『日華学堂とその時代』評 高田幸男

投稿者: | 2022年7月15日
『日華学堂とその時代』

日華学堂とその時代
中国人留学生研究の新しい地平


欒殿武、柴田幹夫 編著
出版社:武蔵野大学出版会
出版年:2022年03月
価格 4,620円

中国人留学生受け入れにおける仏教という視点

 

■仏教人の「縁」が生み出した研究

 近年、中国人日本留学史研究は非常に活況を呈しており、日中双方の文献を駆使した緻密な研究によって、留学生をめぐるさまざまな実態が明らかにされてきている。本書は、日本が中国人留学生を受け入れ始めた草創期、その受け入れ校として1898年6月に設立され1900年9月まで存続した日華学堂とその関係者について、多角的に分析した論文集である。
 編著者の柴田幹夫は、今から十数年前、康有為の教育に関して調べていて、さねとうけいしゅう(実藤恵秀)『中国留学生史談』(第一書房、1981年)の中に日華学堂に関する記述を見つけ、その創立者で総監の高楠順次郎以下、多くの教員が西本願寺の普通教校などの卒業生で浄土真宗本願寺派(西本願寺)の僧籍を持っていたことに非常に関心を持ったという(本書「序章」15頁)。それは柴田自身が浄土真宗の僧侶であったためで、柴田は、実藤が日華学堂に関心を持ったのも同じく西本願寺の僧籍を持っていたためであろうと推測する(同上17頁)。実藤は高楠を通じて堂監宝閣善教の日記『燈焔録』、『行雲録』を入手して論考を執筆しているが、同様に柴田も、宝閣の姻戚である飯塚勝重から『日華学堂日誌』を入手し、ペンによる手書きを活字化して『新潟大学国際センター紀要』第9号に掲載し、武蔵野大学の欒殿武とともに本書を出版するに至ったのである。
 武蔵野大学は高楠が創立した武蔵野女子学院を前身としており、いわば本書は、高楠という仏教人から広がる「縁」の交錯が結実したものといえる。

■「中国人留学生史研究のスタート」としての日華学堂

 本書は以下のような2部構成をとる。
 第Ⅰ部 日華学堂とその時代
   Ⅰ 留学生派遣の背景
   Ⅱ 日華学堂の教育と経営
   Ⅲ 日華学堂の学生たちの生活
   Ⅳ 日華学堂の学生たちのその後
 第Ⅱ部 資料編
 第Ⅰ部には柴田の「序章」、欒の「終章」のほか、12篇の論文と8篇のコラムを掲載し、第Ⅱ部には「『日華学堂章程要覧』全文と解題」、「『日華学堂日誌』翻刻と解題」、「外務省外交史料館所蔵の日華学堂関連資料の目録と解題」を掲載する。
 「序章」で柴田は、日華学堂を研究する意義として3点を掲げる。すなわち『日華学堂日誌』、『燈焔録』、『行雲録』という一次史料が使用できること、高楠の仏教精神に基づく学校作りの原点であること、日華学堂自体が「中国人留学生史研究のスタートである」こと、である(同上18~19頁)。「スタート」とは原点の意であろうか。たしかに日華学堂をめぐる諸相は、中国人日本留学史の原点と呼ぶにふさわしい。以下、内容を上記Ⅰ~Ⅳに沿ってまとめてみる。

■留学生派遣開始をめぐる日中の思惑

 Ⅰでは、日華学堂が受け入れた官費留学生の派遣元について考察する。実藤『中国人日本留学史稿』(1939年)以来、最初の派遣留学生とされてきた13人は、駐日清国公使館の招致によるもので、派遣元である清国の明確な留学生派遣政策にもとづくものではなかった。呂順長は、第一章とコラム1、2で最初に正式な官費留学生を派遣した浙江省杭州の蚕学館やそれに続いた求是書院(浙江大学の起源)について、楊柳は第二章で上海の南洋公学(上海交通大学、西安交通大学の起源)について、欒殿武が第三章で天津の北洋大学堂と北洋水師学堂について、それぞれ各校の設立や留学生派遣の背景を分析する。
 注目すべきは、留学生派遣に対する日本側のさまざまな働きかけである。清朝の留学生派遣政策に対する矢野文雄駐清国公使の働きかけだけでなく、求是書院に対する杭州日本領事館の勧誘と支援など個別の学校への働きかけがあったことはすでに知られているが、とくにチャールズ・ダニエル・テニーの指導によりアメリカ留学を準備していた北洋大学堂や、フランス留学を準備していた北洋水師学堂が留学生を日本へ派遣する経緯は興味深い。とはいえ日中双方の史料による分析は、日本留学を日本が一方的に誘導したのではなく、日中双方の思惑の結果であることを示している。呂のコラムで、留学生派遣に関与した孫淦のような商人、山本梅崖のような儒学者を紹介していることも興味深い。

