香港本屋めぐり 第32回

投稿者: | 2025年8月25日

Kubrick

九龍半島の油麻地(ヤウマデイ)エリアといえば、最近日本でヒットした香港映画『トワイライト・ウォリアーズ 決戦! 九龍城砦』(原題『九龍城寨之圍城』)のロケ地の一つとして知ることになった人も多いのではないだろうか。香港に不法入境してきた陳洛軍(チャン・ロッグワン)が一時身を寄せていたのが油麻地の「果欄(グオラン)」――果物の総合卸売・小売市場だ。彼は追手を逃れてここから脱出し、九龍城砦に入り込むことになる。

今回紹介する書店「Kubrick」はこの果欄から徒歩でほんの数分のところで、まず目に入るのは「‪百老匯電影中心」という3階建ての映画館だ。その1階に正面がガラス張りのKubrickがある。

 

▼開店の経緯

店名「Kubrick」は米国出身の映画監督――スタンリー・キューブリックから取られている。つまり、この書店と映画は切っても切り離せない関係にあるのだ。2001年の開業からまもなくこの書店に勤務し、現在店長を務めているアマンダさんに話を聞いた。

アマンダさん、午前の開店準備

香港映画ファンなら「安樂影片(オンロッ・インピン)有限公司 (Edko Films Ltd.)」という映画制作・配給会社の社名を目にしたことがあるだろう。制作・配給の他に、香港で「百老匯院線(バッロウウイ・ユンシン/Broadway Circuit)」という映画館グループを運営している。この「安樂影片」の経営者――江志強氏がKubrickの創業者だ。

江氏は30年ほど前から、一般の映画館ではかからないようなヨーロッパなどを主とする芸術映画を上映する映画館を開きたいと考えていた。そうしたところ、油麻地に駿發花園という小規模団地が建設され、その一角にある公共空間としてのビルに1996年、「百老匯電影中心」を開設した。江氏は「映画館には、映画を観に来た人々がくつろげるレストランや、そこで映画関係の本がひもとける書店があるべきだ」と考え、映画館に併設する形でレストランを開き、他のスペースに香港の著名な映画評論家――舒琪(シュー・ケイ)氏が映画専門書店「壹角度書店(P.O.V. Bookstore)」を立ち上げた。その後の一時期、ブルース・リー(李小龍)の記念館「小龍館」も設けられていた。

やがて「壹角度書店」は店を閉じ、映画館の開館から5年を迎えた2001年、江氏はレストランと書店が一体化したKubrickを新たに開設。CD・DVDショップも設けられた。世界の映画監督の中からスタンリー・キューブリックの名を店名に選んだのは、その作品群の多様性が輝いているからだという。また2001年という年はキューブリックの『2001年宇宙の旅』という作品にも繋がるものがある。

映画に関する書籍が豊富に

 

ヒット作だけではなく世界各国の劇映画・ドキュメンタリーなども並ぶDVDなどディスクコーナー

 

▼店長・アマンダの経歴

アマンダはマカオ出身。マカオの大学ではホテル管理学と経営学を学び、卒業後は若くしてレストランチェーンを運営する企業グループの人事部長を務めていた。その後、香港人の男性と結婚して香港で暮らすことになるが、その前にヨーロッパを2人でバックパックを背負って長い旅をした。ホテル管理学を学んでいたので、ヨーロッパにどのような著名なホテルがあり、どのレストランの評判が良いかということは熟知していた。しかし、イギリスのケンブリッジ大学やドイツのヨハネス・グーテンベルク大学などの文化的な街並みに触れ、もう一度このようなところで学びたいと思ったものの現実的ではない。マカオか香港に戻ったら、これまで学んだことのない博物館学でも学ぼうと考えた。

香港で暮らし始め仕事を探していた時、ある書店が書店員を募集していると聞き、面接に。それはKubrickが開店して数か月後のことだった。彼女はめでたく採用され、今日までKubrickで20数年を過ごすことになった。

 

▼出版活動も

2003年には出版業にも乗り出している。初の出版は葉志偉著『突然獨身』。男性の同性愛をテーマとする小説だった。Kubrickの出版の特徴は、著者には執筆だけではなくその版組やデザインなどを任せること。Kubrickは最初の校閲と編集のサポート、出版後の流通に力を入れる。著者に自由に作ってもらいたいと考えている。

下はKubrickの自社出版の書籍のリスト。
https://kubrick.com.hk/kubrick-publication.html

そのテーマは映画はもちろん、文学・アート・社会的課題・旅行・ライフスタイルなど多岐にわたる。
書架に並び、テーブルに平積みされている多くの本も基本的にこのようなテーマのものが多い。開店当初は経済書やビジネス書も並んでいたが、アマンダは「このような本はKubrickには似合わない」と考え、全て撤去した。本の仕入れとその選択も彼女が担当していたが、徐々に忙しくなり手が回らなくなる。そうしていたところ、2004年にDVDコーナーの店員として採用された女性がとても本が好きだとわかり、彼女に「本の仕入れを担当してみない? その選択も任せるから」と持ちかけたところ承諾してくれて今日に至っている。香港の大手出版社や台湾の本、また外国の本や雑誌(日本の雑誌も並んでいる)の他に、香港の小規模出版社の本や雑誌も並んでいるのは、全て彼女の目配りの成果だという。ただ、彼女は間もなく外国に移民してしまう。今後どうするか? アマンダは「どうしましょうね」と屈託なく笑うが、悩みの種に違いない。

