卒論の流儀

投稿者: | 2021年11月15日

西澤 治彦

 

■卒業論文

 私が学生のころは、大学を卒業する要件として、卒業論文というのを書かなければならなかったものだ。近年では、必修から選択制にしたり、短いゼミレポートに置き換えているところが増えてきた。そもそも学生に卒論を課すなら、演習とセットになっているカリキュラムでないと難しい。そうであっても、指導と審査する教員の負担軽減や、期限までに書けない学生が留年を余儀なくされるということもあって、卒論を必須とする大学が少なくなっているようだ。
 私の勤務先の学部では、創設以来、卒業要件に卒論を課している。数年前から枚数を400字詰め原稿用紙100枚から、50枚に減らしてはいるが、現在もなんとかこれを維持している。中には、資料などの引用が多く、100枚以上の「力作」を書く学生もいるが、「読む人のことも考えて、もっと簡潔に書きなさい」と指導するようにしている。
 卒論の執筆や指導は、学生と教員双方にとって負担といえば負担であるが、長年、学生の卒論指導をしてみると、これはこれで学生にとって得がたい体験であるな、と考えるようになった。振り返れば、私自身が研究者への道を歩むことになったのも、卒論が一つの契機であった。
 「卒論」というと、何か特殊なものをイメージしがちであるが、広義の「論文」のうち、卒業にあたって4年間の学びの集大成として書くのが「卒論」というだけのことである。逆に言うと、卒論を書くことがなければ、論文というものを一度も書くことなく、大学を卒業してしまうことになりかねない。ここでは、学生を指導する立場から、卒論を書く意義について、思うことを記してみたい。

■レポートと論文の違い

 長文の論文というのは、レポートと違って、学生にとっては未知の領域のようで、簡単に書けるものではない。実際、一つの話題にそって書く短いレポートと、先行研究を概観したうえで未踏の領域を指摘し、それを埋める資料を提示して、最後に自分なりの新たな見解を述べる論文との間には、大きな溝がある。
 入学前までには、読書感想文や、入試対策として与えられたテーマで「小論文」を書くことはあっても、自分のアイデアに基づく論文となると書いたこともない学生が多い。加えて、今の学生は、講義ノートもメモ的だし、発表のパワーポイントでも短文を箇条書きする。私生活でも、文章を練りながら手紙をしたためるなんてこともしなくなった。メールやライン、ツイッターで短文を書くことに慣れすぎて、長文を書く機会はもはやほとんどない。そのせいか、近年では、授業後のコメント・ペーパーや解答用紙ですら、箇条書きで書いてくる学生がいる。
 長文の文章というのは、節や段落の区切りはあるにしても、全体として一本の糸になっていなければならない。学生をみていると、さまざまな話題に及ぶ内容を一つのまとまった文章に構成していく力が、以前よりも弱くなっているようだ。流れるような文章は、異なるベクトルの文章と文章を繫げる、接続の仕方がうまい。より具体的には、接続詞を自在に使いこなしている。順接や逆接の他にも、並列や追加、対比、選択、要点、補足、換言、結論などさまざまある。しかし、これらの語彙が足りず、的確に使うことができないと、話があちこちに飛ぶだけの散漫な文章になってしまう。ならば箇条書きで、となるのだろう。
 短文は「つぶやき」でしかないが、文章を書くというのは、言葉や表現を考えながら、頭の中にあるもやもやとしたイメージを、はっきりとした形にしていく行為だ。推敲することによってさらに形が整い、言いたかったものに近づいていく。長い文章を書くと、その過程がずっと続く。日本語力を鍛えるには、この練習量を増やすことだ。もちろん、論文は内容も問われるので、質の高め方も学べる。

