『中国語とはどのような言語か』評 立原透耶

投稿者: | 2023年8月15日
『中国語とはどのような言語か』

中国語とはどのような言語か


橋本陽介 著
出版社:東方書店
出版年:2022年9月
価格 2,640円

目から鱗が何枚も落ちる語学研究書

 

 中国語に関わってン十年の私、語学の研究書を読むときにはいつもやや斜に構えている。だってそんなの昔に読んだ論文にあったもーん、新しくないもーん、というものから、実は私だって気づいてたもん(小声)といったものまで、まあとにかくさまざまで、単純に言えばひねくれた読者になってしまっていたのである。
 そのねじ曲がった根性をこれでもかと打ちのめしたたき直してくれたのが本書『中国語とはどのような言語か』(橋本陽介・東方書店)である。一読して「参りました」と両手をあげて降参。再読して目からあふれる鱗の量に慌てふためき、結局三回も読み直してしまった。
 本書の構成は次の通り。

 まえがき
 第一章 基本文法
 第二章 語彙
 第三章 中国語の品詞と文成分
 第四章 中国語における主語、主題、目的語
 第五章 連動文と前置詞
 第六章 中国語の時間表現
 第七章 現代中国語の“是”
 第八章 連体修飾と“的”
 第九章 中国語の「一つの文」と「流水文」
 第十章 流動する叙述と修辞構造
 あとがき
 参考文献
 例文出典

 例えば個人的に大好きなアスペクト。その中でも「着」(第一章「基本文法」)の使い方の説明が出てくる。ふんふーん、知ってるもんね、進行と持続だよね……と舐めていたら痛い目を見た。「動作の持続を表すタイプ」「動作結果の持続を表すタイプ」と書かれているではないか。なるほどそう解釈した方がスッキリわかりやすい。さらにすごいのはこの一文「人間の動作に”着”が使われるのは主に小説の描写などである」。ガーン、そうだったのか、意識してこなかったな、と思って続きを読むと「ある程度語感が養成されないと違いはわかりにくい」とトドメ。厳しい。

 使役と受け身の節(第一章)にも学ぶところがあった。「英語などの翻訳を受けてから、受け身の使用が増加したのは、日本語も中国語も同じである」……日本語もですか!  使役と受け身が表裏一体なのはわかるが、実は「使役と受け身は中立的な視点からみると、同じになってしまう」という文例が出てくる。確かに、と膝を打つ。次々と繰り出される例文が刺激的で面白いのは言うまでもない。

 他にも興味深かったのが「的」の使い方(第八章「連体修飾と“的”」)。ここでは、歴史的な使われ方や使用率を弾きながら、「的」がどのように使われてきたのか、また変化してきたのかが記されている。
 例えば「的」の翻訳について原文との違いを説明し、なぜそれが生じるかについて記している。「日本語は中国語と比較すると、連体修飾構造を好む言語なのである」。
 言われるとなるほど、である。しかし翻訳をしている身としては冷や汗モノである。ここまで細かに解説されてしまうと、あの翻訳もこの翻訳もどれもこれもみんな分解されてしまうのではないか。文法的な過ちを指摘されるのではないか、と。
 
 さらに時間軸に沿って生じる出来事を一文で長く記す手法が紹介される(第九章「中国語の「一つの文」と「流水文」」時間軸に沿って継起的に起こる出来事)。これは動作主がコロコロと変化していくもので、日本語にしにくいとのこと。そういえば、最近の若手の日本人作家の中には、「視点をコロコロ変えていく」という手法を敢えて用いるという人々が生じていたが、これは中国語に影響を受けたのか、いやいや、偶然の一致にすぎないのだろうが、気になる現象である。この手法が日本でも一般化すれば、中国語の句読点の多い、視点の変化する文章も、苦なくして訳せるようになるのかもしれない。
 なお、著者はこの件については「主語の切り替えは、一つの文で原則1回にしている。1回なら「前件+後件」の構造と理解しやすい」とノウハウを明らかにしている。

