敲中の文章のいい表現が浮かんだ時とか、新しいアイデアを思いついた時も、走り書きする。夜中に起きて暗がりで書いたメモなど、翌朝、自分でも読めない字があることがたまにある。そして後日、それらのメモをもとに、文章を手直ししたり、アイデアをワープロに打ち込んだりしていく。紙のあちこちに書きなぐっているメモの入力が終われば、そのメモのところを線で囲っていく。塗りつぶさないのは、後で再チェックできるようにするためだ。そして全ての走り書きに囲いができたら、つまり、全てのメモの入力が終わったら、そのメモは丸めて捨てる。この時のすっきり感が心地よい。
 最終的にワープロに入力するなら、何も紙にメモをしなくても、最初からスマホのメモ帳などに入力すればいいではないか、と言われそうだ。中には、講演などを聴きながら、要点を直接ノートパソコンに入力する人もいる。これは会議の発言を記録する議事録の場合には適している。病院のカルテも近年は電子化されている。こうした公的な記録を別としたら、私はやはり入力前の段階で紙にメモをとりたい。スマホのメモ帳への入力は私も実際にやってみたが、大量に溜まると、どうも活用しにくくなる。そして何よりも、その場に居合わせた紙媒体の方が、直筆だけに筆跡や筆圧なども伝わり、また未整理な分、その場の空気も封印される。無機質なデジタルデータには、こうした余白や余韻がない。こうした臨場感は、メモを文章化していく際、その時の気持ちを蘇らせてくれるという意味で、大切なのだ。
 近年は、電子デバイスが発達し、スマホがあれば、写真や録音、さらには動画も簡単に撮れるようになった。単純な記録としては、こちらの方が向いているし、私も活用はする。しかし、これはノートとは違う。写真をいくら撮っても、メモリー上にデータを積み上げていくだけだ。録音も時間が流れていくので、テープ起こしをして、時間を止めて可視化しなければ使えない。動画も同様だ。数頁のメモなら読み返すが、数時間の動画を見直す人はいない。
 かく言う私も、読書ノートだけは、今はワープロを活用している。昔はノートをとったりもしたが、こればかりはワープロの方が、その後の活用範囲が広がる。但し、いきなりワープロに入力することはない。本を読みながら、重要なところは線を引き、さらに本の余白に書き込みを入れるのは、以前と同じだ。そして、一章なり一冊を読み終えた段階で、要点と自分のコメントをワープロに入力する。本に線を引いたり、コメントを書き込むというメモに相当する作業を本のページ上でしているので、途中の過程を省略している訳ではない。読書ノートをA4サイズにプリントアウトして、ファイリングすればノートになるし、複数のテーマを扱った内容であれば、複数印刷し、テーマごとのファイルにそれぞれ入れておくこともできる。プリントアウトしたものは、そのまま講義ノートの一部として使えるし、さらに圧縮すれば、講義で配布する資料にもなる。

■ノートをとる意味

 ノートはあくまで個人的なものであるが、時にこれが公開されることもある。かつては、ソシュールや内藤湖南の如く、講義ノートが弟子らによって出版されるということもあった。シェフが創作した料理の記録が、後に「レシピ集」として出版されることはよくある。作家の日記も同様だが、文化人類学の分野でいうと、マリノフスキーの「日記」も没後に出版されている。これらはいずれも、書いた本人は後に出版されることになるとは、考えてもいなかった。それだけに、個人の私生活を覗くようなところがあり、これが他の本にはない面白さとなっている。
 ところで、記録のために書いたノートであるが、意外と、これを読み返すことはないものだ。例外は、試験前に読み返す講義ノートぐらいで、これとても試験が終われば、読み返すことはない。備忘録といえども、まず読み返さない。なのに、なぜ人はノートをとり続けるのか?
 実は、ノートが記録となるのは結果であって、その前段階に隠れた意味がある。一つは、多くの中から価値あるものだけを選び出すこと、第二に、その要点をまとめながら文章化することによって、脳を能動的に使っている。この過程を経ることによって、大事なことだけが頭に入っていくのだ。とはいえ、何年も経てば、一旦は頭の中に入れたことも忘れてしまう。しかし、その時その時に頭に入れたことは、脳内のどこかにひっそりと残っているものだ。この蓄積が宝物となる。というのも、ふとした瞬間に、それが別なある情報と結びついて、新たなアイデアを生み出すことがよくある。こう考えると、ノートは未来の自分に対する投資というか、贈り物ということもできる。ノートのとりかたは人それぞれだが、ノートをとろうとする心の深層にあるものは、皆、同じである。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

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