香港本屋めぐり 第3回

投稿者: | 2021年5月26日

森記圖書(サムゲイ トウシュー)

入り口と店内
書店経営には危機もあった。ある年の店舗の契約更新時、オーナーはそれまでの2倍の額を提示してきた。こうした事態は香港では珍しいことではないものの、薄利で小規模な書店にとっては存亡の危機である。交渉の結果、2倍からは幾分下げられることにはなったものの、それでも厳しいことには変わりない。ところがちょうどその頃、特に若者たちの間で「地元の小さな店を守ろう」という動きが起こり始め、それまではあまり見られなかった若い客が増え、なんとか苦境を乗り越えることができた。

 

香港では「猫のいる本屋」として知られる「森記圖書」。

香港島の北角という地域の路面電車も走る目抜き通りにあるものの、店舗はビルの地下にあり、住所を頼りに探さなければたどり着けない。

表通りから階段を降りると、書店の外にも本が積み上げられ、その上に猫がいる。店内は、前回紹介した「艺鵠」の開放感のある空間とは対照的で、書架がぎっしりと並び、人がすれ違うのも苦労するほど。しかし、どこか懐かしい感じのする、昔ながらのスタイルだ。

この本屋の経営者は陳琁さん。森記の2代目だ。1978年に縁あって森記でのアルバイトをスタート。その後、先代から店を譲り受け、今に至る。取材に伺ったのは4月半ばの夕方。会社帰りらしき常連さんが店に三々五々とやってきて、お目当ての本を探したり、立ち読みに興じたり、顔見知りの書店員や猫と話す姿が見られた。

本棚を仕上げる店主の陳琁さん

 

●中国の文学少女が香港で出会った天職

本屋の歴史は陳さんの人生そのものでもある。
陳さんは中国のアモイ生まれ。両親は教員だった。しかし文化大革命により父は農村に下放され、母は大学の図書館に配置転換になる。小さな頃から本好きだった陳さんが母親の職場に行ってみると、数え切れないほどの本が目に入り、こんなところでずっと本と一緒に過ごせたらよいのにと思ったそうだ。
1978年、陳さん一家は香港に移住し、彼女はアモイでは学べなかった英語の学校に通った。そこで仲良くなったクラスメートが紹介してくれたアルバイト先が森記だった。陳さんにとって、小さい頃に憧れた、まさに本に囲まれる仕事だった。

森記という名の最初の書店は1958年、香港島の湾仔に開店した。その後、創業者が子供たちそれぞれに別の地域で書店を持たせ、北角店(現在の森記)は長女の店だった。1978年、開店のその年に陳さんは働き始めた。数年後、正社員になる。大学に進学したいという気持ちもあったが、卒業後、自分のやりたい仕事に就けるとは限らない。悩んだ末、正社員として書店員の道を歩むことになった。

1982年、香港返還を巡って中国とイギリスの交渉が始まった。創業者一家はそれを受けてカナダへの移住を決める。森記は陳さんが譲り受けることになった。でも店を買い取る資金などない。創業者は貯金通帳を陳さんに渡して言った。「利益が出たら、ここに少しずつ入金してくれればよいから」
こうして陳さんの書店主としての生活が始まる。

 

●ベストセラーよりも魂が込もった本を

陳さんは、現在、新刊書を主に扱う「森記」と古書を扱う「2手書店」を隣どうしで経営している。書架は2店舗合わせると60棚、数万冊の様々なジャンルの本が並び、高く積まれている。

陳さんは店にある本についてこう語る。
「ベストセラーにならなくても、魂が込もっている本を置き、売っていきたいのです。でも商売ですから『儲けるための本』と『私が良いと思う本』のバランスを取らなければなりません。
私のここでの仕事は、本を読み、その内容の良し悪しによって本を並び替えることです。これにとても時間がかかります。
『儲けるための本』――ベストセラーになるような本ですが、これは3カ月置いて売れなければ出版社に返本します。『魂が込もった本』は、そのまま置いておきます。10年に1冊でも売れればよいのです。
中国語で言うと、『暢銷書』(良く売れる本。ベストセラー)と『長銷書』(長く売りたい本)の2種類に分けられます。書店経営のためにはもちろん『暢銷書』が必要ですが、私は『長銷書』を大切にしています」

