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本書の著者・羅新北京大学教授は、中国魏晋南北朝史を中心に、北・中央アジアも研究範囲とし、また墓誌の校注にも精力的に取り組んでいて、夙に令名が高く、評者もその双方で大きな恩恵を受けている。その羅新氏が2022年7月に刊行された新作の邦訳が早くも現れた。その評価の高さがこれだけでも分かろう。一言、驚くべき本である。
まず題名からして驚かされる。副題から北魏時代の宮女(皇帝の後宮に仕えた女官)を通じて描こうとしていることは窺われるが、「果てしない余生」とは何なのか、謎である。緒言を読むと、女官の名は王鍾児で南朝宋の中級官吏の家に生まれ、北魏に奴隷として入って宮女となり、出家して尼となるがなお宮中で過ごした合計56年が「余生」とされていることが判明する。その「余生」の期間に、彼女が見聞した(はず)と思われる宮中内外の権力闘争や複雑な人間関係の分析を通じて、北魏の歴史を紡ごうという仕掛けであると察せられる。
緒言と余韻を挟んで25章ある内容を、4~5章ごとにまとめてごく簡略に紹介しよう。断っておくが、これはいわば大きな枠組みと言うべきもので、宋・北魏戦争、洛陽遷都など、詳細に述べられる各時期の重要な政治的事項は省略せざるを得ない。
1~4章は、結婚していた王鍾児が、宋王朝の内乱とそれに介入した北魏との間の複雑な経緯によって、捕虜そして宮中の奴隷とされるまでを描く。その時王鍾児は既に30歳。以後が「余生」の期間となる。
5~8章は北魏の宮女について述べる。宮女は、戦争捕虜、犯罪者の家族以外は官僚層の出自が多く、一定の教育を受け、文化水準が高かったことなどが示される。
9~12章は第4代文成帝の皇后で、5代献文帝そして6代孝文帝の時に実権を握った文明太后馮氏が記述の中心となる。この際に重視されるのが、皇帝の後継者と決まった段階でその生母は殺されるという北魏独特の「子貴母死」の制度である。この制度の恩恵を受けて権力を握った文明太后は、権力を維持するために自らもその制度を繰り返し使用、献文帝と対立し、孝文帝にも死の危機があったことが述べられる。
13~17章では、文明太后の兄馮煕のむすめの大馮と小馮が叙述の中心となる。ふたりは孝文帝の子元恂と第7代宣武帝の養育に関わり、小馮は元恂立太子とともに皇后になるが、病いにより尼となっていた大馮は孝文帝と連合し、その結果皇后小馮は廃され、大馮が皇后となる。平城における叛乱企画への参加を理由に太子恂は死を賜るが、これも孝文帝と大馮の手による。しかし大馮は密通行為が南朝斉攻撃中の孝文帝に知られ、帝は皇后大馮の死と太子(宣武帝)の即位を命じることになる。
19~23章では宣武帝期の政争とそれに絡む皇子誕生をめぐる争いが述べられる。少し詳しくしよう。即位後に輔政者を打倒して親政を実現した宣武帝について、史書は酷薄で恩が少ないと評するが、実は内心に抱く強烈な不安感がその行動を導いたのであり、身近な人間だけを信任した。親政実現に力があった于烈が親政後も帝を助けたが、その後、帝の生母高照容の兄の高肇が権力を振るうことになる。高肇は有力な宗室諸王4人の死に関わるとして非難されるが、叔父たちを警戒した帝の道具であったにすぎない。宣武帝は皇子に長く恵まれなかった。于烈の姪の于皇后がようやく皇子昌を産むが夭折し、皇后自らも間もなく死去する(ふたりの死が高肇にとって益をもたらす)。高肇の姪の高英が入宮して産んだ皇子は昌とほぼ同時に死去。のち高英は皇后となるが、皇子は生まれない。皇子誕生が期待される中で、後宮の女性胡氏が、孝明帝を産む。宣武帝は周囲による胡氏への危害と「子貴母死」の制度による自らの殺害を忌避しようとして胡氏が堕胎を図ることを恐れて、彼女を後宮から隔離する。
24,5章は宣武帝が死去し、孝明帝が即位するまでの経緯、高肇の被殺、于烈の子の于忠による権勢掌握を先ず述べる。于忠は胡氏(胡太后)の道具化を期待するが、彼女は隔離されていた孝明帝と再会すると、于忠を権力中枢から排除、臨朝聴政を実現していった。高肇死後出家していた皇太后高英(法名慈義)は胡太后によって殺され、一方、大馮が権力をもっていた時期には小陵に葬られていた宣武帝生母の高照容は改葬されて皇太后、次いで太皇太后に追尊される。