 

店内の様子

 

▼店内のデザイン

今、店内はレストランのスペースと書店が一体化している。これは2011年に行った大改装の結果とのこと。それまでは壁で仕切られていたそうだ。レストランのテーブルは木の素材が生かされている。書店部分のテーブルの下には大きな車輪が。この車輪は近くの「果欄」が運搬用に使っている台車のものを活用。これら全てアマンダとインテリア・デザイナーが話し合いながら決めたものだ。かなり大規模な改装でコストもかかったが、「2011年の香港はまだ景気がよかったですから」と。レストラン側では、その壁を利用して香港の画家や写真家の展覧会も開催している。

書店とレストランが一つの空間に

平積み用のテーブルの車輪は近くの「果欄」から

レストランの壁を活用した展覧会

 

▼イベント開催 中国大陸にも進出

Kubrickが開店した21世紀の初頭、香港では大型書店も店内でイベントを開くことは少なかったという。小さな書店はそもそもスペースがない。その中でアマンダの発案により、アーチストや作家が数か月にわたり連続してKubrickでワークショップやトークショーを開くというイベントを始めた。今はその折々の単独のイベントになっており、映画に関連するものは映画館のスペースを使って開催している。

各種イベントは、書店・レストランスペースだけではなく、映画館のフロアにあるスペースに椅子を並べるなどして開催される

Kubrickは実は、映画館のブロードウェイグループの中国大陸への進出に合わせ、中国各地に書店を開いていた。北京、杭州、重慶、深圳、上海に。その運営は基本的にそれぞれの都市の責任者に任せているが、中国大陸の政策の変化などもあり、2025年8月現在では北京店と上海店が営業中だ。

北京市の東直門にあるKubrick(庫布里克)北京店。映画関連やアート系の書籍が充実。今年(2025年)でオープン16周年を迎えた。

 

▼今後の展望

結びに、Kubrickの今後の展望をアマンダに尋ねてみた。「私はここの経営者ではないので、なんとも言えません。経営者(江氏)がどう考えるかですね。彼は今も映画に投資していますが、香港での映画産業の状況は厳しいものがあります。映画館も減っていますし。私の立場でできることを可能な限りしっかりやっていく、ということになりますね」

Kubrickはアマンダの努力の甲斐あって、映画好き、文学好き、本好きの市民の聖地のようになっている。この書店を背後から支える映画産業の復興も祈りたいところだ。

取材:2025年7月、8月

 

▼アマンダさんのお勧め

『穿KENZO的女人 — 音樂劇劇本集』

著者:岑偉宗
出版社:藍藍的天
初版:2024年7月
ISBN:9789887011491

音楽家・作詞家・翻訳家である著者、岑偉宗が、香港のコラムニスト、鄧小宇(ペンネーム、錢瑪莉)原作の小説『穿KENZO的女人』をもとに作り上げたミュージカルの脚本集。小説は、香港の1970年代、ビジネスで活躍する錢瑪莉という女性の自伝形式で書かれており、彼女を中心とした4人を軸に香港の女性たちの喜怒哀楽に満ちた日常生活を歌い上げている。

ミュージカルのトレイラー
https://youtu.be/qerPTCTSMc0

 

『香港字二百年——從世一、大白象至世界文化遺產之路』

作者:翁秀梅
出版社:Kubrick
初版:2025年05月01日
ISBN:9789887993773

著者の翁秀梅は香港の版画家。多くの文化イベントのキュレーターも務めてきた。
「香港字」は、19世紀半ば、主に聖書を中国語で印刷するために香港で鋳造され、ヨーロッパでも広く使われていた活字。しかし20世紀に入ると他に多くの種類の活字が生まれ「香港字」は徐々に使われなくなり、忘れ去られていった。翁秀梅はこの活字をヨーロッパで「発掘」し、その展示イベントなども開催し、香港の文化遺産となった。

香港の小説家、董啓章はその展示イベントに触発され、小説『香港字: 遲到一百五十年的情書』を書き下ろし2021年に上梓している。

 

書店情報

kubrick (油麻地店)
住所:九龍 油麻地 眾坊街3號 駿發花園H2地舖
営業時間:
11:30-22:00

 

House by Kubrick(太古城)
香港島の太古城にある百老匯グループの映画館にある支店、House by Kubrick。基本的にはカフェだが、書籍を中心とした展示イベントも開催されている。

住所:香港 太古城道18號 太古城中心五樓 MOViE MOViE 戲院大堂
営業時間:
月〜金 10:00 – 20:30
土・日・祝日 9:00 – 20:30

 

ホームページ
https://kubrick.com.hk/

Facebook
https://www.facebook.com/kubrick.hk.2001

 

Google Map 香港本屋めぐりMAP

 

写真:大久保健・和泉日美子

―――――

大久保健(おおくぼ・たけし) 1959年北海道生まれ。香港中文大学日本学及び日本語教育学修士課程修了、学位取得。 深圳・香港での企業内翻訳業務を経て、フリーランスの翻訳者。 日本語読者に紹介するべき良書はないかと香港の地元書籍に目配。訳書に『時代の行動者たち 香港デモ2019』(白水社、共訳)。

和泉日実子(いずみ・ひみこ) 東京、北京で出版社勤務後、2018年から3年間香港在住。 2022年より北京在住。趣味の街歩きや旅行を通して、中国の書店めぐりをしている。

LINEで送る
Pocket