書架に並ぶ本の中には、表紙に「好書」(良書)というシールが貼られているものがある。陳さんが自ら読んで「良書」と太鼓判を押したものだ。

「最近、香港の大手出版社が発行する本、そして大手の書店に置かれている本は、観光紹介やグルメ本、そしていわゆる『中国文化』紹介のものがかなり多いのです。私はそうした本よりも、たとえば中国の哲学者——銭穆や牟宗三、唐君毅などの著作を読んでほしいと思っています」

いまよく売れているジャンルは、日本の作品も含め推理小説、そして香港の社会運動を扱ったものとのこと。後者は「台湾から輸入されるもの」も多いという。香港では今、学生のグループが法人登録するのが難しくなっており、台湾の出版社に出版してもらい、それを香港で販売するケースも珍しくないようだ。

陳さんは熱く語った。
「香港には『禁書』というものはないのです。以前も今もありません。しかし、書店が『自己審査』して、ある種の本は置かないということもあるのです。本を買うか買わないかは読者の自由ではないですか。私は林語堂の次の言葉が好きです。『私たちの心は猿に譬えることができる。なすべきことは、猿を森に連れて行くこと。どこに果実があると伝える必要はないし、ましてや良い果実がある所へ連れて行く必要もない。ただその森の中を気ままに歩き、ダーウィンやヘッカー、ラマルク、そしてチャーチルの小説を読めばいいのだ』。様々な本を並べ、あとは読者に選んでもらえばいいのです」

 

●猫が暮らす本屋

猫のいる本屋として知られる森記だが、そもそもは、ネズミ対策のために猫を飼い始めたという。ある時、高価な辞書がネズミにかじられるという被害にあったため、ビルの管理人が裏で捨てられていた猫を連れてきた。ミミと名付けられたその猫のおかげか、ネズミは姿を現さなくなる。その後、客が捨て猫などを連れてくるようになり、陳さんは、本の他に猫の面倒も見ることになった。現在、総勢20匹以上いるそうだ。

書架がびっしりと並ぶ店内だが、猫のためのスペースが確保されている。しかし、不思議と猫特有の匂いがしない。今回取材の途中でも、陳さんは猫の砂を交換していた。至れり尽くせりの「住環境」。幸せな猫たちは、またしっかりと躾られていて、本にいたずらをすることはない。

猫が好きなあなたも、この書店に興味を持ったかもしれない。ただ、ここは「猫カフェ」ではない。猫の「家」なのだ。だから猫たちの暮らしに干渉してはいけない。でも、猫に会いに行くだけなら許してもらえるだろうか。

「そうですね、猫に会いに来る人が10人いたなら、そのうちの1人が書店のお客さんになってくれたらいいですね」と、陳さんは笑った。

本の中で暮らす猫たち
猫たちはこの店内で暮らしているが、中と外、そして本の間を自由に動き回っている。しかし本にいたずらをすることはない

 

▼今回訪ねた書店

森記圖書公司
香港島北角英皇道193號英皇中心地庫19號
FaceBook:https://www.facebook.com/samkeebookco/

 

▼陳琁さんのお勧め

陳琁さんのお勧め2冊。左の『曲水回眸──小思訪談錄』の表紙には、「好書」(良書)、「有新」(新品あります)のシールが貼られている

『曲水回眸──小思訪談錄』上・下
編者:香港中文大学香港文学研究中心
出版社:牛津大学出版社
ISBN:9780190970062
小思(ペンネーム)は、香港の作家、教育者。「香港文学口述歴史計画」の発起人でもあり、これまで多くの人にインタビューしてきた。しかしこの書籍は、2014年から16年にかけて、香港の文化人たちと小思の対談をまとめたもの。内容は、香港の文学や文化・歴史など多方面に及ぶ。

『武漢封城日記』
作者:郭晶
出版社:聯經(台湾)
ISBN:9789570854985
2019年11月、広州から武漢に転居したソーシャルワーカーでフェミニストの郭晶が、2020年1月23日、武漢がロックアウトされた日から3月1日まで中国のSNS上などで公開した日記をまとめたもの。封鎖された都市での個人の生活と社会が詳細に描かれている。

 

写真:大久保健・和泉日実子

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大久保健(おおくぼ・たけし) 1959年北海道生まれ。香港中文大学日本学及び日本語教育学修士課程修了、学位取得。 深圳・香港での企業内翻訳業務を経て、フリーランスの翻訳者。 日本語読者に紹介するべき良書はないかと香港の地元書籍に目配。訳書に『時代の行動者たち 香港デモ2019』(白水社、共訳)。

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