『説文解字叙』批判 三段文字史観の易と文身(入れ墨)

投稿者: | 2022年8月15日

松宮 貴之

■説文解字

 中国の文字学史に於いて、長年、王者として君臨し続けてきた『説文解字』は、批判されることの許されない、半ば神聖な存在であった。その序文に、

古者庖犧氏之王天下也、仰則觀象於天、俯則觀法於地、視鳥獸之文與地之宜、近取諸身、遠取諸物、於是始作易八卦、以垂憲象。及神農氏、結繩爲治、而統其事。庶業其繁、飾僞萌生。黄帝之史倉頡、見鳥獸蹄迒之迹、知分理之可相別異也、初造書契。

(その昔、庖犧氏が天下を支配していたが、空を仰いで天文を見、地に俯して法則を見、鳥や獣の模様と土地の適否とをよく視て、近いものは自身で感得し、遠いものは、自然現象で察した。そこで始めて易の八卦を作り、法則をもつシンボルを垂示した。神農氏は縄を結んで世を治め、庶事を統べようとするに及んで、多くの仕事が極めて繁雑となり、飾り偽ることがきそって生じた。黄帝の史官倉頡は、鳥や獣の足跡を見、その模様で物それぞれを区別できると知り、初めて書契を造った。)

(『説文解字』序)

とある、易→結縄→文字と推移する三段文字史観は、凡そ1900年信じられてきた。
 しかし、殷墟からの甲骨文字の発見によって、それは蒙昧な神話であったとされ、その批判がなされた。しかし昨今の出土資料の発掘から、ある程度の史実を反映しているのではないかという再批判がなされ始めている。
 ここでは、三段文字史観が完全な神話なのか否か、その虚実を改めて考察したい。

■甲骨文字の爻

爻は、抽象的な文字を表した記号。甲骨文では教育施設を象徴して用いられている。なお甲骨文字には、「字」はなく、また文()も文字の意味では使われていない。

(落合淳思『甲骨文字辞典』朋友書店、593頁)

 落合淳思氏に拠れば、現在の易の「爻」字を構成する「㐅」(✕、音読み「バチ」「ゴ」)について、文身を意味する「文」(『甲骨文字辞典』37頁)や「奭」(同45頁)に使われていることから、「文字の一般形」と考えられている。
 また「教(敎)(同87頁)や「学(學)(同504頁)に使われていることからも文字として矛盾はなく、後の時代に、「駁」の旁や「希」の上部に使われていることは、別の解釈がされたとし、少なくとも甲骨文字の段階では「文字の一般形」と考えるのが整合的であるとされている。
 つまり、当時にあって、㐅は文身を表象するとともに、文字を意味したことが分かる。

■罰と✕

 漢字文化圏の場合、呪象という形で、祖霊への祈りが継承されてきた歴史がある。その象徴が、✕・+、つまり交差である。そしてその集積が漢字という表象である。
 想像を逞しくしてその総括を敢えてすれば、古代中国の原住民の男性は、異族、敵族の首を狩ること(殺戮)によって、成人と認められ、「✕」「㐅」(音読み「ゴ・バチ」)〈罰の施行〉の入れ墨を許され、死後、極楽への他界が保証されたのだろう。そこから派生して、呪術、まじないの意味となり、さらに女性も身籠れる齢になると、異族に捕らわれ奴隷にされる前に、✕の入れ墨が施され、祖先の守護を求める儀式ともなったと考えられる。
 またそれが通過儀礼化し、子供が生まれると守護の意味を込め、額に彡が筆書される習俗(産字)となる。祖先に護ってもらうためである。逆に異族に捕らえられ、敵族の入れ墨を施されることは、死後も異族の他界に奴隷として仕える表象とされ、それが、墨刑の原初的な意味となったのであろう。
 そして、その「✕」が「罰」であり、「バチ」とする思想が、習俗から賞罰論として発展し、それが戦国時代の諸子百家の軍国思想の基底にあると考えたい。

