読書の流儀

投稿者: | 2023年1月16日

西澤 治彦

 

■研究者と読書家

 世の中には、猛烈な数の本を読んでいる読書家というのがいる。そういう人に比べれば、私はそれほどでもない。かといって、別に必読書だけを効率よく読んできたわけでもない。読むべき本でまだ読んでない本は山ほどある。しかし一生の時間には限りがあり、どこかで折り合いをつけなければならない。
 しかも、私が専門とする人類学では、フィールドワークにも時間を割かなければならないし、何よりも、研究者としては、知識のインプットだけでなく、自分の考えたことのアウトプットが求められる。研究者は、読書家と同時に、文筆家でなければならない。文献研究かフィールドワークか、本を読むのか本を書くのか、限られた時間の中で、常にその配分を考えながら、今日まで来たというのが正直なところである。それでも、研究という仕事をしている以上、ある程度の本は読んできたと思うので、読書の流儀を語る資格はあろう。ここで、自分なりのこれまでの読書について、振り返ってみたい。

■滋養としての読書

 読書家というと、一般には小説などの文芸書や文芸評論、あるいは教養としての歴史や思想などの本を多読している人のイメージがある。私の場合、小説や詩集から読書の世界に入ったとは思うが、高校以降は、面白そうな本を手当たり次第に読むようになった。いわゆる乱読というやつで、体系的な読み方ではなかった。当時の時代風潮の影響もあり、マルクスの『共産党宣言』や、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』なども読んだ。今にして思えば、若くしてマルクス主義の洗礼を受けたことにより、一つの世界観、歴史観として、批判されるべきグランド・セオリーというのを体得できてよかったと思っている。若い時に読む文芸書が感性を磨くとすれば、社会科学の研究書は知性を磨くといえる。
 大学に進学してからは、専攻は一応、中国文学であったので、現代文学なども読まされたが、白話小説の面白さにはかなわなかった。また宮崎市定の『科挙』などを通して、日本の東洋学の奥深い世界を知るようにもなった。さらに、学生時代の東南アジアへの貧乏旅行を機に、文学から人類学に興味をもち、授業にも真面目に出ないで、社会科学関連の本を読みあさるようになった。レヴィ=ストロースの『構造人類学』『野生の思考』などが私の世代にとっては、人類学への入口であった。
 このほか、和辻哲郎の『風土』、九鬼周三の『「いき」の構造』、ベネディクトの『菊と刀』、土居健郎の『「甘え」の構造』、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』など、日本文化を含め、文化とは何か、という本も熱中して読んだものだ。文芸書では得られない知的な興奮が社会科学の研究書にはあった。冬の寒い夜長、炬燵に入って時間の経つのも忘れ、一行ずつ味わうように読んでは、面白いところに線を引いたり、しばし活字から視線を上げて思索に耽り、思ったことを余白に書き込んだりした。この頃に読んだ本の中には、ショーペンハウエルの『読書について』もあり、自分の本の読み方が間違っていないことを再確認したものだった。
 今にして思うと、この時期のこれらの読書は、本の深い読み方や、論理的なものの考え方など、研究者として必要な素質を養う上で、血となり肉となる滋養をたっぷりと与えてくれたと思っている。古典はいつ読んでもいいものであるが、まだ頭の柔らかいうちに読んでおくのは、その後の人生にとって大きな財産になると思う。
 というのも、本を読みながら脳が知的な興奮で活性化され、本から栄養を吸収している、という実体験をしておくと、年を取ってからでも、そういう本に出会うと、若い頃の脳に戻れるからだ。というか、名著にはそうした力がある。若い時に読みそびれてしまった内藤湖南の『日本文化史研究』とか、津田左右吉の『シナ思想と日本』などもそうだし、ブローデルやルゴフなど、アナール学派の著作も、読みながら若いころの知的興奮を思い起こさせてくれた。

■さまざまな本とその読み方

 一口に本と言っても、万人が認める古典から、専門書、話題の新刊本といろいろある。当然、本によって読み方も違ってくる。やはり長い間、読み継がれてきた本にはそれなりの面白さや奥深さがある。私は今でも学生に、中国人社会のことを理解したかったら、私の書いたものはいいから、先ず『水滸伝』を読みなさいと言うようにしている。
 研究を仕事とすると、読む本が変わってくる。外国語で書かれたものも含め、一般の書店や図書館には置いてないような専門書や論文、一次資料などを読む時間が増える。こうなると、読書はある意味、仕事となり、如何に早く書いてある内容をしっかりと理解し、その中から自分の研究にとって重要なところを選び出せるか、にかかってくる。重要な本や論文は精読するが、そうでもない場合は、速読というより、斜め読みもやむを得ない。
 こうなると、楽しみとしての読書の時間がとれなくなる。私にとっては、生命科学や宇宙物理学などの理系の啓蒙書を読む時ぐらいしか、仕事から離れて楽しみながら読書をすることがなくなってしまった。
 では、古典だけ読めばいいかというと、そういうものでもない。ルネッサンス期のヨーロッパや宋代の中国に住んでいるわけでもないので、ギリシャ・ローマの古典や、四書五経だけを読み、自分が生きている同時代の本に全く関心を示さないというのも、どこか時代錯誤的である。話題の新刊書にも、面白い本はある。但し、つまらないと思ったら無理に読む必要はない。蔵書の整理で最初に処分するのは、移りゆく時代の空気を反映したこれらの「際物」であるが、新刊書は情報源として読み流せばいいと思う。
 学生の頃に読んだ宮崎市定の随想である「読書目録」の中に、「本は身銭で、読むべかりけり」「本は貰って、読むべかりけり」「本は題だけ、読むべかりけり」「本は本屋で読むべかりけり」という言葉があった。それぞれ、「精読」、「貰い読み」、「積ん読」、「立ち読み」を指しているが、本に合った相応の読み方をすればいい、ということである。
 人生のどのタイミングでどの本と出会うか。教科書のような強制もあれば、人の勧めもある。リストに挙げられた古典との出会いは必然ともいえるが、それを読むかどうかは、偶然もある。しかも、その本を面白いと思うかは、その時の年齢やそれまでの人生経験にもよる。例えば、ヘロドトスの『歴史』や『源氏物語』などは、ある程度の経験を積んでからでないと、本当の味わいは分からないものだ。こうしたタイミングというのが、本との出会いにはある。私自身、ある時期に別な本に出会っていれば、今とは違う人生を歩んでいたかも知れない、と思うことがある。