■日華学堂の位置づけと仏教人

 Ⅱでは、麓慎一の第一章と欒のコラム4で高楠順次郎の日華学堂設立の経緯を、王鼎が第二章で堂監中島裁之について、柴田が第三章で同じく宝閣善教について、そして胡穎が第四章で日華学堂の経済面について考察し、また柴田がコラム3で「反省会」から『中央公論』への流れについて紹介する。
 高楠は当時の外務次官小村寿太郎の依頼で求是書院(史料中では「求是学院」)派遣の留学生が帝国大学・高等専門学校へ入学するための「予科トシテ」日華学堂を設立し、そのため官立学校ではないにもかかわらず外務省への報告義務があった。経済面からみると留学生の費用に関する資金源は派遣元の中国側だが、学堂の経費は外務省から支給されており、「日華学堂は独立した私立学校ではなく、あくまでも外務省の監督下に置かれている留学生の教育機関であった」(本書Ⅱ第四章181頁)。だが順調な成果を強調する外務省への報告と異なり、実態は多くの問題を抱えていた。学生には待遇への不満や健康問題があり、留学先の日本への変更は、日本語が不得手な学生の東京専門学校(早稲田大学の前身)英語政治科への転校問題を引き起こす。そして義和団事件による留学生の動揺は、日華学堂の活動を縮小させることになる。
 日華学堂の堂監を数か月務めた中島に対しては、先行研究が北京東文学社時代に集中していたのに対し、本書では「清国万里踏査」や大谷光瑞への随行などにみる中島の行動力とそれによって築かれた人的ネットワークが日華学堂の諸活動を支えたとし、中島から堂監を引き継いだ宝閣に対しては、教団の近代化に努める浄土真宗西本願寺で、プロテスタント系の「強力なライバル校」同志社に対抗して、高楠らとともに「反省会」運動を展開し、日華学堂の諸活動にも「全身全霊を傾けて」参加したとする。

■学生の日常生活や諸活動

 Ⅲでは、欒が第一・第二章で日華学堂における日常生活と外出・「転地勉学」について考察し、鄭海洋がコラム5で日華学堂から東京専門学校へ進学した学生について、呂程がコラム6で同じく一高・帝大へ進学した学生について紹介する。欒は、学生の増加で寄宿舎が移転を繰り返したこと、寄宿生活は厳格に管理されていたが、中華料理へ配慮していたこと、外部との隔離への不満に対して中島や宝閣が頻繁に学生を引率して外出し、那須への転地勉学も実施されたことなどから、高楠の教育思想の平等意識、学生の要望への柔軟な対応などを指摘する。
 Ⅳでは、郭夢垚が第一・第二章で日華学堂学生の励志会等における翻訳その他の活動について、欒が第三章で碩儒呉汝綸の訪日視察における中島や章宗祥ら日華学堂の活躍について考察し、王鼎がコラム7で日華学堂学生の自立軍蜂起(1900年)への関与について、郭がコラム8で同じく清国留学生会館との関わりについて紹介している。郭は、各予備学校に分散していた留学生の交流の場として励志会が結成され、翻訳・出版・留学生の支援など展開し、翻訳活動はやがて「翻訳熱」を巻き起こしたとする。また欒は呉汝綸の来日を提案し、呉を説得して推進したのは中島ではないかと推測し、中島に代わって通訳した日華学堂出身の3人のうち、呉振麟の日本語能力・筆記能力を高く評価する。
 ⅢとⅣは、欒と郭がそれぞれ留学生の日常生活や翻訳活動に関する自身の研究蓄積のうえに、日華学堂を考察しており、日本留学初期の模索がよく示されている。

■日華学堂からなにがみえるか

 以上、第Ⅰ部のⅣまでを概観してきた。「終章」で欒殿武は日華学堂出身者が帰国後に4つの「分野」(清末教育近代化、アメリカ再留学、立憲運動、官僚・外交官)で活躍したとして実例を列挙する。だがこれは分野ではなく、進路である。日華学堂は高等教育のための予備学校、孵卵器であり、そこから多くの若者がさまざまな進路に飛び立ったとしても、そのすべてが孵卵器の功績であるとはいえない。
 本書は日華学堂に焦点を当てた草創期中国人日本留学の緻密な総合研究であるが、残念ながら、日華学堂の研究を通じてなにがみえるか明示していない。最後にその点について確認しよう。
 まず中国人日本留学の発端が日華学堂の創立の経緯に示されている。「最初の13人」のあとを継ぐ本格的な留学生派遣が、日清両政府や督撫、日本領事館、孫淦のような商人、高楠ら日本の仏教人といった官民のさまざまな思惑の交錯により実現したことが、日中の一次史料等により明らかになった。しかも、日華学堂の経営や教育活動、学生生活をみると、外務省による留学生の管理、待遇や健康をめぐるトラブル、そして本国の動乱による留学生の動揺といった、以後、中国人の日本留学をめぐってたびたび起こる問題がすでに出そろっているのである。
 そしてなにより興味深いのは、留学生受け入れ事業に対して日本仏教界が果たした役割である。評者は、日中の近代教育導入に果たしたキリスト教会の役割から、留学生に関してもキリスト教会との関連しか注意を払ってこなかった。だが、高楠ら仏教界の改革派が同志社に刺激を受け、また対抗して積極的に近代教育を導入していたこと、日華学堂に多くの仏教人が関与しただけでなく、高楠は日華学堂の設立を機に次々と学校を設立していったこと、そしてその日華学堂に最初に注目したのが仏教人である実藤恵秀だったことから、留学史研究における仏教の視点の重要性に気づかされた。
 ただ、柴田や欒は「仏教精神」を強調するが、それが留学生事業に果たした役割はキリスト教精神となにが共通しどこが違うのか、具体的な説明はなかった。高楠、中島、宝閣といった個性的な人びとに共通する仏教精神とはなんなのか知りたい。また仏教人は植民地朝鮮・台湾からの「内地留学」に関与したのかという問題も出てくる。
 なお付言すると、仏教精神とともに仏教人の人的ネットワークについて「終章」で論じてほしかった。人名索引だけでもあれば、人的広がりの一端が示せることができた。同様に、日華学堂留学生の一覧表や年表があればわかりやすく、かつ各論の叙述の重複を避けることができた。
 いずれにせよ、本書は草創期の中国人日本留学史をみるうえで不可欠の基本的文献である。

(たかだ・ゆきお 明治大学)

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