漢文の学習と学習書

投稿者: | 2023年3月15日

中川 諭

 

 私がまだ学部の学生だったか、すでに大学院の修士課程に進んでいた頃だったか、記憶ははっきりしないが、自分自身の漢文訓読の力量をさらに磨きたいと思っていた。中国文学科の学生として、まあ人並みの基礎力は備えていた自負はあった。また白話小説を研究テーマにしようとする身としては、現代中国語の能力も鍛えなければならなかったのだが、やはり中国文学を専攻する以上、当然漢文訓読もしっかり身につけておく必要があると考えた。
 そんな時に出会ったのが、西田太一郎著『漢文の語法』(角川書店、昭和55年)という本だった。大学生協の書籍部だったか、神保町の東方書店か内山書店だったかもはっきりしないが、それらいずれかの行きつけの書店の書架でたまたま見かけて手に取ったのである。
 その頃までよく利用していたのは、最も代表的な小型漢和辞典ともいうべき『新字源』(小川環樹・西田太一郎・赤塚忠編集、角川書店、昭和57年171刷。旧版。)の附録に収録されている「助字解説」だった。細かく分かりやすい解説に適切な例文も載せられていて、大変重宝していた。しかしあくまで「助字解説」であり、取り上げられているのは助字のみであって、助字以外の語句については、辞書の本文を参照するしかない。また当然ながら文法・文型の解説はほとんどされていない。
 それに対してこの『漢文の語法』という本は、序文に「本書は、漢文の初歩的知識をそなえている人々に、やや高度で、より正確な知識を与えるために作った」と記されているとおり少々専門的ではあるけれども、漢文の文法・語法や重要な語句について詳しく丁寧に説明している。もちろん助字の解説だけではない。まさに私自身が知りたいと思っていたことが、しっかりと書かれている。これ以降、漢和辞典の『新字源』とともに、私にとって漢文訓読についての指針を与えてくれる強い味方となった。
 ほぼ時期を同じくして見つけた本が、岩波全書のシリーズの一つの小川環樹・西田太一郎著『漢文入門』(岩波書店、1957年)である。この本は、漢文の語法の説明もあるものの、基本的には「はしがき」に「あらゆる場合をつくした文法書を作るよりも、むしろ文の實際について、その中で字句の意味するところを注解する方法をとる」と述べられているとおり、ある一定の長さの文章を挙げて書き下し文を示し、その文章の語句・語法を解説することをとおして、漢文訓読を講じている。的確で詳しい解説がなされる、優れた漢文の解説書である。しかしこの本は「入門」と銘打ってはいるものの、『漢文の語法』同様、ある一定水準の漢文についての知識のある人向けの解説になっていて、必ずしも全くの初心者が読んで十分に理解できるレベルではない。
 その後新潟大学教育学部に奉職した私は、中学校・高等学校の国語科教員を目指す学生に対して漢文訓読を教える立場になった。授業の準備をするに当たって、『漢文の語法』は大いに手助けをしてくれた。『漢文の語法』に書かれている解説をもとに、学生たちが理解できるよう自分なりに説明をした。
 しかし、学生たちが常に手元に置き参照するための漢文の参考書を紹介しようとした時、『漢文の語法』は必ずしも適切な本ではなかった。学生たちには難しすぎるのである。私が『漢文の語法』を手に取った時は学生時代とはいえ、中国文学を専攻している大学院生になるかなったかの頃である。ところがこの時、私の目の前にいる学生は学部の二年生・三年生で、しかも教育学部学校教育課程の所属で、中国文学や中国哲学を専攻しているわけではない。
 そこでもう少し簡便な漢文の参考書として見つけたのが、西田太一郎著『漢文法要説』(朋友書店、1997年。新訂本が2004年に刊行される)と三浦勝利著『漢文を読むための助字小字典』(内山書店、1996年)であった。『漢文法要説』も『漢文の語法』同様、漢文の文法や語句について丁寧に解説している。とはいえ、本当の意味での初心者にはやや難解さがある。『漢文を読むための助字小字典』は、『新字源』(旧版)の「助字解説」のみを抜き出したような内容の本である。コンパクトで使いやすいが、助字の解説に特化しており、必ずしも漢文の学習全般にわたって使える参考書ではない。それぞれ学生に常備してもらう漢文参考書としては不十分なところがなくはないが、授業時間に常に携帯する参考書として、この二冊を推薦し、どちらかを購入してもらうことにしていた。
 その後またある時、一冊の漢文の入門書を見つけた。それが奥平卓著『漢文の読みかた』(岩波書店、1988年)である。この本は岩波ジュニア新書シリーズの中の一冊、高校生向けである。返り点・送り仮名の説明から始まり、ある一定の長さの文章を取り上げて、それを読み進める形で漢文訓読の方法を解説している。岩波全書『漢文入門』と同じようなスタイルだが、その説明・解説のしかたは、まさに初めて漢文を学習しようとする人向けになっている。さすが岩波ジュニア新書シリーズの中の一冊、たいへんわかりやすい入門書だ。しかも返り点の説明をするに当たり、大学受験参考書によく見られる、〇や▢の中にランダムに数字を入れて返り点をつけさせたり、〇や▢に適当に返り点を付けて読む順番どおりに数字を入れさせたりする方法を採っていない(私は、実際の漢文の文章から離れて行うこの練習方法が好きではない。時に漢文の語順・文法ではありえない順番に数字を並べてしまい、おかしな返り点をつけてしまう、奇妙な練習になることがあるからである)。岩波ジュニア新書シリーズとはいえ、大学生がもう一度漢文を基礎から学ぼうとするには、十分な内容だ。これはいい! 私は学生たちに漢文学習の参考書として、この『漢文の読みかた』を推薦することにした。この後今に至るまで、一貫して『漢文の読みかた』を薦めている。