■卒論指導の要点

 熱心な学生の中には、4年生になると『卒論の書き方』の類の本を読む者もいるが、私は「その手の本は読む必要がない。そんな時間があるなら、関連する先行研究を読みなさい」と指導している。ノウハウをいくら教えても、学生はそもそも卒論がどんなものかのイメージができていない。まず見本を見せるべきだ。そこで、私は、過去の卒論でよく書けているものを数冊選び、「こんなふうに書けばいいんだよ」と渡すことにしている。
 もちろん、見本を見せたからといって、すぐに卒論が書けるわけではない。いいものに仕上がった卒論の背後には、それなりの時間がかけられている。かけた時間は正直で、やっつけ仕事では出せない、努力と熟慮の跡があるものだ。従って、卒論の準備は、二年、三年時に履修する演習から始まる。
 私は、求められればアドバイスはするが、テーマは本人に決めさせる。人から与えられたテーマだと、どこか義務的になってしまい、ワクワクしながら書くという楽しみを味わえない。ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で述べている如く、学問も「遊び」と捉えると、人に指示された「遊び」は、もはや真の「遊び」ではなくなってしまうからだ。
 ところが、このテーマを絞るというのが難しい。地域研究的なカリキュラムの場合、まず研究の方法論(アプローチ)を明確にさせる必要がある。歴史学的に研究するのか、文化人類学的に研究するのかといった違いにより、学問分野(デシプリン)なりの方法論があるからだ。学部レベルで学際的な研究は無理な話で、下手をすると雑学になってしまう。方法論を決めて、次にテーマを決める段になっても、学生はどうしても大上段に構えて、広げすぎてしまう。例えば、日中の食文化の交流史をやりたいという学生がいるとする。これだと各学問分野の下位に位置する研究領域(サブジェクト・エリア)に相当し、一生かけて研究するような問題だ。とても卒論で扱えるようなテーマではない。その中で、さらに下位に位置づけられる、細かな話題(トピックス)を選びなさい、と指導する。
 卒論のテーマが絞られると、続いて章立てを書かせる。だいたい、起承転結に合わせて、四章立てが収まりがいい。一章で先行研究の整理を行ない、二章で事例研究を提示し、三章で比較検討を行ない、四章で結論を述べる、という構成になる。この章立てを自分で考えるのが、学生には難しいようだ。これは学生自身に悩ませる。何度か相談にきて、何を書きたいのか、何が書けるのかを議論していくうちに、学生自身も考えがまとまっていく。自力でいいところまで章立てを考えてくる学生もいるが、最後までうまくできず、行き詰まったところで相談にくる学生もいる。ここが手助けのタイミングだ。悩んでいただけに、教員側が、順番を変えたり、新たな章を加えたりして、きれいな章立てを提示してあげると、学生も目の前を被っていた雲が晴れ渡るかのような感覚になり、目を輝かせる。自分の中で完成した卒論のイメージが出来上がった瞬間だ。こうなると、あとはもう章ごとに書いていくだけとなる。
 もう一つ、忘れてならないのがタイトルだ。これは卒論に限らないが、論文の執筆を始める前に、適切なタイトルを考えることが大切だ。タイトルは、論文を書き終えてから考えるものではない。ある程度の構想ができあがり、自分でも何を書こうとしているのかが明確になった段階で、内容をぴたりと反映したいいタイトルが思いつくと、そのタイトルに引っ張られるようにして、思い描いた内容の論文が書けるものだ。タイトルは、メインタイトルとサブタイトルの二つあった方がいい。メインタイトルを総合的なもの、あるいは詩的なものにして、サブタイトルで中身が分かるもの、という組み合わせがいい。
 構想がまとまり、タイトルも決まって、いざ書き始めていっても、学生はいろいろな問題にでくわす。三年後期から就活があるので、実際に書き始めるのは、就活も一段落した四年の夏以降となる。提出期限まで思っていたよりも時間がない。ここでお尻に火がつくわけだが、初めて論文を書く学生は、どうしても先行研究の整理に時間を費やしてしまい、なかなか本題に入れぬうちに力尽きてしまう場合が多い。そこで私は、先行研究の整理にあてる第一章に字数制限を設け、簡潔に書くように指導している。

■ネット時代の卒論の意義

 具体的に書き進めていって出てくる問題が、引用のやり方だ。直接引用はいいとして、ややこしいのが間接引用だ。いわば常識化しているものの場合、出典を明示すべきか否か、グレーゾーンがある。また、複数の著書から自分なりに統合して要約した場合や、一冊の本から数頁に渡って引用する場合など、どのように出典を明記したらいいか、迷う場合がある。これはそのつど、最適なやり方を指導していくしかない。
 論文の場合、他者からの引用を明示している部分以外は、全て自分の見解である、というルールがある。本人に悪意はなくとも、うっかり他人の意見を自分の意見のように書いてしまうと、盗作になる。これは「忘れた」では済まされない問題だ。学生には、引用が多いというのは、それだけ多くの文献を参照していることの現れであり、決して恥ずかしいことではないこと、引用を明記するのは自分のオリジナルな見解を守るためである、と説いている。そのためにも、人の意見は必ず区別するようにと、口を酸っぱくして指導している。
 近年は、印刷された文献ではなく、ネット上の記事の引用も増えている。私としては、あまり好ましいとは思わないが、現代的なテーマの場合、ネット上の情報を活用しないわけにはいかない。今は、アンケートなども、ネット上でできるようになっており、昔と比べると、ずいぶんと楽というか、安直になったなと思わざるを得ない。
 その最たる弊害が、ネット上からのコピペだ。今はそれに対応するソフトもでているが、読み進めていけば、本人が書いた文章でないのはすぐに分かる。数行を打ち込んで検索してみると、そのページが瞬時に出る。しかし、これも引用を明記されていれば、盗作とは言えなくなる。要領のいい学生なら、いろいろなサイトの記事を拾ってきて、自分なりの「つなぎ」の文章やコメントと、結論めいたことを最後に書き足せば、見た目は卒論らしいものを、一晩で作ることもできてしまう時代だ。形式にこだわり過ぎると、こうした卒論が高評価となり、時間をかけて自分で文献を集めて読み込んだり、フィールドワークで得たオリジナルなデータをもっていても、構成や論点が今ひとつだと、低評価となってしまいかねない。
 ネットに無料の情報が氾濫する現代であるからこそ、4年間の学びの集大成として、苦心しながら卒論を書く意味は多いにあると思う。卒論レベルでオリジナリティーを求める必要はない、という意見もあろう。しかし私は、数パーセントでもいいから、オリジナルなデータ、もしくはオリジナルな見解があるべきだと思う。そこに学生は、研究する楽しさと意義を必ずや見いだすはずであるからだ。さらに言えば、楽しみながら長文を書くという経験は、単に文章力を鍛えること以上の何かを、学生の心と人生に残すはずである。私のことで言えば、年月を経るに従って、その過程を遠くから見守ってくれた恩師のことが思い起こされる。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

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