■「ゴ」と「バツ」の接続

 張莉氏に拠れば、甲骨文ができる以前の青島龍山文化や河南下王崗文化、伊河苗湾文化の遺跡から出土した陶器に「」の図形が見られる。張家坡西周遺跡出土の陶器にも「」の図形が見られるが、それは「✕」を隠匿して呪能を高めるために上下に横線を引いたもので、甲骨文の数字の「(五)と同形である。
 もとは呪禁としての「✕」と同系の符号で「吾(ゴ、ギョ)」「圄(ギョ)」などは「(ゴ)」とともに、邪霊から身を守る意味をもつ「護(ゴ)」すなわち「まもる」の意がある。これらは、声符として「五」が使われており、「まもる」意味を有するのは同音の「御(ゴ、ギョ)」の原初的な意味が加わったものとされた。
 しかしながら、「㐅」の本来の読みは分かっておらず、「爻」の略体としても使われているため、「コウ」に近い発音の可能性もあるが、音符に使われていないので、証明はできないそうだ。
 その後の時代に、字形の類似から「五」の略体として使用されたために、楷書の音読みとしては「ゴ」になったという経緯であるが、「ゴ」と「バツ」は意味の接続までしか、現時点では復元は難しいのである。

■敎、學とバチ

 甲骨文字で爻は、略体の「㐅」(✕、音読み「バチ」「ゴ」)にも見える。甲骨文字では、地名や教育施設を象徴して用いられている。ただし、補10418(『甲骨文合集補編』語文出版社)には、
  癸巳貞、侑・勺、伐于伊、其爻大乙
  (癸巳貞う、侑・勺、伊を伐つ、其れ大乙に爻せんか)
とある。これは、爻が何らかの祭祀として行われていたことを示している。その入れ墨習俗を纏いながら、何らかの祭儀が執り行われていたのだろう。
 確実なものとして、身体の模様を表した「文」および「爽」「奭」が、入れ墨を表現した文字であるとして挙げられる。
 この構成要素の「㐅」(✕)が、「教(敎)」や「学(學)」にも使われていることを、ここで再度、確認したい。
 先ず、「(敎)」は、爻・子・攴に従い、会意文字。子供を教育することを意味する字である。攴は教鞭を意味し、爻は教育施設を象徴すると考えられている。甲骨文の用例では、軍事駐屯地の地名と貞人名として使われている。
 次に「(學)」は、家屋の形に両手の形の臼と爻を加えた会意文字。甲骨文の用例では、学校、動詞(指導する)、祭祀として用いられている。
 爻が「㐅」(✕)で、バチと仮定すれば、バチ(護るべき掟)をおしえることが「教える」、バチをまなぶことが、「学ぶ」であり、それぞれの原義だったのではなかろうか。
 そしてその教えが賞罰論として展開し、先にも述べたように約500年かけて諸子百家の思想へと、進展したものと思われる。

■文と爻と易

 現在では一般的に爻とは、易の卦を組み立てることを意味し、陰爻と陽爻で八卦ができ、八卦が交わって六十四卦となる。そもそも易の原型は「周原甲骨文」に出てくるので、西周代初期までさかのぼることが、現在でも可能である。
 『易経』の所謂「六十四卦」とは異なり、陰(本来は「六」)と陽(本来は「一」)だけでなく、「五」「七」「八」および推定で「九」も使われていたと考えられる。また、『易経』の六十四卦と周原甲骨文をつなぐものとして、近年には清華大学戦国竹簡から卦の一覧表が見つかっている。こちらは戦国時代中期のものと思われるが、まだ「六」「一」のほか「四」~「九」を使っており、卦の数が百を超える。
 現存の『易経』の形になったのは、早くとも戦国時代後期となるだろう。

■易は文字の原型だったのか

 この爻の意味の推移について、もと「㐅」(✕、音読み「バチ」「ゴ」)イコールバチ・罰の施行から、『易』による吉凶思想(禍福論・賞罰論)の文字へと変貌したものと考えられる。つまりより科学化されていったということであろう。
 それは具体的に、禍福、罰と褒美は『詩経』に見るような供犠(お供え)、祭祀(お祭り)へと連なるものである。
 総括して言えば、爻は、入れ墨から抽象的な記号、文字へ、そして一方で、バチというお告げが易思想の吉凶へと変貌を遂げた。説文解字の史観が形成された時期に於いては、そういう解釈も可能であったのではなかろうか。
 易と言うよりも、爻は入れ墨の表象であり、それが文字の起源である。
 つまり、易と文字は同源ということになり、しばらく入れ墨と文字はその使用に同伴した時期があったはずだ。
 入れ墨、易、文字、諸子百家と展開したのか、文字、易の順なのかは、現状では推測の域を出ないが、ともあれ爻を文字の起源とした着想には、許慎の『説文解字』にも、ある種の妥当性を認められるかもしれない。
 許慎は、その時、何かを知っていたのだ。

※文中の「」字については、立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所が公開する白川フォントを使用した。

(まつみや・たかゆき 国際日本文化研究センター共同研究員)

掲載記事の無断転載をお断りいたします。

LINEで送る
Pocket