『中国文学の歴史』より 項羽、劉邦の楚歌

投稿者: | 2021年10月18日

『中国文学の歴史』(安藤信廣著)より一部抜粋

第二章 秦・漢代の文学
 一 秦漢帝国の出現 2 漢代初期の文学

◆楚歌の流行
 前二〇六年に秦が滅亡したときをもって漢王朝は発足したとされているが、前二〇二年のがい(安徽省霊璧県)の戦いで最大の敵であるこうに勝利したとき、はじめて漢王朝が実質的に成立した。漢王朝創立の当初は、楚の歌謡である「楚歌」が流行した。
 「楚歌」は、「楚辞」の伝統が色濃く残る楚の地方から生まれたもので、「けい」字を多用した短い歌謡である。抑揚の強い、激しい調子で歌われたと考えられる。「楚歌」の流行は秦代末期にははじまっていた。よく知られているのは、司馬遷の『史記』「項羽本紀」に記録されている項羽の「垓下歌」である。
 『史記』「項羽本紀」によれば、楚の項羽は、漢の高祖劉邦との連年の戦いのすえ、ついに劣勢に立たされ、垓下のとりでに立てこもった。漢軍と同盟軍は、圧倒的な兵力で垓下のとりでを幾重にもとりかこんだ。その包囲軍の中から、夜半、「楚歌」が聞こえてきた。楚は項羽の故郷であるが、敵の軍勢の中から故郷の楚の歌が聞こえてきたことにより、項羽は自分が完全に孤立無援になったことを知る。「四面楚歌」として知られる事件である。項羽は、最後の宴会をひらき、その席で即興の歌を歌った。「楚歌」の形式によるものだった。この歌が、「垓下歌」(ばつざんがいせいとして知られている。

力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何

力 山を抜き 気は世をおお
時 利あらず すいかず
騅の逝かざる かんすべき
や 虞や なんじを奈何せん

我が力は山を引きぬくほどに強く 気力は世をおおいつくすほど激しい。
だが時の運命は私に利無く 我が愛馬騅さえも もう進もうとしない。
騅の進まぬのを どうすることができようか。
虞よ 虞よ そなたをどうしたらよいのだろうか。

 「騅」は愛馬の名。「虞」は、虞美人。項羽に寵愛されて、激戦の地にも同行していたという。その「虞」への呼びかけという形で、歌は結ばれている。この末句は、疑問形とも、反語形とも見える。「虞よ そなたをどうしたらよいのか」という疑問の表現のようにも見えるし、「虞よ そなたをどうすることもできない」という絶望の表現のようにも見える。その激しく揺れる心中が、「兮」字のくりかえしと「奈若何」という言葉によって表現されているのである。
 「楚歌」は本来、南方で歌われた民謡だったと考えられる。こうした詩形で、激しい曲調によって歌われ、激動の時代を生きた人々の心情を描くものとなったのである。

◆勝利者の楚歌
 一方、項羽をたおして天下を統一した劉邦も楚の文化圏から身を起こした人なので、彼が天下統一の後につくったとされる「大風歌」もやはり「楚歌」の特徴をそなえている。

大風起兮雲飛揚
威加海内兮帰故郷
安得猛士兮守四方

たいふう起こりて 雲よう
かいだいに加わって故郷に帰る
いずくにか猛士を得て四方を守らしめん

大いなる風が吹きおこり 雲は空を飛んでゆく。
我が威力は天下に加わり いま私は故郷へと帰ってきた。
どこで猛き武士を手にいれ 天下の四方を守らせたらよかろうか。

 天下を統一した後、故郷のはい(江蘇省沛県)に帰ったときの作と伝えられている。第一句と第二句は、雄大で鮮明な表現である。だが末句は、「猛士」を手に入れて天下を守らせたいという強い意志の表現のようにも見えるし、逆に、「猛士」を手に入れることができるだろうかという一抹の不安の表現のようにもみえる。帝王としての壮大な意志と、ふと心をよぎる不安の表裏した心中の表現と、解することができるだろう。勝利者の側の楚歌にも、こうした心の揺れが描かれているのである。

 

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