 ところで、新型コロナウイルス感染症の流行により、2020年度の授業が完全にオンラインとなった。私が担当する授業では、毎回課題を提示してレポートを提出する形式を採った。ある授業では返り点・送り仮名のついた文章を書き下し文に直す課題を、別の授業では返り点・送り仮名の付いていない句読点だけの漢文を書き下し文に直す課題を出した。そして全ての授業で、学生から提出されたレポートを全て添削し、返却した。
 学生たちが提出するレポートの中には、私が思いもよらなかった誤りがいくつもあった。なるほど、学生のみんなはこういうことが分からなかったのか。こういったことについて、丁寧に説明しなければならなかったのか。私は学生たちがどこでつまづいているのか、少しずつではあるが、ようやくわかってきた。
 2022年度から、原則対面形式の授業が復活することになった。二年間のオンライン授業で分かってきたことを踏まえて、漢文の基礎、読み方を講じることにした。やはり何か教科書があった方が分かりやすいだろう。そこで授業で使用する教科書を探し始めた。しかし私が授業で行いたいことにピッタリ合う教科書がなかなか見つからない。『漢文の読み方』のように、文章を読みながら出てきた事項を説明しようとするのではない。文法事項や句形などについて、順番に一つ一つ説明したい。『漢文の語法』のような内容の本を求めているのだけれども、『漢文の語法』ではレベルが高すぎる。一般向けの漢文の入門書から大学受験用参考書までいろいろ見て回ったが、どれもしっくりこない。
 それならば、自分で授業用テキストを作ってしまおう。そうして漢文を基礎から学ぶための文章を書き始めた。オンライン授業のレポート添削で分かった、学生たちがつまづきやすいところは特に丁寧に説明するようにした。さらに「講読」やゼミの授業でも使えるように、句点文の読み方まで解説することにしよう。こうして半年分の授業用の教材を書き上げた。そして実際に授業で使用する中で、学生の意見を聞きながら、いろいろと修正を加えていった。
 こうしてできたのが、このたび東方書店より出版することになった拙著『漢文を基礎から学ぶ』である。初めて漢文を学習しようとする人を対象に、「漢文とは何か」ということから始めて、漢文学習の入り口である返り点・送り仮名、漢文の文型や文法を学び、そして最後には返り点・送り仮名の付いていない句点文を読むことを目指す学習書とした。なるべく分かりやすく、時にくどいくらいに丁寧な説明を心がけた。項目によっては『漢文の語法』と重なるところもあるが、専門的な説明はなるべく避け、初心者が理解しやすいよう注意を払った。『漢文の語法』や岩波全書『漢文入門』の前の段階、漢文学習の全くの初心者が『漢文の語法』・『漢文入門』に至るまでの橋渡しのような役割を果たすことができれば、大変嬉しく思う。
 『漢文を基礎から学ぶ』の再校ゲラを受け取った頃、長らく絶版で購入が難しかった『漢文の語法』が角川ソフィア文庫から復刊するという情報が入ってきた。しかも復刊本の校訂をされたのが、東京大学の齋藤希史先生と田口一郎先生だそうだ。齋藤先生はかつて日本中国学会で一緒に事務局の仕事をしたことがあり、田口先生は学部は違うものの同じ大学に勤めていたことがある。本書の刊行に少し先立って、私が学生時代から愛用してきた本が、私と多少なりともご縁のあるお二人の先生の校訂によって復刊される。これも何かのご縁を感じざるを得ない。

『漢文を基礎から学ぶ』

漢文を基礎から学ぶ


中川諭 著
出版社:東方書店
出版年:2023年03月
価格 2,750円

▼本コラムでご紹介した書籍で、現在入手可能なものはこちら

角川新字源『角川新字源 改訂新版』
(小川環樹,西田太一郎,赤塚忠,阿辻哲次,釜谷武志,木津祐子 編)
出版社:KADOKAWA
出版年:2017年
漢文入門『漢文入門』
(小川環樹,西田太一郎 著)
出版社:岩波書店
出版年:1957年
新訂 漢文法要説『新訂 漢文法要説』
(西田太一郎 著)
出版社:朋友書店
出版年:2011年
漢文を読むための助字小字典『漢文を読むための助字小字典』
(三浦勝利 著)
出版社:内山書店
出版年:1996年
漢文の読みかた『漢文の読みかた』※外部サイトに飛びます
(奥平卓 著)
出版社:岩波書店
出版年:1988年
漢文の語法『漢文の語法』
(西田太一郎/齋藤希史,田口一郎 校訂/齋藤希史 解説)
出版社:KADOKAWA
出版年:2023年

(なかがわ・さとし 立正大学)

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