最後の「余韻」と題する短い文章では、519年に発生した羽林の変により歴史の次の幕が上がるとする。
第9章以後の「余生」の期間、王鍾児が顔を出す機会はごく僅かである。入宮後、景穆帝(第3代太武帝の皇太子)の昭儀(皇后に次ぐ地位)斛律氏に仕え(8章)、次いで高照容に仕え、その子たちの世話をする(12章)。大馮の謀により高照容が死去すると出家(法名は慈慶)するが、その後も宮中に留まる(16,18章)。孝明帝が生まれると、宮外の良人を組織して養育に携わり、その組織は皇子が太子となっても必要とされ(23章)、そして小陵に葬られていた高照容が改葬される儀式に参列したであろうことが述べられる(25章)だけである。しかし間違いなく各時期の皇帝の妃嬪や皇子の身辺にいたわけで、胡太后臨朝後も慈慶はなお5年の余生を保つが、その間に胡太后は軟禁され、孝明帝と隔離させられたと述べて(余韻)、「長い余生」は閉じられる。
こう見てくると、第5代以降の4人の皇帝の宮廷を中心とする政局を、皇帝の妃嬪たちの狙いや行動を多く取り込んで述べた概説に近い著作であると思われるかも知れない。しかし、概説とは異なる。何といっても随所で緻密な考証が行われ、時には文献の校訂にも及ぶ。とはいえガチガチの研究書でもない。著者自ら「こうした書き方が学問の意義を備えているか否かが分からなかった」と「あとがき」で述べている。確かに、著者は登場人物の性格や心理の分析に何度か踏み込むし、宮中特に後宮のことは秘匿されることが多い故もあり、状況証拠中心に論を進めていると思われる箇所も間々ある。自らの皇后の不倫行為を知らされた孝文帝の心境を、「懸瓠の夏は気温が高い上に雨が大量に降るが、洛陽の情報を集め分析していた孝文帝にとって、常に感じていたのは身にしみるほどの冷たさであったかもしれない」(17章)と綴るような表現も取り入れる。
しかし、著者のこのような試みを推測に頼りすぎると退けるのは妥当とは思えない。本書の場合、網羅的な文献史料収集のほか、多数の墓誌を利用していることが大きな特色となっている。それも史書に名を残すような重要人物だけでなく、政治にはあまり関係がないように思える皇帝の妃嬪や宮人の墓誌にも及んでいる(というより、それを重視している)。北朝女性墓誌はパターン化した内容を記すものが殆どであり、婚姻関係、家族関係解明には有用とされてきたが、政治関係の検討にはあまり顧みられなかった。著者は零細な記述から得られたデータを男性墓誌、文献史料に精密に組み合わせ照らし合わせて、思いもかけなかった構図を描き出す。心理にわたる表現も、そこから導き出されるのであろう。オンライン検索が可能となった現在、史料を多く収集する能力だけなら、著者に近づくことは可能であろう。だが、その史料をどう解釈し何を抽出できるかは、その人のセンス、歴史を観る目による。孝文帝の長子・元恂の死に関わる考察や、高照容に対する追尊は将来胡太后自身が宣武帝に配饗される為の理論上の手配である、という鋭い指摘はその例であるが、仮に同レベルの資料を集め得たとしても、評者は果たしてこれほどのものを得られるだろうか、はなはだ疑問である。
それはともかく、こうした手法によって導き出された結果は、通説・定説にも再考を迫る。評者は北魏史の概説書を書かせて頂いたし、本書にも記される政治的事件についての論文を書いたこともあるが、読み進めながら、勉強不足を叱責される思いを何度も抱かされた。そう、本書はまぎれもなく学術書、北魏史研究に当たって参照すべき書籍である。宮女のような主役ではない人物が歴史の中で重要な役割を果たすことを明らかにした功績も大きい。そのような本書ではあるが、叙述は屡々小説的と思わされるスタイルを採る。ドラマ化できるのではないかと思わされる章もいくつかある。多くの方に読んで頂けることを期待できる、いや読んで頂きたいと考える。ただ、墓誌の文章がそのまま本文に引用されることが多い。墓誌の文章は難解で、典拠をふんだんに用いているから、日本語に訳す時には非常に苦労する。それを含めて訳文にはいささか通りにくさを感じる箇所が散見され、気になった。他方、原書にはない墓誌拓本の写真や系図を加えて理解の便としているのはありがたかった。
(くぼぞえ・よしふみ お茶の水女子大学名誉教授)
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