 そんななか、純粋に面白いのは、「流水文」の章である(第九・十章)。読点の多さ、一文の長さ、これらを自然な日本語に翻訳する大変さはいつも感じている。できるだけ原文に沿って読点を用いようと思いつつも、どうしても無理で断念したことも数限りない。そのことについて著者は「中国語の文章を句読点の通りに訳すことができないのは、日本語と中国語ではどのような単位を「一つの文」とするのか、その習慣が異なっているからである」と述べる。なあんだそれならば、原文に沿った句読点の位置を事細かに悩まなくてもいいんじゃないか、などと単純にほっとするが私の悪い癖である。
 また「中国語では、並列的に節を次々に続けていく形で、修辞的な習慣も形作ってきたのである。〜略〜「流水文」と呼んだが、確かに中国語の文は「流れる水のよう」に感じられることがある」「むしろ、修辞的で文学的な名前の付け方である」とある、この流水文についての記述が非常に興味深い。「「Aで、Bで、CでD」という形をとり、すべての要素は同格になってしまう」「このようにすることによって、人物の行動も空間の動きの中に溶け込むことができる」というのである。
 恥ずかしながら、いささかの翻訳をしてきた身としては、この流水文については取り立てて意識してきたことがなかった。なんとなく「そういうものだ」と感じていただけで、実際にはどれほど意識して翻訳したのかは、今となってはもはや謎である。

 本書の良さはこういった点にある。知っているようで実際には確たる知識がない、なんとなくわかっているようでいて、本当のところが理解できていない、そういった点について、一つひとつ丁寧に実例を挙げ、文法的な前例を挙げ(参考図書だけで充分な勉強になる)ているのである。初心者であればどれもが目新しく、かつ「なぜなんだろう」という疑問に答える参考書になっているし、既習者であればニヤリとしつつも、明快でクリアな解説に「一本取られた」気分にさせられる本になっている。私のようなひねた読者にもそれは同じで、これまでわかったような気になっていた文法のあれこれが目の前でぱあっと明るく照らし出され、筋道立てて説明され、ただもう圧倒されているというのが現状である。

 わかりやすい一例を挙げてみよう。初心者もベテランも頭を悩ませる「了」というものがある。この「了」をどう解釈するか(第六章「中国語の時間表現」)
 「まだ起こっていないことに’了’が使用される場合は従属節に限られ、主節には用いられない。’了’が主節で使われているときは、ほとんどが過去のことである」
 おお、なるほど。目から鱗が落ちてくる瞬間である。もちろん、それだけではない。著者は続けて「開始限界達成」と「終結限界達成」論を出してくる。この「限界達成」とはつまり、「変化を表す」のである。これら二つの違いを解説した上で、「小説文におけるV了O」という項目が(満を持して)登場する。それによると、「小説文では、特に段落の先頭などで、’V了O’の形式が単独で使用される」「これらの伝えている内容が非日常的な行為であるため、情報価値が高く、そのために充足性があるのだという」とのこと。単純な形の’V了O’は意外に使い勝手が悪いイメージがあったのだが、そうか、小説の冒頭か。言われればそうかもしれない。これもまた目の前が明るくなったような気がする。早速手持ちのSFの原書をいそいそと調べてみる。……おや? V了Oの冒頭が見つからないぞ。もしかすると、SFはまた別の冒頭パターンが多いのかもしれない。これもまた新しい発見だ。

 それから忘れてはならない「読書案内」やギュギュッと詰め込まれた大量の参考文献。本書でものたりなければこれらを学ぶが良い!と言わんばかりの分量と内容の深さは感動ものである。
 こういった何気ない、しかし重要な情報が所狭しと散りばめられている本書、大変にお得である。初心者にはとっつきやすく、既習者にはわかりやすく、すれっからしの学習者には改めて理解を深めさせる……こういう本、今までにそんなになかったよね?

(たちはら・とうや 作家・中華SF愛好家)

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