■読書の意義とバランス

 中国語で「読書」というと、本を読むほかに、学校で勉強するという意味がある。「読書人」と言えば、知識人のほかに、かつては科挙試験を目指す人々を指した。現代の日本語の「読書」や「読書人」にはこうした意味はないものの、やはり一生の間の長い時間、本を読むことに時間を費やす人というのは、全体からみたら特殊な人たちになろう。読書離れが進み、街から本屋や古本屋が消えようとしているのは、本好きの人間としては寂しい限りであるが、今後もこの傾向は進むであろう。おまけに、若い世代ほど、ネットからの情報蒐集が主流となりつつある。焼き直しや何倍にも薄められた断片的な情報をいくら得ても、思索の滋養には決してならない。
 ビックデータやAIの時代になると、「読書人」や「知識人」という言葉すら、急速に死語となりつつある。近年になって、これにとって代わられている「専門家」は、スペシャリストであって、ジェネラリストではない。
 それでも、ごく少数派になるとはいえ、本の魅力に取り憑かれ、本を読む人々が絶えることはないであろう。やはり、本にはそれなりの価値があるのだ。
 かつて『フィールドワーク――中国という現場、人類学という実践』を編集した際、田仲一成先生がフィールドワークと文献研究との関係について、次のように述べられたことがある。文献というのは個々の人が一生かかって作った「フィールドワーク・ノート」のようなもので、人が書いたものを集めたのを別にすれば、体験がなければ何も書けないし、人間なんて一生かかって一冊しか書けない。だから、文献を読むというのは、他人の「フィールドワーク・ノート」をたくさん読んでおくことになる。広い世界を渉猟することにより、細かいことは役に立たなくても、おおざっぱな地図を持っていることになる、と。
 本を読む効能は、知識を増やし、想像力を養うなどいろいろとあるが、本を読む意義はこの点に尽きよう。人が一生かけて得た体験や思索を、数日で追体験できるというのは凄いことだ。
 とはいえ、他人の「フィールドワーク・ノート」を読むだけで一生を終わっては、意味がない。本の世界にどっぷりと浸かっていた自分にとって、1970年当時の風雲児であった寺山修司の「書を捨てよ、町に出よう」(評論・戯曲・映画)は、まるで自分に向かって言われているような感覚があった。今から思うと、それだけ当時の若者は本を読んでいたということであろう。
 学部生の時、そんな私の葛藤を一気に解決してくれる一文に出会った。かつて代々木にあった東豊書店で、運良く、清代の李漁の作とされる『肉蒲団』の和刻影印本を手に入れた。中国文学を専攻していなければ、巡り逢うことのなかった本であろう。その第二回に、「要做真名士、畢竟要読盡天下異書、交盡天下奇士、遊盡天下名山、然後退藏一室、著書立言傳于後世」(真の名士になりたければ、詰まるところ、世界の異書を読み尽くし、世界の奇士と交わり尽くし、世界の名山に遊び尽くし、然る後に一室に退いて書を著わし、自説を後世に伝えることである)とあった。この一文に触れた時の、急に視界が開けたような衝撃は今も鮮明に覚えている。この場合の「異書」とは、珍本や儒家以外の書というよりも、さまざまな分野の本という意味であろう。『肉蒲団』の内容はここでは触れないが、まさに異書の一冊である。この一文は、本を読む時間は、人と交わる時間、及び世界を旅する時間と三等分すればいい、ということを明快に教えてくれた。しかも、最後は自分も書物を著わし、自らの体験や思索を後世に伝えることができれば、これ以上の人生はない、と。
 先学の本や論文を読んでいると、そもそも読んでいる本が自分と異なるし、読書量もとてもかなわないな、と思うことが多い。しかし、古典を別とすれば、時代が変われば、読む本も変わって当然だ。研究の進歩とはそういうもので、続く世代は前の世代の書いた本を読むことによって、その地平から出発することができる。その数が多いほど、知性は深みと広がりを増す。逆に言うと、これらの本を読むこともなく、ただ思いついたことを書くだけでは、一気に時代を後退してしまうし、世界も狭まってしまう。
 とはいえ、最後に自らの著作も残したければ、限りある時間を有効に使わなければならない。時間のある若い時に、滋養となる本をたくさん読んでおく意味はここにある。しかも、いいものに触れておくと、基準値も上がるので、本の価値も分かってくるし、自然と批判的に読めるようになってくるものだ。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

※この「流儀シリーズ」は全10回の連載として隔月でお届けします。 なお、連載化にともない、既に公開している卒論・査読・ノートの流儀も「流儀シリーズ」カテゴリに移動いたしました。

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